玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

決して老後ではない

2016-01-27 14:29:49 | 日記

老後とは言わない。まだ、老化している途中であるから。余生と云うほどの達観もない。かといって、今の状況を何と言えばいいのか。格好つけて「立ち止まっている途中」とか言いたいけど、それはまだ先がある若者の云うセリフであろう。かつて二十代に失業を経験したことがある。あえて言うならば、今の私の状況は、「仕事がないことを焦っていない無職」とでも言っておこう。

現役時代、暇になったら、やることをいくつか決めていた。その中に、若い頃に記憶に残った本をもう一度読み返すことがあった。漱石の三部作の中では一番印象の薄い『それから』を読んだ。他人によく勧めていたA・C・クラークの『幼年期の終わり』も読み返した。年齢を重ねれば、その読後感も変わるものと期待していたが、自分の実際に見てきた事象と離れたものに感じた。

そういえば、藤村の『夜明け前』を読んでいなかったと、寝る前の睡眠薬かわりにKOBOで読み始めたが、アレアレ、これは従来の藤村と違うようで、幕末の歴史物語であった。藤村の書いた時代から、現在では幕末の見方や新しい資料も続々と発見されているので、今読むと意見を異にすることもあり、彼の文豪と知恵比べをするようで、結構楽しい読み方ができる。

そういやぁ、大磯には藤村の晩年の棲家があった、け。

私には、死ぬまでに、まだやりたいことが幾つかある。その中の一つに、高校時代に全く理解できなかった数学、特に、それは「微分」から始まったのだが。今でも思い出すのは、教壇の上でバカでかい靴でバタバタ歩く数学教師が、ある日突然、黒板にf(x)と書き始めた。その一瞬、黒板全体が白墨のf、f、f・・・の模様のように見えたものさ。その時、俺は何をしていたのだろう。きっと、ただ茫然として、誰もいない校庭を眺めていたにちがいない。

その日から、私の人生の半分の世界が閉ざされたというのは些か大げさかな。兎も角、理数系の世界への道が閉ざされ、余儀なく文化系の学部に進むことになった。

しかし、「微分」という日本語訳は、あの当時の高校生には到底理解できない概念であろう。少なくとも、あの数学教師には、その意味を的確に説明できる力がなかった。今更に、数学を勉強する意欲はないが、少なくとも、この言葉の意味ぐらいを知りたい、理解したいと思っている。自分だけのきっかけによる自己満足のために、さ。 

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ヒトの死は二人称の世界

2016-01-20 23:44:23 | 雑感

・・・先日の日テレ『深層NEWS』で養老孟司氏がこんなようなことを云った。「自分の死は、一人称である自分はそのことを知り得ない。自分の死は、その死に対面し、その者の一生の意味を悲しみとともに受け止めてくれるのは、せいぜい家族、仲の良い友人という限られた範囲、日頃からあなた・君と呼び合う二人称の関係だけである。今こうして話している瞬間にも、人は一秒ごとに何人も死んでいく。それを我々はどう受け止めているのだろうか。人々の死は、彼、彼女、知人、有名人、という括りの中の三人称という関係では、単なる〇〇さんが死んだという事実だけであろう」まあ、ざっとこんな意味のようなことを喋っていた。確かに解りやすい言葉の譬えであった。

その彼が、「自分は終戦の時は小学2年生だった。一億総玉砕・本土決戦が一夜にして変わって、真っ黒に塗られた教科書を持って学んだが、存外に日本は亡びず、今も繁栄している。人は言葉というルールにとらわれ過ぎている。言葉だけで世の中が変りますかね?今の憲法を墨く塗っても私は驚きません。言葉で世の中変わらない、変るのはヒトだけ」そんなようなことも言っていた。私はどうも彼のこの意見は解らない。だいたい、何を云いたいのか、よく解らない。彼は、世の中に、ルールが無くても大丈夫、みんなルールを気にし過ぎると云っているのだろうが、憲法というルールが無くても大丈夫と云っているように受け取られかねない。

そこで、司会者は最近の安倍首相の安保法案に関する国会答弁はどうかと尋ねると、昔からそういう方面はあまり聞いていないと、にべもない返答だった。自分が公共電波で発する言葉が怖かったのではないだろうか。言葉は時には力ともなるし、個人を押しつぶす脅威ともなりうる。彼も言葉の威力は十分に認識しているのだが、幾分自分流の論理を強調し過ぎるようである。まあ、テレビでのほんの一コマの会話で批判するのもなんだから、近いうちに『バカの壁』をブック・オフで買って読むことにしょう、と!

 

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THE DOOR IN THE FLOOR(2004年)

2016-01-13 18:49:00 | 映画

 随分奇妙な題名、よく考えると、思わせぶりで、ふざけた題名でもある。話の筋は、小説家志望の若者(ジョン・フォスター)が勉強のために、ひと夏小説家(ジェフ・ブリッジ)の家庭に助手で雇われるという設定で始まる。小説家は児童の絵本を書くのが好きだと云いながら、素人モデルを弄び、一方、美人の妻(キム・ベイシンガー)は死んだ息子が忘れられず、息子に少し似た若者に徐々に心を開いていく。結局、見る側の予感の通り、美人妻は失った息子への近親愛的に、若者は大人の男になる階段として、関係ができる。夫である小説家にとっては、失意の妻へのカンフル剤として若者を妻に与え、また、そうなることを予期していたのだが、いざ二人に関係ができると、心穏やかではいられない。とどのつまり、それぞれの闇を抱えた者たちの性的な交錯がテーマの、世にごまんとある、ありふれた映画である。ところが、この映画は最初のシリアスな出だしから、途中でコメディになっていく。

一つのシーンで小説家がこう云う。「小説は、読み手の側に先を想像させて、予感を持たせる。そして裏切るんだ。だが、うまく読者を導かねば、それも作家の技量だ。つまり読者を操るんだ。読者をストーリーに引きずり込むには、細部(ディテール)はより具体的に書き込むことで、読者の頭の中に場面が現れる。」というようなことを云う。多分、これは原作者(ジョン・アービング)の言葉であろう。

また「小説の構成要素は道具だ。痛み、裏切り、死さえもその道具だ」とも言う。息子の死というシリアスな題材にして、小説家の滑稽感のある色狂い、妻の代替的近親性行為、少年から抜け出せない若者、それらが小説家の道具であった。

最後、細部(ディテール)の具体化は、息子の死の交通事故では、生々しい映像は避けられ、具体な言葉で語られるが、どこかこじ付け的な内容で、コメディの流れの中で浮いている感が残る。息子の死を具体に表現すれば、より造りごとに見えてしまう。そう見えたのは、私の独特の見方かもしれないが。

この映画の最大にして、一番の欠点は、五十歳にしてなおセクシーさが残るキム・ベイシンガーの若者との絡みシーンが、日本放映の段階で、ぼかし過ぎてしまい、映像そのものが台無しにされてしまったことである。

ラストの場面では、建物二階のフロアにスカッシュのコートをつくり、その床にドラえもんのようなドアを造っていた。まさに奇妙な題名の具体化であった。まあ、話題作ではなくても、映画はいろんな楽しみ方ができるものだ

Door In The Floor - YouTube

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2016年が始まる

2016-01-04 22:10:56 | 雑感

今年は、どうやら暖冬らしい。年寄には有り難い。尤も、旧暦では2月の上旬が正月であったということだから、これから本格的な冬将軍がやってくることも覚悟しなければなるまい。正月の街では、早くも民主党の議員が駅頭演説をやっていた。次の参議院選挙を目指しての党勢の復活への意気込みだと思うが、喋っている内容が、派遣法の改正や足りない介護の話だった。しかし、街を歩く人の足を止めたいと思えば、今は、憲法改正か安保法制しかないだろう。

当人は現職衆議院議員だが、そのセンスのなさに改めて驚いた。誰も聴衆のいないマイクを握るに値する程度の人物に相違ない。「そんな事やっているから、駄目なんだ。野党で、あの人数で、既に決まった法律をどうやってひっくり返すつもりなのか?結局単なる愚痴だろう。一年の最初なのだから、これからの若い人の将来を左右するもっと大切なことを政党を代表して表明するべきだ」と立ち寄って、忠告する気にもならない。

もう民主党は消える党名なのだろうか。かつての社会党や新生党や新党さきがけのように。政党の名前よりチョコレートやカレーの商品名の方が遥かに長続きするのが、この国の政党政治の現実である。

今年は、政治も、経済も、世界も、大きく変わる一年になりそうな気がする。2016年はゆっくりとあたりまえに始まったようだ。

◆年末は浅草寺に、年始は増上寺に行った。

 浅草寺

 定番の梅園(粟ぜんざい)と喫茶アンジェリカ(ケーキ)

 増上寺

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