老後とは言わない。まだ、老化している途中であるから。余生と云うほどの達観もない。かといって、今の状況を何と言えばいいのか。格好つけて「立ち止まっている途中」とか言いたいけど、それはまだ先がある若者の云うセリフであろう。かつて二十代に失業を経験したことがある。あえて言うならば、今の私の状況は、「仕事がないことを焦っていない無職」とでも言っておこう。
現役時代、暇になったら、やることをいくつか決めていた。その中に、若い頃に記憶に残った本をもう一度読み返すことがあった。漱石の三部作の中では一番印象の薄い『それから』を読んだ。他人によく勧めていたA・C・クラークの『幼年期の終わり』も読み返した。年齢を重ねれば、その読後感も変わるものと期待していたが、自分の実際に見てきた事象と離れたものに感じた。
そういえば、藤村の『夜明け前』を読んでいなかったと、寝る前の睡眠薬かわりにKOBOで読み始めたが、アレアレ、これは従来の藤村と違うようで、幕末の歴史物語であった。藤村の書いた時代から、現在では幕末の見方や新しい資料も続々と発見されているので、今読むと意見を異にすることもあり、彼の文豪と知恵比べをするようで、結構楽しい読み方ができる。
私には、死ぬまでに、まだやりたいことが幾つかある。その中の一つに、高校時代に全く理解できなかった数学、特に、それは「微分」から始まったのだが。今でも思い出すのは、教壇の上でバカでかい靴でバタバタ歩く数学教師が、ある日突然、黒板にf(x)と書き始めた。その一瞬、黒板全体が白墨のf、f、f・・・の模様のように見えたものさ。その時、俺は何をしていたのだろう。きっと、ただ茫然として、誰もいない校庭を眺めていたにちがいない。
その日から、私の人生の半分の世界が閉ざされたというのは些か大げさかな。兎も角、理数系の世界への道が閉ざされ、余儀なく文化系の学部に進むことになった。
しかし、「微分」という日本語訳は、あの当時の高校生には到底理解できない概念であろう。少なくとも、あの数学教師には、その意味を的確に説明できる力がなかった。今更に、数学を勉強する意欲はないが、少なくとも、この言葉の意味ぐらいを知りたい、理解したいと思っている。自分だけのきっかけによる自己満足のために、さ。