玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

とにかく議論がない圀

2023-05-31 15:27:55 | ブツブツ

この圀は議論ということをしない。

我々戦後派は公立中学のホーム・ルームの時間で議論することを習った。それが民主主義の始まり、基本だとも教えられた。公立高校も同じ路線だった。大学は在籍したが殆ど七〇年安保で行っていないので知らない。

社会に出る時に解った。体育会系の学生が就職に断然有利であると。

その理由は上の者に文句も言わず、黙って働く、しかも丈夫である。それが理由だった。その時から、戦後世代にも「議論」まして「批判」は死語になった。

今世の中を見るに、大人の議論というモノがない。

原発がどうしても要ると云うなら、その理由の説明すらない。軍備が要ると云うなら、その必要の根拠も云わない。言わないんだから議論のしようがない。

国会は、本来は議論の場だが、官僚の演出の糞つまらない討論劇でしかない。

東大用語でやり合い、何処が本質かおバカな我々にはまるで意味が解らない。

こんな政治じゃ国の活力がなくなるわけだ。当然この国は衰退する。その原因は議論をしない、できない自民党だろう。いや、その基礎票をかさ上げする公明党かもしれない。

一度、東京で公明党と自民党の実力とやらを見たいものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市井の近現代史(6)

2023-05-30 13:23:05 | 近現代史

―国民は「ハル・ノート」のことを知らない―

「ハル・ノート」とは、当時、ハル国務大臣が野村・来栖両大使に渡した外交文書であるが、日本側はこれを外交交渉の最後通牒と捉えた。そして、日本は交渉打ち切り、開戦の道を撰んだということになっている。

しかし、木戸・東郷の云う「五大国」や「國の名誉」とは、米国の最後通牒に対して立ち上がる理由なのだろうか。

山岡貞次郎は実際に真珠湾攻撃の軍艦「比叡」に乗り込んでいた。彼は「日本は戦争を自ら求めた訳ではない。大東亜戦争は引くに引けなかった、逃れようとして逃れられない戦争だった。」と言う。

三根生久大は終戦を士官学校で迎えて戦後軍事評論家となった。彼は日米開戦を「堪忍袋の緒が切れて斬り込んでいったが、あまりに外交的配慮が足りなかった。」と振り返っている。

二人の政治家は開戦理由に「ハル・ノート」を挙げたが、若い軍人の二人は「ハル・ノート」の存在を知らなかった。

三根生は陸軍士官学校在学中であり、極秘の重要外交文書を知る由もない。山岡貞次郎は軍艦「比叡」に乗って1941年11月26日に単冠湾を出発し真珠湾に向かっていた。その同日に、米国では二人の大使が「ハル・ノート」を受け取っていたので、知る筈がない。

不思議なことに、木戸と東郷は11月26日の段階で、陸海軍は戦争準備態勢になっていたのを知っていたのである。

二人の政治家にとって、「ハル・ノート」とは米国の日本への特別な虐めを立証する証拠であり、戦争に踏み出すきっかけにすぎない。

いずれにせよ、ほとんどの国民にとって戦争は突然の出来事だった。

戦後に責任を感じて記者を辞めた武野武治(むのたけじ)は「国民不在のままに戦争が開始され、国民不在のままに戦争が終了させられた。その二つの<事後報告>の間に、300万の国民が死亡し、アジアでは2000万の人たちが殺された。」と述べた。

【参考文献:木戸幸一『木戸日記・東京裁判期』東大出版会、東郷茂徳『時代の一面』中公文庫、三根生久大『日本の敗北』徳間書店、山岡貞次郎『大東亜戦争』育誠社、鎌田慧『反骨のジャーナリスト』岩波新書】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市井の近現代史(5)

2023-05-29 14:53:33 | 近現代史

―敗けることが解っている戦争をなぜやったのか?―

元明治大学教授の入江隆則は「負けることが確実に予想される場合でも、政治的判断として戦わねばならないことがある。ナポレオン戦争と第二次世界大戦は似ている。フランス革命が欧州の伝統を破壊したように、日本が撒いた種子はアジアを西洋の植民地から解放した。」と言う。彼の言う、「政治的判断」「日本が蒔いた種子」という二つの言葉な頭に残る。

「日本が蒔いた種子」と言うのは、手前勝手な詭弁としか思えない。せいぜい反射的な利益としか見れない。実際に日本が占領したアジアの国々に具体に何をしたのか、2000万人の命が失われたことにふれていない。入江は本来は比較文学・文化の専攻の学者なので、歴史史料の見方が違うような気がする。

「政治的な判断」と言うのは、概念が広すぎてよく解らないが、当時の天皇側近の政治家は日米開戦をどう振り返ったのであろうか。

木戸幸一内大臣は、「開戦前の日本は世界の五大国に列し、又三大海軍国の一つであった。それが…ハル・ノートを突きつけられ、これを受け入れたら日本はいったいどのようになったであろうか。」と言う。

東郷茂徳外相は「ハル・ノートを受諾すれば、…一国の名誉も権威も忘れた考え方である」と言った。

【参考文献:入江隆則『敗者の戦後』中公叢書、木戸幸一『木戸日記・東京裁判期』東大出版会、東郷茂徳『時代の一面』中公文庫】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あの頃は良かった

2023-05-28 18:40:22 | つぶやき

ソニーのウォークマンが世に出た時、小さい時から欲しかったものが自分の生きている間に出て来たと感動したものだ。一早く買って長い通勤時間がどれだけ和んだことか。

当時、携帯は肩で担ぐ程で、重量は半端ない、単に移動式電話だった。

そう言えば、何かある度にテレフォンカードを造って周囲に蒔いたものだ。ゴルフを始めればホール・イン・ワン保険をかけるのが常識だった。何人かの幸福者からテレフォンカードを戴いたものだ。企業は何かの記念行事があれば必ずテレフォンカードを配っていた。テレフォンカードアルバムも持っていたが、今では二束の三文の値打ちもない。

深夜に一万円札をヒラヒラさせて都心でタクシーを止めようとしたこともあった。

バブルだったが、その意味は解らなかったが、自分が家を買う段になってよく解った。

でもあの時代はみんな元気があった。あの元気は何処に行ったのか、誰が封印したのか、今も解らない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

糟糠の妻を捨て

2023-05-27 14:56:32 | 憲法

近頃、自民党と公明党との関係が怪しくなっている。民主党政権下で連携が壊れると観たが、なぜだか両党は離れなかった。

それが此処に来て、公明幹部が東京選挙区は自民党議員を推薦しないと息巻くのは、三年の野党時代を共に苦労した「糟糠の妻」を棄てるに等しいとの怒りだろう。

自民党とは単に現金な政党で、公明党を政権維持に利用していただけ。過去には「侵略行為を謝罪する」と掲げる社会党左派とも手を握った。自民党は、政権つまり利権の為にはどんな手段でも使う烏合の党である。

今や風向きが変わり、国民民主や維新は自民連立に擦り寄り、立憲のオワコン爺の岡田や野田派までも秋波を送る状況では、長年の古女房たる公明を棄てることもやりかねない。

その裏は、平和を標榜する公明党が最後は「憲法改正に二の足を踏む」と自民党は読んでいるのではないか。

とすれば、自民党はアベ派から宏池会まで本気で「憲法改正」に進むと観るべきであろう。

金科玉条の如く「九条を守る派」ではないが、自民党の世襲議員の日頃のおバカぶりや腑抜け天下り官僚の過剰な忖度を見れば、「普通の民主的憲法すら造れるはずがない」と感じる。

だから憲法改正に反対せざるを得ない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする