B・アンダーソンの言う、活字による「想像の共同体」とは、「国家のことではなく、国民のことなのだ」と若手の学者萱野稔人氏は言い、「日本では国民と国家を混同している」と念を押す。(『思想地図』NHKブックス)確かに、言われりゃその通りかも。
でもね、近年は国家もフィクションのように思ってしまうというのは、些か拡大し過ぎというものでしょうか。でもグローバリゼーションの時代には、主体性を持った国家というものが寧ろ邪魔になるのでないだろうか。
先日、小田急の田舎の方の電車に乗っていた。横の席に肌の黒い人がたぶん工事現場で働いている服装で、スマホを見ていた。つい覗き見をしたら、暑そうな国の映像が見えた。外は雨なのに、彼は何故だかサングラスをしていたが。
斜め向かいには、ベージュのスカートを着た、大きなきれいな目をした女の子が吊革につかまっていた。顔をベールで隠してはいなかったが、申し訳程度に髪はベージュのベールで包んでいた。ベージュ色でスカートとコーディネートしていて、けっこうおしゃれだ。たぶん回教系の人なのだろう。
この極東の日本という圀の純粋種の日本人でも、オリンピックに出るのはハーフが結構増えてきている。
民族国家というのは、20世紀とは別の概念付けが必要ではないだろうか。今更に、元号は万葉集からと言い、女系とか男系とかいう議論も、どこか色褪せた時代遅れの観がするが、どうだろうか?
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