今年の芸人の芥川賞作家の愛読書が太宰だと聞いた。先日、テレビで石原慎太郎が「太宰なんて、大嫌いだ。3回も心中しやがって、しかも最初の心中では、女だけ死なせてしまった。なんと女々しい奴だ」と云っていた。ふうん、どちらにせよ、我々普通人には、“今さら太宰”の感がある。
戦後生まれの我々は、あの厳しい受験戦争の中で、何で小説なんて読んでいたんだろう。今振り返れば、何の役にもたちはしない。まあ、そうではないという御仁もいるだろうが、私にとっては、かつてのその為の読書時間がもったいないような気もする。それでも読んだのは、小説は一種の娯楽であり、まだ見ぬ大人世界への疑似体験のつもりであったのだろう。
でも、自分に与えられた現実は、漱石のような知的生活にも全く縁がなく、太宰のように一緒に死んでくれる女性にも全く巡り会う筈もなく、今日まで地道に単調に暮らして、結果皺くちゃな顔と白髪頭となり果てた者には、小説とはいったい何だったのだろうか、と振り返ることがある。
しかし、図書館に行くと、小説本はほとんど中心スペースにあって、分類番号で言うと、所謂900番台の文学が圧倒的に多い。また、ブック・オフに行くと、あの108円の文庫物の多さに圧倒されてしまう。日本人と云うのは、かくも現実を嫌い、嘘や、夢や、この世にあり得ないことが、如何にも好きなようである。それとも人の一生とは、あまりに単調で退屈だからなのだろうか。尤も、それは、中東の人々にとっては、遥かなる手の届かない夢の生活でもあるのだが。
ともかくも、日本では、我々の住む戦後時代は、今日までの70年間、他国に武力を使って侵略・浸食したことはただの一度も無かった。また、自分の意に反して国家警察に拘束されたり、ましてや、存在そのものを国家機構に圧殺されたこともなかった。長い人類の歴史上で、この国の戦後を生きた世代の時間は、実に稀にだが、戦争のない、自らも戦争に行かない、幸運な時間でもあった。しかし、どうも最近の自民党政治を見ると、この幸せな時間が後代に続くかは、若干怪しく思えてきた。
これからの時代は、出版界は望んでいるようだが、小説を読む人間が増えるのではなく、小説のように生きることができる人間が増えるべきだろう。そのためには、幸運にも、GHQのほんの一部の理想家たちが、無造作に置いていってくれた世界で一番平和的で民主的な現憲法を、小説も読んだことも無さそうな、一人の人間として魅力もさほど無さそうな、ただ国家権力と自分自身の一体化を仕組む、油断も隙もない、策略的人間像しか見えてこない政治家たちのリードで、現憲法を改正することだけはほんとうに勘弁してほしいものだ。まあ、こっちは死んでしまうけど、後に残された若い者が可哀そうです。