玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

「近代」と「現代」

2015-02-24 14:00:38 | 

『歴史の発見』(木村尚三郎 中公新書)を読んだが、現代史・現代社会の起点を1930年代のビック・ビジネスの擡頭の時期に求めていた。この時期に1929年の世界大好況を契機として経済の国家的規模での計画化と再編成が可能となり、そこから現代が始まった、とあった。彼は1930年生まれ、彼にとっての「現代」は彼自身の「生の時間」と一致していた。私は、何となく「現代」は太平洋戦争敗戦後に置くのが一般的であると考えていた。ふと此処に来て、「近代」と「現代」の区分が解らなくなってしまった。

自由社の『日本人の歴史教科書』は当然のごとく、終戦後から「現代」とされていた。終戦を境界にその前後に明確な断絶を入れている訳である。仮に、現代が1930年代から始まるというのであれば、日本にとって、1931年の満州事変が「現代」という括りの中に現前と在ることになり、戦後70年過ぎても、十五年戦争というものが身近に、かつ重く圧し掛かってくることになる。

いや、よく考えてみると、西洋では「近代」と「現代」を一括してmodern(=近代の、現代の)と云うのではないだろうか。日本では明治維新以降、高々140年に過ぎないが、そこに「近代」と「現代」の二つの時代区分を置いている。且つ又、近代と中世の間に江戸時代等の近世を入れている。日本は時代区分を小分けにするのが好きなのだろうか。

此処で、帝国書院の『中学生の歴史』をみると、中国が日本の侵略を国際連盟に訴えたことが記述され、南京大虐殺や、植民地における皇民化政策を記しているが、かつ巻末年表では、「現代」と「近代」を分けず、幕末以降現在までを、「近現代①・近現代②・近現代③」と大括りにしている。一方、自由社の歴史教科書は、日本が行った「大東亜会議」や「アジアの解放」は記述されているが、どうも植民地、侵略、虐殺の文字が見あたらない。そして巻末年表の時代区分では、ポツダム宣言受諾以前を「近代」とし、それ以降を「現代」と区分している。

時代区分、何やらそこにも重たいものが横たわっているようだ。近々「戦後70年談話」が発表されるとの事だが、果たしてどうなることやら・・・。

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旧い話

2015-02-16 23:04:13 | 

かれこれ10年前の話だが、とある機会に「ものつくり大学」(埼玉県行田市)の野村東太学長に会うことになった。野村先生は遠いところまでよく来てくれたと歓迎をしてくれて、できたばかりの綺麗な学生食堂で日本酒をご馳走してくれた。野村先生は、職人や技能を極める“ものつくり”という新しい大学の在り方を熱ぽく語ってくれた。酒が廻って話が進み、なにげにか、出身高校に話が及んだ時、野村先生が私の高校の大先輩であることが判った。東京郊外の名も知れぬ鄙びた高校で、校門から校舎までの長い銀杏並木、何故だか言い伝えられた20本くらいの細い木があるだけの「なまけの森」、ソーダ硝子で歪んだ窓の旧い木造校舎、等、その学校の卒業生しか判らない共通用語を確認しあった。その会話の中で、教室でいつも野村先生の前の席に座っていたのが西洋史学者の木村尚三郎だと聞いた。私はいつか木村尚三郎に会う日を期待した。

それから2年ぐらいたっただろうか、2006年10月、木村尚三郎氏の訃報が新聞で報じられた。その1年後の2007年8月、野村先生も77歳で鬼籍に入られた。

先週のこと、いつも行く古本屋の店頭で『歴史の発見』(木村尚三郎 中公新書)を見つけた。自然に手が伸びた。

「過去は、それが記述された瞬間、過去がそのものではなくなり、一つのフィクションと化す。そしていかなる形のフィクションとして構成されるかは、一に記述家・歴史家の主体にかかっている」

「我々が生きている現代ですら、…わからないのに、どうしてその場にいあわせもしなかった、見聞きもしなかった過去のことなどわかるであろうか」

「人間社会における真実は、一つの事柄について決して一つではない。…やむなく一事物一真実を強制されることがしばしばである、というにすぎない」、等々

私はもう一人の大先輩に会って、話をしている気分になった。

 昼間の酒は酔いが早い。

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小田急線散歩

2015-02-10 00:53:39 | 散歩

久しぶりの小田急線散歩。下北から新宿を目指します。今日は冷たい雨が降りそう。さすが演劇の街。凝った店だ。地下下工事現場を頼りに新宿方面へ。玉川上水公園、その下に線路があると思い込んだ。それが決定的なミスだった。どうも変だ。このままだと京王線幡ヶ谷駅についてしまう。雨は降りそう、焦る。住宅地を心細く進む。きれいな有料老人ホームだ。あれあれ御誂え向きに斎場だ。随分道に迷ったが、何とか代々木上原駅に着きました。本日は雨が降り出したので、飛ばしてしまった東北沢は電車で戻ってホームに到着。 これで早々に退散します。失礼しました。

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迂闊な発言

2015-02-03 21:39:36 | 政治

安倍首相の「その罪を償わせる」声明に政府は慌てているようだ。霞が関特有の補足と言う弁明や釈明が続く。殿の不始末、家臣の取り繕いが見えてくる。

菅義偉官房長官は2日の記者会見で「テロリストに必ず法の裁きを受けさせるという国際協力のなかで、徹底したテロ撲滅に向けた強い意志だ」と指摘。国際刑事裁判所(ICC)に対応を委ねる可能性にも触れ「できることはすべてやっていく」と強調した。

2015/2/3 日本経済新聞 朝刊

私の拙い英語力では、responsibleに「罪を償わせる」という意味があるのか解らない。

何となく、今の政府に疲れてきた。結局、前と同じか。

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「償わせる」と「償わさせる」の差

2015-02-02 09:47:37 | 政治

「…、罪を償わさせるため国際社会と連携していく。」(2015・2・1 日経新聞)という記事をベースとしたが、テレビでは「償わせる」と聞こえた。一応活字を信用した。ところが、約24時間過ぎて、

『6時10分過ぎ、隣接する首相公邸から官邸に移った安倍晋三首相は、事務方が用意していた「首相声明」に自ら手を入れた。「テロリストたちを決して許さない」に続けて「その罪を償わせる」と書き加えた。』(2015・2・2 日経新聞)と言う記事が載った。

「償わせる」と「償わさせる」の差であるが、記者の単なる聞き間違いなのかもしれないが、国際社会と連携して周りの力を持って「償わさせる」のであって、自らの思いによって罪を「償わせる」と言う報復的表現を避けたとも取れる。平和憲法を持つ国の首相として、「よもや?」というのが通常の受け止め方であろう。

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