「大阪都構想」の賛否はどちらも消化不良で、僅差で伯仲しただけに両者の亀裂を深め、何のメリットも生まなかった虚しい選挙結果となった。何かをしなければならない切迫した大阪市が、座して死を迎える方を選び、突撃して死を迎える方を拒否したことになろう。後に残ったのは徒労感ばかりで、あきらかな無駄としては、多大な選挙費用、「大阪都構想」関係局の人件費、公募という名の猟官制による民間区長、校長、教育長、など。結果は、税金の無駄遣い帝王の退陣となった。
彼は1票差で勝っても、勝ちは勝ちだと言い張る種類の人間だろう。彼の言う民主主義は、どうもチョット違う。言ってることは子供会議の単なる多数決の勝ち負けで、それは民主主義の根幹のことではない。素晴らしい劇場型の政治タレントであることは認めざるを得ないが。
不思議だと思ったのは、大阪市を都にするのではなく、市を廃止して五つの特別区にする「大阪都構想」と言った。そこには、大阪人の誇りは大阪市にあって、大阪府ではない、ということに気づかない「維新の会」指導者たちの頑固な姿勢があった。結局、大阪府側から提案された「大阪都構想」であったのだ。大阪市民は、京都、名古屋等は全く眼中になく、ライバルは東京のみと言い切る。そんな誇り高い大阪人の心を掴むのは難しい。
『行列のできる法律相談所』で同僚であった住田弁護士が、あれだけ拮抗、伯仲させながら、「最後に崩せなかった票田があった。」とテレビで言っていた。その鉄壁な票田とは、たぶん橋下体制では必ず切り捨てられる福祉サービス受給者層であり、労働組合関係者であり、社会的弱者である高齢者層であろう。また、最終段階で、たった1万の票を逆転できなかった最大の敗因は、自らの部下である大阪市職員の熱い支持を受けていなかったからではないのか。大阪市職員関係票は恐らく3万票以上ある筈だ。
橋下市長は、公を全く理解できない民間校長や民間区長の不祥事を、自らの政治信条を守るために、その実態に眼をつぶり、失敗者の群れを擁護する一方、職員個人の失敗を執拗に痛めつけ、スケープゴートのようにやり玉に挙げたり、無用な労働争議を巻き散らかした。そんな人物に部下の信頼は生まれないだろう。
ともかく、全く無駄な結果となったというのは悲しいから、安倍・菅体制の憲法改正への暴走に少しばかりの冷水を浴びせる効果があったことだけは評価したい。
「日本は法治国家だから、…」と粛々型官房長官は言った。これって、政府の公式説明なのかな。陳腐な説明になっていない説明だ。法治国家というなら、戦前の日本だって法治国家だ。恰も正論を言ったとばかりの真っ直ぐな顔付に、ふと首を傾げてしまう。
日本の民主制度は、小選挙区制度に変えてから、民衆の支持実態よりも、単に議員の数によって強力な権力を得ることになっている。金をかからない選挙を目指したが、結果は抜け道だらけの政治資金規制法で、相変らず旧態依然の金集めが横行し、政党交付金だけが無能な政党や議員の余禄となっている。
日本は明治維新以来、富国強兵のもとに西欧から技術や産業を輸入したが、敗戦によって不本意にも西欧型政治制度も植えつけられた。確かに日本は戦後変わった。韓国・中国から過去の侵略を激しく非難されても、その過去の記憶を植え付けられていない戦後世代には何やらちんぷんかんぷんで心に響かない。これでは、暖簾に腕押しという事になってしまう。
敗戦後、GHQ 指導の下に、西欧の民主主義、議会主義が米を作っていた田んぼに麦を植えるように強引に移植された。しかし、西欧型民主化は、長い間に社会全体に微かな疼痛をともなうむず痒さが蔓延してきている。その原因の一つに考えられるのは、国としての歴史を意図的に、又は無意識に、戦後七〇年間を空白のままに放置したからであろう。
今の話題の戻すならば、昨今、選挙に勝てば絶対権力を得ると確信する変な輩が政治の中枢を担い始めた。その典型が橋下であり、安倍であろう。事を急ぐなかれ!国政ですら、粛々という言葉の隠れ蓑で、強行に物事を進めてしまおうという状態である。残念だが、大阪都構想の先にある道州制の巨大な首長の権力を担う人材は日本の政治土壌には育っていない。
大阪都構想は、裏を返せば、悩ましい政令市を抱えた無能な府県の生き残り策に過ぎない。民間であれば、大阪市が大阪府を吸収すべきところを、政治というものはその逆もあり得るという滑稽な不条理の一つだ。結果は一人の独善的殿様が国政に転身し、新たに五人の(?)殿様ができるんだ。もし、橋下大阪都構想が成立すれば、その見返りとして安倍的憲法解釈改正が国会で大きな議論もなく粛々と進行して行くのだろう。これは政治の不経済取引かな。
二年前だが、中国人留学生と話す機会があった。彼は「ポピュリズム」を研究していると言った。自国の政治を譬えているのかと思ったら、橋下大坂市政の事だと云うことだっだ。適確な着眼に敬服した。
もうすぐ大阪都構想住民投票が行われる。つい最近関西の三都を見たから言うのではないが、関西は、経済的にも、文化的にも、何よりも元気という面においても、確実に地盤低下している。このままであってはならないという関西人の焦りは感じるが、今度の大阪都構想が賛成多数で成立するならば、大阪市民は将来に向かって致命的な誤選択をしたことになるだろう。
普通に考えて、大阪府の議員数はそのままだとして、大阪市の議員で五つの区議会の議員を賄えるのか、またそれに付随する議会事務局の職員を大阪市議会事務局で賄えるのだろうか?そこで、まず確実な無駄ができる筈だ。そして、何よりも悲しむべきは、大阪府に併合されれば、関西随一の人材集団と言われる大阪市職員は、普通程度の府職員の下風を嫌って、優秀な人材は流失してしまうだろう。この人材の流失損害は、あのポピュリズム政治家の我儘殿様のマスコミ的存在価値と較べられない程の将来にわたっての組織的損失を生じることになる。
関西の凋落を、このまま何もせず見守るより、何かをしなければならないという切迫感は十分に理解するが、大阪府に呑みこまれる大阪都構想ではなく、大阪市が発展して、大阪府を飛び越して、新たな特別自治体になることを選択すべきである。それは横浜の『特別市構想』に似ているが、大阪市こそがその特別の立場にもっとも相応しい都市であると信じている。かつての特別市構想は、神奈川県のGHQへの策動で潰えたと言われている。今こそ、日本第二の都市の存立をかけて『特別市』を大坂で実現すべきであると私は考える。
ゴールデン・ウィークにネットをあれこれ見ていたら、あのことがよく解ってきた。
テレビ朝日の『報道ステーション』降板騒動の根底には、今年2月の古賀茂明氏の 安倍首相の「罪を償わせる」発言に対して、平和憲法に基づく日本人の総体の考え方は、安倍首相と同じではないという意味の「I am not Abe」 を国民が一斉に唱えることが必要だと言ったことが起因していた。つまり、その時点で、古賀氏の番組降板のレールは敷かれていた訳であった。彼は、泣き寝入りするより、蜂の一指しを実行した。それがあの用意された「I am not Abe」のプラカードであろう。
外国人記者クラブでの古賀氏の説明は、欧米人記者には効果はなかったようだ。欧米人にとっては、確たる証拠のない告発は意味がなかった。古賀氏は、放送法における免許を与える側の政府=自民党の絶対優位性を無言の圧力の理由にあげたが、決定的な理由づけにはならなかった。何よりも、目に見えない形での、あるいは姑息な迂回をしての、粛々と実行される権力側の圧力に対して、異常なまでに過剰反応をする日本人の特異性を理解していない外国人には、所詮理解し難いことであろう。
先日、国会で安倍首相が発言した‟列強に並ぼう“としていた大日本帝国においては、関東大震災の火事の中で「御真影」を持ち出すために何人もの校長が命を落としたという。そうした、まっ暗い過去を持つ、薩摩と長州が、天皇を玉として操りながら造った戦前日本国家に、またもや戻ろうとする安倍首相やそれに類する一党は、日常はどんな顔をしている人達なのか、じっくりと拝見したいものだ。しかし、戦前と決定的に違うことは、彼らの行動の基本は、アメリカへの絶対的な服従が前提になっていることである。どうも単純な時代遅れの国体主義者でないようで、厄介な存在である。