木戸は維新の勲功華族で学習院から京都大学に行き、そこで原田熊雄と近衛文麿に会う。近衛は西園寺公望の寵愛を受け、六尺を優にこす偉丈夫と五摂家筆頭の家柄・血筋で若くして政治の舞台へと引き立てられていく。木戸は近衛の推薦で内大臣府秘書官長の職を得る。常に近衛がシテで、木戸はワキ役であった。
第一次の近衛政権では閣僚にも抜擢される。そこで、彼は近衛の実像を見てしまったのだろう。どこか近衛の能力を疑いながらも、西園寺の影響のある時は静かにしていた。
近衛は自分で宰相の器でないと気付いていたのか、秘かに名誉ある身の振り方として内大臣を狙っていた。しかし、原田は、木戸の内大臣、近衛の首相を夢見た。
夢のお鉢が木戸に廻って来た。天皇自身が判断したらしい。昭和天皇は、夢見るズボラな近衛より面白くないが几帳面な木戸を選択したようであった。
軍部は自らが止められなくなった侵略行為を実現する為に夢見る大きな人形として近衛を欲した。近衛は内大臣を木戸にとられ、それでも周りには「昭和研究会」等の夢を齧りたい取り巻きが離れない。彼はもう一度難しい舞台に立つが、今度は西園寺が見限っていた。
彼は西園寺という後見人を失い、友の木戸の権力欲の前に、そして天皇からの信頼を失い、命綱のアメリカとの巨頭会談も潰れ、脆くも政権は倒れ、日米戦争を目前にして逃亡していく。「私は戦争する自信がない、自信のある方でおやりなさい」というのが彼の最後の言葉であった。
木戸は、近衛が姿を消す時に、門前市を為すが如く、軍部官僚が押し寄せ、権力が目の間に転がっているのを体感したに相違ない。
木戸は母方の尊皇攘夷の志士の来原良蔵の血筋を受け、躰は五尺足らずであっても、武士の不遜な暴力性があり、大伯父系の木戸孝允の緻密な頭脳をも併せ持った、これ又、東條の軍人官僚と同様に戦前の高級官僚であった。
彼はA級戦犯として、1955(昭和30)年12月16日に釈放された。この日は近衛の祥月命日だった。1969(昭和44)年木戸の80歳の誕生日(7月18日)に天皇は皇居新宮殿にお召しになった。その間、天皇と会っていないようだ。
毎日記者藤樫準二のメモには、木戸の言葉がある。「終戦が天皇と鈴木首相が骨を折ったことになっているが、そのお膳立てをしたのは内大臣の自分である。陛下の御気持ちと国情を察して強引に私が実行したまでで、私の苦労、決断は容易じゃない。」
【終わり】
【参考文献:工藤美代子『我巣鴨の出頭せず』中公文庫、木下道雄『側近日誌』文芸春秋】