《砂糖菓子が崩れるとき》ではなく、《砂糖菓子が壊れるとき》だから題名として素晴らしいのだ。そう、高校時代の多少ペダンティックな友が云った。私は、皿に乗った角砂糖のピラミッドに紅茶がかけられる情景を想像した。
ベッキーやキムタクの世間の評価をみるとき、なぜだか、曽野綾子の小説の題名のことを思い出した
NHKプレミアムの「The Covers」で野宮真貴という歌手を知った。「渋谷系」と云うそうだ。それすらこれまで耳にしたことがない。ネットで調べたら、1960~1980年代の幅広いジャンルの音楽を素地として1980年末頃に登場した都市型志向の音楽であるそうな。彼らのCDジャケットやファッションは、1960・70年代のデザインを引用し解釈しなおした斬新なものである、とのことだそうだ。確かに、彼女を見た時、オードリ・ヘップバーンの『おしゃれ泥棒』、カタリ―ヌ・ドヌーヴの『昼顔』のファションが頭をよぎった。
1970年前半、私は渋谷の宇田川町、通称センター街のドン詰まりの「マルジェ」の螺旋階段で降りる地下喫茶室に居た。螺旋階段と言えば、銀座には高級喫茶の「ジュリアン・ソレイユ」があった。確か灰皿が貝殻だった。そこから、少し歩けば、『銀巴里』があった。歌っている奴も、聞いている奴もみんな気取って背伸びをしていた。
野宮真貴のショーは、時間が過去に戻りながら、どこに行っているんだろうという不安と、奇妙に現実性の欠けたマネキン人形がツイストを踊るようなデパートのシューウインドウであった。
ゆったりとした平和で怠惰な時代がかつての日本にはあった。飯田橋の『パール座』で深夜4本立てのトリフォーの映画を座布団持参で見たような、1秒が3秒になるような退屈な時間の流れを思い出した。いずれにしても、彼女は年齢の物差しの無い世界に棲む女性と視た。還暦まで歌うと云う。実に恐ろしき人である。