玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

映像の共同体

2015-07-28 14:32:11 | 時事

中国株暴落の報道で、どこから持ってきたのか、習近平の深刻そうな顔の映像が映る。沖縄慰霊の日の報道では、「沖縄をまた戦場にするつもりか!」といった反発が相次いだと云う。事実、安倍首相のスピーチに対して、その冒頭で「帰れ!」という罵声が飛んだ映像を見た。ところがNHKのニュースにはその罵声が消えていた。

今国会の周辺でどの程度の街頭活動やデモが行われているか、信頼のできる報道は見つからない。随分前の話だが、瀬戸内寂聴が集会に参加した時に「今の状況は、自分の生きてきた昭和十五、六年の状況に非常によく似ている。平穏な日常の裏側には軍靴の音が鳴り響いていた。取るものを取りあえず、ここに来た。マスコミにも伝えてほしい」という内容のことをマイクの前で喋っていた。それを報道したメディアもあったが、全く触れなかったメディアもあった。

安保法制が問題化してからは、日々の事件は気持ち悪いくらいどこのテレビ局も同じ映像を流すのに、政治的な出来事となると、明らかに立場の違いが現れ、時には事の存在の痕跡すら残さないと言った作為的な映像が増えてきた。

最近いじめで自殺した子供の通知表が公開され、担任教師の見当はずれの問答が掲示板にしてテレビの映像になる。映像の中では結論の行先が決まっている。映像は、その短い放映時間の中で、何かを消すこと、何かを映すことによって、見る側の印象を操作しようとしているようだ。

ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』で「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」と言い、人々の想像を規定するものの一つとして、一日だけのベストセラーである新聞記事を挙げている。

さすれば、最近の日本は『映像の共同体』とでも言おうか。ただし、映像の有効時間は新聞よりさらに短い、時には≪操作された映像≫がマスメディアを通して、人々の印象を作り上げて行こうという何者かの姑息な意図を感じる。

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とんでもないことが起きている

2015-07-20 22:46:19 | 憲法

近代国家における法による支配が、独りの理屈を軽視する首長により、専制国家に移行しようとしている。ともかくも、戦後70年平和と自由を守ってきた日本という国に泥をぬるような行為だが、それをしたのは、最近国民が選んだ自民党であり、その党が選んだ首長であるのだから、開いた口が塞がらない。ましてや、そこまでの道のりでは、御都合主義者の彼らは遵法であり、憲法のままに政権を握っているのだから、呆れて果てて滑稽にさえ見えてしまう。

八の字眉毛の首長は、今の日本が戦前の専制国家との継続性が断絶していることに憤懣を長いこと体内に育ててきたようである。この御仁は、普通の戦後教育を受けたのではなく、自らの血族の独自教育を受けたようなひ弱さと粗暴さが混在し同居している。アメリカの占領軍が造った憲法であっても、これほど民主的に優れた憲法は他にないと思っている。それが現実であるが、拙くても、劣っていても、ともかく自分で作りたいという自我の強い御仁なのかな。

理屈を解せない、解しない異能で異様な人間たちにとっては、憲法の規定がこれほどに無力であったとは、想像をしていなかった。現憲法によって、かつての戦争主義、専制政治を排除し、国民主権の平和国家への方向を実効的に担保できると考えて来た普通の日本人の法的な理論認識は、多数決という政治技術的方法論の前に簡単に打ち砕かれてしまった。憲法に違反した法でも、国会で多数の者が支持すれば、それは適法な法だという、無茶苦茶な論理だ。結局、法による牽制は、一定の常識と知識を有する者たちだけの甘い共通幻想でしかなかった。

戦後70年の平和憲法に平然と泥を塗った国会では、浅ましい個々の自己保存欲求のために、政治生命を賭した反対者が一人も出なかった全体主義政党の一糸乱れぬ統制ぶりが、これからの日本の行く末を暗示していないだろうか。

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驚きのダイアン・キートン

2015-07-14 01:08:46 | 映画

ケーブルテレビで『マイルーム』という映画を見た。メリル・ストリーブ、ダイアン・キートン、レオナルド・デカプリオ、ロバート・デニーロという超豪華キヤスティング。これでは、見ない訳には行かない。特に品のいい色気を出すダイアン・キートンが好きだ。ところが、デカプリオがまだ幼いのに、キートンが妙に老けていた。二、三ヵ月前に、ジヤック・ニコルソンと共演した『恋愛適齢期』を見たが、そこでのダイアン・キートンは裸身になるシーンがあるが、それをチラッと見て、録画を止めるほどにセクシーであった。

不思議だったので、ネットで調べてみた。『マイルーム』は1996年、『恋愛適齢期』は2003年の作品であった。役柄づくりに対する執念を、あのダイアン・キートンの優しい顔から導き出すのは難しい。彼女こそ女優という名に値するアクターだと思った。ちなみに彼女の生まれた年は1946年だという。『恋愛適齢期』の時は57歳の作品であった。十分にセクシーで綺麗でした。そして、その役者魂に驚きました。

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眠れぬ夜のための本

2015-07-07 14:56:14 | 

『史記のつまみぐい』宮脇俊三

この手の安易な題名の本は通常買わないことにしている。しかし、古本屋の店先で開いたら、謹呈の短冊がポロリと出てきた。なんか本が可哀想になり、《眠るための本》として買ってしまった。予想通り、ページは150頁と少なく、活字も大きくて簡単に読めたが、気に入って二度も読んでしまった。単なるハウツゥ―物ではなく、確実な知識に基づいて、且つ鋭い日常的な観察眼による精緻な文体の随筆になっていた。

人生には「忘れてならぬことと、忘れなければならぬこととがある」。それを漢文では「物有不可忘 或有不可不忘」となる。浅学な私の漢字知識でも、その漢字の配列の持つ意味の妙と奇が味わえる。また、秦の始皇帝の圧政に苦しみ、敢然と立ち上がった農民の陳勝は「王侯将相 寧(なんぞ)有種乎」と叫ぶ。「王侯将相だって同じ人間じゃないか」と訳す。

単純に血筋という誇りなのか?己の何のどこに自信を持っているのか、傍目には皆目解らないが、陰であかんべーの赤い舌を出しながら、適当に頭だけ下げて、粛々と強行採決を目論んでいるどこかの國の傲慢で、且つ姑息な八の字眉毛の宰相に、是非とも聞かせたい言葉である。

 

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