玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

自民党の落日

2022-08-31 14:32:36 | 時事

今振り返れば、民主党に勝った自民党に一種の胡散臭さがあった。それが何だったかいまだによく分からない。どこぞの宗教の為とは思いたくない。

第二次安倍政権から、たとえそう思っていないにしても、格好だけは国民の側を向いている振りをするのが民主的な政権の形だろうが、そうは感じられなかった。

掛け声だけは立派な政策という舞台衣装が徐々に剥がれていく。そして、モリ・カケあたりから、自らの権力の行使を完遂する為に、マスコミの目と口を塞ぎながら、官僚の頭と手を払いのけながら、此処まで約10年余やってきたのが、悪夢の「民主党」後のサタンの「自民党」であろう。

抑々何も寄る辺の無い、自称の保守、雰囲気の右傾の議員たちのアベロスの喪失感はかなり深いようだ。こうした議員がどのぐらい居るのだろうか。良くも悪くも、彼らがこれからの自民党の行き先を決めていくのではないか。

いまは、自民党はもとより、官邸や記者室や財界の至る所に質の悪い黴(カビ)の様にアベロスの残滓がそこいら中に残っている。

またも岸田政権は、アベ・スガを踏襲し国民の顔を見ず、党内闘争に明け暮れている。保守や右傾のアベロス症候群議員のための過度な忖度から、国葬をして「アベ神」を作るつもりかもしれないが、神化しなかった場合の事を考えてないようだ。その時は「国葬儀」は「恥葬儀」なるかもしれない。

堅固な建物も老朽化すれば内部から腐るように、国有地の上に立つ古ぼけた自民党ビルが震度5ぐらいの地震でバラバラに瓦解するのを見てみたい気がする。

近くの路地物で買った甜瓜。実は熟し過ぎてあまりうまくなかった。日ごろ食べていないので、食べ時の判断を間違えたようだ。

 

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日米戦争 ―東郷は何故来栖を派遣したか? ―(5)

2022-08-30 13:59:42 | 近現代史

東郷が開戦間際に来栖大使を派遣した理由は彼の書いた回想録に「交渉不成立の場合は戦争となる関係上、如何なる面倒が到来するやは予知できぬ」と来栖に説明し、「交渉決裂即戦争という状況という局面をはっきり認識し、野村大使をもその気持ちにすること」と明確に述べている。

要するに、東郷は野村大使が交渉決裂し、戦争に入った時に取り乱して変な行動に出ないようにするために、ベテランの外交官である来栖を送ったと思う。

察するに、東郷は甲・乙案を提案できないなら外相を辞めると言いながら、実は、日本が大幅な撤兵をしなければ、米国は交渉を歩み寄らないし、陸軍は撤兵は絶対しないというし、海軍は石油が無くなって戦力自体がジリ貧になるから、破れかぶれに戦争する、と言うから、交渉決裂即戦争しかないと理解していて、外交第一と言いながら、開戦を何処かで確と受け入れていたのではないだろうか。

開戦の際の外交の店仕舞い、後始末の為に来栖を送ったと考えるべきだろう。東郷という人はどうも冷徹な判断をすることができる人物と見た。

ところが来栖は違った。2週間の交渉期間でも英国の斡旋に希望を持ち、チャーチル演説で英国斡旋の道を絶たれても、ハル・ノートによる実質的な交渉決裂状態になっても、まだ道を探した。それが、大使館で独自行動していた寺崎英成一等書記官の所謂「ルーズベルト親電」であった。彼はすぐに寺崎の工作に載ったようである。

ハル・ノートを受け取った11月26日に来栖と野村の両大使は東郷に「ルーズベルト大統領から天皇へ親電を送付をさせたら、交渉決裂の局面が変わるのではないか」と東郷にお伺いを立てる。

この時に、謀らずも東郷の本音が出てくる。来栖の愚挙を評して、「木乃伊取りが木乃伊になった」と嘆いた。

来栖は東郷に拒絶されても、その思いは慙愧として残った。開戦後に交換船で約1年後に日本に戻って、宮中や政府高官から歓迎された宴の席で、東條総理は、「米国大統領の陛下あての親電が今両三日早かったら…」と述懐されたのを聞いて、来栖の心中は、こちらが親電の承認を求めたのは11月26日で12月8日の開戦まで10日以上有ったと悔しがった。

来栖は理想派であり、東郷は現実派であろう。東郷は、年老いても自らの力を信じて行動してしまう元海軍大将の野村大使の不屈さを恐れて、結果として、交渉決裂即開戦の外交の道具として来栖を送りこんだようだ。

だが、結果は来栖も野村と同じように和平の為の交渉成立を必死に追い求めた。

ところで、来栖と東郷、東條を悩ました「ルーズベルト親電」とは如何なるものなのだろうか。(次回へ)

【参考文献:東郷茂徳『時代の一面』、来栖三郎『泡沫の三十五年』】

 

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日米戦争 ―来栖は何故米国に行ったのか?―(4)

2022-08-29 14:15:12 | 近現代史

たった正味2週間の日米交渉をやる為に、何で東郷は来栖を派遣し、来栖はそれを受けたのか?まず、派遣を受けた来栖の動機、又は理由から考えてみる。

米国に行くまでの経緯は、1941年11月3日、深夜、来栖が寝ていると起こされて、外務省に出頭する。そこで東郷外相から日米交渉の特使として野村大使を扶けて欲しいと依頼される。

既に交渉はデッドロックとなっていた。新たな打開策は甲・乙の二案があるという。甲案は従来路線、乙案は若干の打開策となっていた。

来栖が日米交渉に行く決意は、ドイツ大使時代に頭越しに日独伊三国同盟を結ばれて、その時の自分の取った行動から受けざるを得なかった、と推察できる。彼はプライドを傷つけられて、後任の大島浩大使と事務引継ぎもせずに帰国した引け目があったのだろう。

肯定的な面では、ドイツ大使に送った時の外相であった野村大使の苦境を救いたいとの義侠心もあったと思う。また交渉成立の一条の光も幾らか感じたのであろう。

翌4日、来栖は東條英機総理と面会する。彼は東條と初めて会った。この時東條は「交渉の成功は3分失敗7分。ただ撤兵だけは断じて譲歩できない」と言った。そして「交渉は11月いっぱいに終了すべし」と付言した。

翌5日朝4時東京駅を出発し、追浜に行き、海軍爆撃機で台湾に向かった。使命を受けてから僅か二十数時間のあわただしい出発であった。

11月5日午後4時台北に着く。翌7日朝、船で香港に着く。午後二時小型飛行機でマニラに着く。マニラ湾の情景を瞥見しただけで日米関係が如何に緊迫しているか分かった。

翌8日飛行機でグァム、ウェーキ島に一泊、10日ミッドウェー島に着く。この時にチャーチル演説で「日米戦となれば、1時間以内で米国側に参戦する」とのことで、英国の斡旋の希望は潰えた。

12日早朝、午後真珠湾に、翌13日、米国機で15日にニューヨークへ、そしてワシントンに到着した。

東條に月末までと期限を切られ、甲・乙案に英国の斡旋調停も不可能となった。現地到着後、来栖は交渉成立の期限が更に短くなり、11月25日になっていたことを知らされた。

それでも日米開戦までの期間、来栖は野村と共に、ルーズベルト大統領と二回、ハル国務長官とは十回の会談を行っている。

最後は12月7日、「交渉打ち切りの文書」を予定より1時間20分遅れの午後2時20分にハル長官に手渡した。ハルは「斯くのごとき歪曲と虚偽に満ちた文書を見た事が無い」と述べた。

来栖と野村は大使館に帰って、初めて真珠湾攻撃のニュースを聞いた、と来栖は書いている。非常に緊迫した日米関係の当事者たちが、手渡した「交渉打ち切りの文書」から何も感じないとは魔訶不思議な話だ。

野村は『米国に使して』の中で、「国務省より帰邸後ハワイ奇襲の報に接したが、・・・。余はハワイ奇襲の件に就いては何ら予想すらなしておらず、…」と書いてある。来栖は野村の本と矛盾しないように、戦争の動きを知らなかったと書いたと思われる。

来栖は11月26日に「ハル・ノート」の手交で交渉の不成立を予測していたのであろう。実は、彼は別な方向でも或る工作をしていた。それは、結果として「ルーズベルト親電」につながる工作になるのだが。

次は、東郷外相がなぜ戦争3週間前に来栖をワシントンに派遣にしたかを考えてみる。(次回へ続く)

【引用文献:来栖三郎『泡沫の三十五年』、野村吉三郎『米国に使して』】

コロナ禍にあって、独りになり、空を見ることが多くなった。

実は、屋根の上の黒点は厚木基地へ降りる飛行機なのです。

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もしもの仮の話

2022-08-26 13:38:12 | 或る話

もし仮に、ある國の最高権力者がその国の憲法解釈をする役目を背負った内閣法制局長を自分の言うことを聞く人物に代えて、憲法の解釈を変えさせる。憲法改正をしたようなモノだ。

もし仮に、その権力者が日銀総裁を自分言うことを聞く総裁に代えて、国債を発行し続けて国内に円をばら撒いていく。しかし、国内で投資の需要はないので、日銀の当座預金に使われない円が積み上って行く。円はどんどん安くなる。

もし仮に、閣議決定をすれば、何でもできたとする。もう国を縛る法を作る国会がいらなくなる。ただ閣議決定により、その下部の行政機関は決定通りに実行するから。

こういう状況を「独裁化」と言うのかもしれないし、いや単に「王制」と言うのかもしれない。

古来より「王」は暦を定める。そう言えば「令和」と言う暦を作った。「通貨」も定める。確か「福沢諭吉」から誰かに変えることを早くも決めた。まさに現代の「王」を気取っていたのか?

「王」になる為には、まず、ある党の総裁に成らなければならない。そこでは党員の選挙がある。「ある団体」が大量に動員して党員になって、そのヒトに投票をしたとする。そして、そのヒトがめでたく総裁に当選したとする。

そして、その党が政権党となる為に「ある団体」が無料ボランティアを派遣して全面的なバックアップの選挙の下に、これもめでたく政権を勝ち取って、とうとう、そのヒトはこの國の最高権力者に成られたとする。

そして、斯く云う「王のようなモノ」に成られたとしたら、・・・。

この國の民たちは、何と薄惚けた、腑抜けた、虚け者だということにならないだろうか。

個人の家の社。湘南地方の奥で見つけた。

 

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されど蕎麦

2022-08-25 15:17:43 | グルメ

東京で好きな蕎麦屋といえば、浅草の「尾張屋」、虎ノ門の「砂場」を推奨します。しかしコロナ自粛の中、已むを得ず、近場の横浜の蕎麦屋に行きました。

関内にある「利休庵」です。東京の「赤坂更科」に似ている。つややかな喉ごしの良い蕎麦だった。若い頃に食べた記憶があるが、ほとんど初めてだが、ヨコハマ侮り難しと感じた。

中々粋な、都会的な蕎麦でした。

この日は昼めし時に「そら豆ごはん」がついてきたので、ラッキーでした。でも、コロナが収まったら、いろんな蕎麦を喰ってみたい。

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