たった正味2週間の日米交渉をやる為に、何で東郷は来栖を派遣し、来栖はそれを受けたのか?まず、派遣を受けた来栖の動機、又は理由から考えてみる。
米国に行くまでの経緯は、1941年11月3日、深夜、来栖が寝ていると起こされて、外務省に出頭する。そこで東郷外相から日米交渉の特使として野村大使を扶けて欲しいと依頼される。
既に交渉はデッドロックとなっていた。新たな打開策は甲・乙の二案があるという。甲案は従来路線、乙案は若干の打開策となっていた。
来栖が日米交渉に行く決意は、ドイツ大使時代に頭越しに日独伊三国同盟を結ばれて、その時の自分の取った行動から受けざるを得なかった、と推察できる。彼はプライドを傷つけられて、後任の大島浩大使と事務引継ぎもせずに帰国した引け目があったのだろう。
肯定的な面では、ドイツ大使に送った時の外相であった野村大使の苦境を救いたいとの義侠心もあったと思う。また交渉成立の一条の光も幾らか感じたのであろう。
翌4日、来栖は東條英機総理と面会する。彼は東條と初めて会った。この時東條は「交渉の成功は3分失敗7分。ただ撤兵だけは断じて譲歩できない」と言った。そして「交渉は11月いっぱいに終了すべし」と付言した。
翌5日朝4時東京駅を出発し、追浜に行き、海軍爆撃機で台湾に向かった。使命を受けてから僅か二十数時間のあわただしい出発であった。
11月5日午後4時台北に着く。翌7日朝、船で香港に着く。午後二時小型飛行機でマニラに着く。マニラ湾の情景を瞥見しただけで日米関係が如何に緊迫しているか分かった。
翌8日飛行機でグァム、ウェーキ島に一泊、10日ミッドウェー島に着く。この時にチャーチル演説で「日米戦となれば、1時間以内で米国側に参戦する」とのことで、英国の斡旋の希望は潰えた。
12日早朝、午後真珠湾に、翌13日、米国機で15日にニューヨークへ、そしてワシントンに到着した。
東條に月末までと期限を切られ、甲・乙案に英国の斡旋調停も不可能となった。現地到着後、来栖は交渉成立の期限が更に短くなり、11月25日になっていたことを知らされた。
それでも日米開戦までの期間、来栖は野村と共に、ルーズベルト大統領と二回、ハル国務長官とは十回の会談を行っている。
最後は12月7日、「交渉打ち切りの文書」を予定より1時間20分遅れの午後2時20分にハル長官に手渡した。ハルは「斯くのごとき歪曲と虚偽に満ちた文書を見た事が無い」と述べた。
来栖と野村は大使館に帰って、初めて真珠湾攻撃のニュースを聞いた、と来栖は書いている。非常に緊迫した日米関係の当事者たちが、手渡した「交渉打ち切りの文書」から何も感じないとは魔訶不思議な話だ。
野村は『米国に使して』の中で、「国務省より帰邸後ハワイ奇襲の報に接したが、・・・。余はハワイ奇襲の件に就いては何ら予想すらなしておらず、…」と書いてある。来栖は野村の本と矛盾しないように、戦争の動きを知らなかったと書いたと思われる。
来栖は11月26日に「ハル・ノート」の手交で交渉の不成立を予測していたのであろう。実は、彼は別な方向でも或る工作をしていた。それは、結果として「ルーズベルト親電」につながる工作になるのだが。
次は、東郷外相がなぜ戦争3週間前に来栖をワシントンに派遣にしたかを考えてみる。(次回へ続く)
【引用文献:来栖三郎『泡沫の三十五年』、野村吉三郎『米国に使して』】
コロナ禍にあって、独りになり、空を見ることが多くなった。
実は、屋根の上の黒点は厚木基地へ降りる飛行機なのです。