玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

二人の人生(後)

2019-01-26 15:00:24 | 近現代史

昭和23123日の「寺崎御用掛日記」には、「原田日記は個々の事実に誤りあれど全体の流れは正しい。木戸はその反対」と天皇が云われた、と書いている。この言葉の意味をよく考えると、木戸日記は個々の事実は正しいが、或いは、誤りはないが、全体の流れは誤っている、或いは正しくない、ということになる。

既に、昭和21113日には、「日本国憲法が」制定、公布され、翌225月に施行され、天皇は「象徴」となっていた。終戦にあたって、天皇の求めた『国体の護持』は不完全ながらも実現されたのだが、天皇の心の底流には、木戸内相と昭和天皇と進めた「終戦」への流れに対して、結果として、天皇は満足していなかった、と思ってしまう。

寺崎は「下手な剣客が上手な剣客(天皇)に立ち向かっているような気がした」と感想を記してこの一件をまとめていた。

この下手な剣客が誰のことなのか?「木戸日記は人に見られることを予想して書いたものに非ず」と寺崎は木戸を擁護しているから、たぶん木戸のことなのだろうが、寺崎自身もその下手な剣客の部類に入れていたのではないかと思う。

 

因みに、寺崎英成は1900年生まれ、奥村勝蔵は1903年生まれ、昭和天皇は1901年生まれである。現人神である天皇に年齢を持ち出すのも変な感じである。

1892年に政府は市町村立の尋常小学校・幼稚園に対して、「御真影」の複写を許可した。多分、奥村も寺崎も、その通った小学校では、「御真影」を拝謁していたに違いないだろう。

二人とも、まさに天皇制国家、そのものの中での外務官僚であった。寺崎と奥村の人生とは一体何だったのだろうか、と想いを馳せてしまう。

 

【参考文献】「寺崎英成御用掛日記」『昭和天皇独白録』文藝春秋/豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫/多木浩二『天皇の肖像』岩波新書

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二人の人生(前)

2019-01-25 20:22:28 | 近現代史

太平洋戦争を直近の緊迫する対米交渉の切り札として、野村大使、来栖全権大使を支える為に寺崎英成はワシントンの日本大使館に赴任した。寺崎は、兄のアメリカ局長の寺崎太郎と「マリコは元気ですか」との暗号で日米交渉の情報を伝え合っていた。傍受したFBIは寺崎をスパイとみなしていた。

片や、奥村勝蔵は大使館の一等書記官として赴任していた。そして、真偽のほどは定かではないが、最後通牒を手にしながら、前日の寺崎の送別会で人手が足りない中で、しかも、タイプに不慣れな奥村が手間取ったばかりに、太平洋戦争開戦の最後通牒が間に合わなかったということになっている。

敢えて、この二人を比較するならば、この時点では、スパイのような活発な動きをする外交官として、断然、寺崎が優位に見えてくる。裏を返せば、奥村は貧乏くじを引いたということに為ろう。

ところが、戦後になると、昭和天皇とマッカーサー元帥との会見の第1回と第4回を奥村が通訳し、第2回と第3回を寺崎が通訳した。この二人の戦前・戦後を跨っての、官僚人生の奇遇を感じないではいられない。

この時、第4回の会見の後に、「カルフォルニア州を守るように日本を守る」と言う会話を外電に漏洩したという責任を取らされて、奥村は懲戒免職となる。

実は、この4回の会見は、寺崎が病に倒れたので、奥村が代役で通訳をしたのである。どう見ても、寺崎がツイテいて、奥村がまたも貧乏くじである。

しかし、人生とはわからないもので、寺崎は妻と娘が渡米し、独り身の中で、1951年に病死してしまう。片や、奥村は1951年のサンフランシスコ講和条約の締結の後、晴れて独立国となった日本の吉田茂政権下で外務次官に復権した。

がしかし、紆余曲折はあったものの、奥村勝蔵は、官僚の最高地位に登りつめても、「天皇の思召しを聞かないと死ぬに死ねない」との言葉をのこし、1975年に死去した。この二人の人生の総括は実に難しい。<12・26付「二人の役回り」関連>

(続く)

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新聞をやめても大丈夫

2019-01-23 22:50:53 | あれこれ

新聞をとるのを止めてほぼ2ヶ月が経った。ほぼ同じに、地デジのテレビ、とくに朝・昼のワイド・ショーを見なくなった。何の不都合も、不自由もない。ただ“専門家”と名が付いた人たちのくだらん解説や、制作側の一定方向への誘導を感じないで済むだけ、精神衛生上、むしろ良好であった。

最近メディアがめっきり使わなくなったが、あえて使わしてもらうと、「大衆」という大多数の庶民は、そもそも低俗であり、卑近なニュースを好むものだと、メディアは鼻から決め込んでいるような気がしている。

その鼻持ちならないうぬぼれ野郎の集まりという制作スタッフの訳知り顔を見たいと思っていない。なぜなら、見るに値しない顔をしていると思っている。大衆は、君らが想定するように、「相撲協会」や一連の「不倫事件」には興味がない、と繰り返し言いたい。 

或る種の歪曲した制作意図をもって、真綿を押し付けるように、暑苦しい臭い息を吹きかけられるのが、たまらなく嫌なのです。こういう時代ですから、すがすがしい空気と景色が欲しいです。

ちなみに、新聞の代わりに、ネットで地方新聞の全国版を見ています。秋田魁新聞と信濃毎日新聞をよく見ています。

湘南からの富士

 

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見えない畏れ、見える畏れ、見ている恐さ

2019-01-20 18:23:30 | 政治


元安芸広島藩主の浅野侯は、初めて天皇のお目見えをたまわった時、「なんだ天皇というのは将軍より偉くないのか」と思ったそうです。何故かと云うと、「見てもよかったから」でした。参勤交代の後、三百諸侯はそれぞれの格式の部屋に詰め、頭を畳に押し付け、決して将軍の顔を拝めなかった大名の台詞でした。見れないことの畏れがそこにはありました。 

ところが近代国家は、君主に傅く者たちは何百万、何千万という国民です。彼らには、目に見える畏れが必要です。明治以後の天皇制は「御真影」を各学校などに下付して、儀式の中で見える畏れを造りました。いわば儀式の中では、≪写真≫が実際の天皇のように扱われる訳です。戦前の教育界においては、「御真影」をいかにして守るかが重要な責任となりました。 

戦前、小説家久米正雄の父親は学校の火事で焼失した「御真影」の責任を取って自殺しましたが、その後、「御真影」を火事の中から救おうとして、多くの学校長が命を絶った。ここに見えるものの畏れがあります。 

いま、テレビや映像で見えている政治家がいても、それは、ただ口をパクパク動かしているが、実は、中身は何も語っていない映像を見ても、何も感じないで、ただ漠然と見ている人々の恐ろしさがあります。 

【参考文献】浅田次郎『日本の「運命」について語ろう』幻冬舎・多木浩二『天皇の肖像』岩波新書

路傍の石にしては大きすぎるかな。

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奇襲!真珠湾作戦

2019-01-16 19:12:08 | 近現代史

『寺崎英成日記』では、寺崎が御用掛(天皇の通訳)に就任してすぐに、太平洋戦争開戦時の在米日本大使館の来栖全権大使から、天皇に「ルーズベルト親書」が届いたのかどうかを、寺崎から確認してくれと頼んでいるのが記されている。 

歴史的な軽重であれば、大使館館員の失態による遅れた最後通牒(宣戦布告)のことを天皇がどう思っているかを、来栖は最初に聞くべきではないか、と思うのは、我々下衆の者の心配事であるが、実はそうではなかった。 

つまりは、外務省筋は最後通牒が遅れた責任を感じていないのだ。或いは、太平洋を挟んでの広大なスケールで行われた戦争指導本部と大使館との阿吽の呼吸の寸劇だったとしか思えない。或いは、忖度した口裏合わせなのかもしれない。 

真珠湾の奇襲攻撃は既に決められていることで、完全なる奇襲実現のために最後通牒(宣戦布告)は絶対に遅らせねばならなかった。だから、電報は普通便で、且つ一番最後の14章に交渉決裂を宣言し、それでもなお、遅滞時間の最後の調整は大使館の現場に任されたのだろう。 

そこでは、大使館員の寺崎英成の歓送迎会の翌日で人手が減って、タイプの事務員が居ないのに、タイプ印刷にこだわった奥村勝蔵を筆頭に、大使館全体の失態によって、最後通牒が遅れ、結果、奇襲となったが、それは企図した奇襲ではなく、過失の奇襲にしたかったのだろう。

東郷茂徳外相は、戦後の回想の中で、在米大使館の館員の怠慢と過失は明らかであり、19428月に、野村大使より先に帰国した井口参事官に最後通牒遅滞の件を質問したが、「自分の管掌外の事で承知しない」とにべもなく返された。

しかし彼は、その後に野村大使とは接触したとは書いていない。また「来栖全権大使とはその後事情を聞く機会があった」とするだけで、何らその内容には言及していない 

結局は、宣戦布告をしない、完全なる真珠湾奇襲作戦を、出先の大使館事務の失態に責任転嫁したお粗末な筋立てと口裏合わせではなかったのかと、戦後の人間たちに非難されても、返す言葉もないだろう。〔以上、2018・12・23「もう一人の外交官」の続編

【参考文献】「寺崎英成御用掛日記」『昭和天皇独白録』文芸春秋/東郷茂徳『時代の一面』中公文庫

 

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