最近、平成天皇の火葬の話が出ているが、また大喪の日には、あの統制社会の暗い世界が現出するのだろうか。あの時の数日間は戦前の日本を充分に想像できた。政治家や社長さん、それにテレビのアナウンサーは喪服を着用、無論お笑い番組は禁止、居酒屋は自粛、街は灯りがしっかりと消えた。麻雀屋やパチンコ屋も休業か人がいない。みんな自粛しなければならないような雰囲気にされていた。国家権力の圧迫を、隣人の鋭い視線を、マスコミの誘導を肌で感じた。大喪の日には、みんな休日で、社会が止まる。テレビにはコマーシャルがない、白黒画面のような世界だ。大喪の儀は、棺を運ぶ車を、そしてそれに続く長い長い葬列の行進を、唯々、延々とNHKも民放も、同じ画面を映していく。あれを見て、我々国民は何をしろ言うのだろうか。頭を垂れて、天皇を失った悲しみを全国民が涙しろと命令されているのか。まさに全体主義、統制主義の再現だった。今の北朝鮮を笑えない世界が日本にも在るということが解った。あの時、国家に統制された戦前日本の社会というのはああいうものなのかと、つくづく感じたのを覚えている。そういう暗い社会を、またもや自民党の一部の議員たちは造りたいのか?そういう人の顔を一人一人じっくりと顔に穴があくほど見てみたいものだ。不思議なことに戦前の有名な政治家の孫たちが今も国会の後ろの席にズラーと座っている。政治家も老舗のように何代目とか名のればいいんじゃない。
自然界では、老いたライオンが草原で静かに死んだとすると、その腐ったまずそうな肉を最初に食うのは誰なのだろうか。ハイエナなのか、ハゲワシなのか、テレビで特集されたこともないので、解らないが。最近、人間界では、老いたライオンが隠遁していた森から草原に戻ってきた。しかも二頭で。今度、逃げ足が速く、変わり身も早い、高齢のチーターと戦うそうな。年齢において約10年の差、果たしてどちらが勝つのだろうか、勝敗を判定するのは、これまた多くの政治好きの高齢者たちであろう。齢七十を超せば、陽にあたった顔の皺が痛ましい。それでも無視されるよりはましなのだろうか。いずれにせよ、政治家という動物の業の深さは、草食系動物にはとうてい想像し難い、と言う他はない。
私にとって、自然災害を除くと、「この生涯で、ドカンとしたこと」は、60年安保闘争で東大の女学生が死んだこと、テレビに映ったキューバ危機とケネディの暗殺、三島由紀夫の切腹、そして昭和天皇の崩御。みんなテレビの映像からで、何故だか、みんな死に関わることだった。そして、不思議なことに、21世紀になってからは、東北大震災以外に何もないのだ。
経験はしていないが、いわゆる印象だが、戦前はと謂うと、原爆投下、真珠湾攻撃、明治維新、尊王攘夷、みんな戦争で血生臭い。どうも、戦前日本と戦後日本は別の国のように思えるのだが、それをどうしてもつないでおきたいというのが、靖国神社へお参りしたがる人たちなのかな。