玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

蘇るファシズム

2020-06-28 20:51:02 | 雑感

渡辺 白泉(わたなべ はくせん、1913年3月24日 - 1969年1月30日)は東京出身の俳人。

昭和初期の新興俳句運動において無季派(超季派)の俳人として活躍した。

戦争が廊下の奥に立つてゐた」という俳句があった。

今は、コロナの行列の後ろには何やら「ファシズム」というピエロのような道化役者が立っているような気がする。

その道化役者を復活させ、創るのは電通コマーシャリズムか。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度見の映画

2020-06-25 01:05:14 | 映画

「鑑定士と顔のない依頼人」如何にも、直訳の感じで、グーグル翻訳のような題名である。実は、二度見である。

詐欺グループに大切な絵をだまし取られるストーリーなのは知っていたが、見出したら、何となく最後まで見てしまった。

前に見た時はストーリだけ追って早回ししたのかもしれない。

今回気が付いたことは、実は絵が盗まれて何もない部屋の画面が最終だと思ったら、実はその後のストーリーが少しあったのだ。そこが案外よかったりして。

まあ、然したる感想もないが、一生かけて恋人のつもりで集めた絵画を盗まれても、生身の人間の恋人を偽物でも本物の愛と一瞬でも感じていたなら、応分の損失かもしれない、というのは些か映画でも残酷な感想かな。

原題は『BEST OFFER』この方が含蓄がある題名だ。どうも日本語訳は好きになれない。

自粛明けに植物園に行った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナと国家

2020-06-18 10:26:27 | 雑感

コロナ禍は、国家が国民の生命を守ることを第一義としていないことも突き付けた。

この国の政府は國家という体裁を守っているだけなのかもしれない。

戦争を知らない世代も「コロナ」によって例外状態を知った

遅ればせながら、戦前に対して幾分の平等感を持てた。

近代以降の国民国家は必ず国民に銃を持たせた。

その銃口が国民に向けられることもある、ということを知っておこう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナと情報

2020-06-17 10:50:07 | 雑感

情報が怪しいとすべてが信用できないと、切実に思わせたのは、コロナの感染者数であった。

この数字が信用できないから、国民は不安になり、自衛の縄を決して解かない。

それを「民度」と言う恍惚老人がいる。

毎日、二回、「云った通り」「仮定の話には答えない」「…尽きる」の同じ返答で、それに合わせた質問。

その猿芝居を毎日演じる記者たち。尽きてないのに尽きたという断言爺さん。

この醜悪な儀式は、政府の責任か、メディアの責任か。

「37.5度、4日間以上」の発言者、責任者がいまだに解からない。

こんな國はまず民主主義の国ではない。欧米の国民から見れば、安心できない国柄である。

空白が気になる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナと経済

2020-06-16 10:30:40 | 雑感

コロナは個々の人間関係を選別させられる。感染という厄災を引き受けるに足る人間とだけ接触が許されるという究極の選択でもある。

またコロナ自粛では、経済が人間の動きと関わり、つまり人との接触によって、多くの利益やモノが生産されて、それによって価値が生じ、経済が動いていることがよく分かった。

にもかかわらず、依然として既得権を守るだけの大企業主体の経済界は、コロナ後の方向性を何処に定めるのだろうか。

計らずも、コロナは、これまで隠してきた政府と縁故企業との絆を随所で露呈させてしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする