何故か英語を覚えたかった。そのきっかけは何だったんだろうか、いまだに分からない。中学校に入った頃だろうか、新宿のほうにあったプロメテ学院とかいう英語塾に通った記憶がある。その後しばらくして高田の馬場にあった神田外語学院という英語塾を探して行くようになった。そこで知り合った九州出身の子に初めて「デンデレリューの歌」を教わった。
中学から英語の授業が始まったが、クラスにとんでもない奴がいた。西田君というのだが、兎に角英語が上手い。発音とか当時の高橋先生も真っ青になるレベルであった。英語が好きだったから他の連中よりは出来たが、西田君の前では脱帽するのみだった。後で本人に聞いてみたら、父親が自衛隊の武官で当時の西ドイツの大使館勤務で、現地のインターナショナル・スクールへ通っていたという。納得である。
あの頃、Jack &Bettyの教科書を使い、This is a pen を連呼する時代であった。
きっかけかどうか分からないが、ひとつだけ思い出すことがある。小学3~4年の頃だったか、親父がシンガポールへ2年ほど行くかもしれないという話があった。恐らく今でいう海外技術協力隊のようなものだったに違いない。これには母親が猛烈に反対し、オジャンになってしまったのだが、この話を聞いた時、なにやら憧れを込めた”凄いこと”のように感じたことがある。
中学から英語の授業が始まったが、クラスにとんでもない奴がいた。西田君というのだが、兎に角英語が上手い。発音とか当時の高橋先生も真っ青になるレベルであった。英語が好きだったから他の連中よりは出来たが、西田君の前では脱帽するのみだった。後で本人に聞いてみたら、父親が自衛隊の武官で当時の西ドイツの大使館勤務で、現地のインターナショナル・スクールへ通っていたという。納得である。
あの頃、Jack &Bettyの教科書を使い、This is a pen を連呼する時代であった。
きっかけかどうか分からないが、ひとつだけ思い出すことがある。小学3~4年の頃だったか、親父がシンガポールへ2年ほど行くかもしれないという話があった。恐らく今でいう海外技術協力隊のようなものだったに違いない。これには母親が猛烈に反対し、オジャンになってしまったのだが、この話を聞いた時、なにやら憧れを込めた”凄いこと”のように感じたことがある。