よし坊のあっちこっち

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昭和の足跡(25)中学時代と英語

2021年05月27日 | 昭和の足跡
何故か英語を覚えたかった。そのきっかけは何だったんだろうか、いまだに分からない。中学校に入った頃だろうか、新宿のほうにあったプロメテ学院とかいう英語塾に通った記憶がある。その後しばらくして高田の馬場にあった神田外語学院という英語塾を探して行くようになった。そこで知り合った九州出身の子に初めて「デンデレリューの歌」を教わった。

中学から英語の授業が始まったが、クラスにとんでもない奴がいた。西田君というのだが、兎に角英語が上手い。発音とか当時の高橋先生も真っ青になるレベルであった。英語が好きだったから他の連中よりは出来たが、西田君の前では脱帽するのみだった。後で本人に聞いてみたら、父親が自衛隊の武官で当時の西ドイツの大使館勤務で、現地のインターナショナル・スクールへ通っていたという。納得である。

あの頃、Jack &Bettyの教科書を使い、This is a pen を連呼する時代であった。

きっかけかどうか分からないが、ひとつだけ思い出すことがある。小学3~4年の頃だったか、親父がシンガポールへ2年ほど行くかもしれないという話があった。恐らく今でいう海外技術協力隊のようなものだったに違いない。これには母親が猛烈に反対し、オジャンになってしまったのだが、この話を聞いた時、なにやら憧れを込めた”凄いこと”のように感じたことがある。

昭和の足跡(24)小平5小、小平3中

2021年05月13日 | 昭和の足跡
小学5年の夏、杉並の東田小学校から小平5小に転校したのだが、転校というのは何となく落ち着かないものだ。まず、都内からの転校なので、ちょっと距離を置いて見られるのが何となく分かった。この二学期に以前書いた「梅干し弁当事件」が起こるのだが、なにはともあれ、都会の不味い給食から解放されたのが嬉しかった。都内の授業が若干先行していたためか、二学期の成績もまずまずで、三学期には学級委員に選ばれてしまった。

仲が良かったのが小林勝美君と高橋公平君。女の子では鈴木章子、山田君子、河野操。この3人とは下校時校庭の片隅でとりとめのない話をしていた。

ベビーブーマーの我々世代。中学校は小平第三中学校。といっても最初の一年は新築校舎が間に合わず町(当時はまだ北多摩郡小平町であった)の公民館での授業であった。昔ながらの木造り公民館では床は雑巾がけで黒ピカだった。トイレも雑巾で磨かされたものだ。こうして二年生から新築の校舎へ通う。家から歩いて5分と有難かった。

家の周りの風景は、小五で移った頃は、まだ林があっちこっちにあり、すぐ近くの林には栗の木があり、台風の後には栗拾いが出来たものだ。店やはすぐ近くに中島食品店が一軒あり、ここでお惣菜は大概間に合った。時代とともに小さなスーパーや洗濯屋が出来、やがて花小金井周辺の発展とともに小金井街道沿いに西友が出来ていく。


昭和の足跡(23)花小金井の家

2021年04月13日 | 昭和の足跡
新しい家は小平の花小金井という所にあった。西武線花小金井駅から歩いて15分くらいか。

当初の間取りは、4畳半に6畳と台所トイレに風呂場のスペース。風呂場のスペースといったのは、風呂場を作るつもりでいたが予算の関係だろうか、風呂桶は置いておらず、ただコンクリートの床のみであった。だからそこが裏の勝手口となった。廊下はなく外に濡れ縁が設けられていた。これで一家5人が暮らしていた。

大分たったころ、家を増築することになった。風呂場スペースは床が張られ、裏口への通路に、更に廊下と奥に備え付け二段ベッドの小さな子供部屋が出来た。ベッドは上に妹、下はよし坊と弟が寝た。

そして最後が二階の棟上げである。定かではないが、よし坊が大学生の頃だろう。覚えていることが一つある。二階も含め家のぐるりのペンキをすべて親父が暇を見つけては梯子をかけてコツコツと自分で塗っていたことである。その出来栄えは大したもので、傍を通る人が皆褒めていた。今でいうDIYで、親父はやはりエンジニア気質だったのだ。よし坊はエンジニア気質とは程遠いが、その気質を継いだのは弟だった。

昭和の足跡(21)新宿西口

2021年02月08日 | 昭和の足跡
今でもあるのだろうか、新宿西口の駅と線路に沿った道。

小学校のころ、たまに親父に連れられて都電で新宿西口へ落花生を買いに行っていた。西口の道に沿って賑やかに商売の店が立ち並び、威勢のいい声が飛び交う。露天商も含め何でも売っていたように思う。

親父は落花生が好きだった。あの頃、駄菓子以外のお菓子といえば落花生、かりんとう等々。かりんとうでは思い出がある。当時はよく中に虫が入っていた。もちろん加工後だから死んでいるのだが、やはり気持ち悪い。だから今でもかりんとうを食べる時は一口では食べない。かならず割って少しづつ確認しながら食べるのだ。習性とは恐ろしいものだ。

新宿西口。あの頃の雰囲気が懐かしい。

昭和の足跡(20)我が家の貧乏飯

2020年12月28日 | 昭和の足跡
小学校の頃の食事を思い出す。飽食の時代を生きてくると余計懐かしい。我が家は裕福ではなかった、いや貧乏家庭であった。そんな家庭の貧乏飯は、おかずがない時に威力を発揮する。

醤油ぶっかけ飯 :ご飯の上にうっすらかけて、全体にかき回し、胃の中にかきこむ。手元がくるって、よく醤油をかけすぎるのが玉に瑕だ。

ソースぶっかけめし:醤油と同じ要領。当時はウースターしかなかった。今のとんかつソースがあったなら、きっとウースターととんかつソースを混ぜたぶっかけ飯をかきこんでいただろう。

甘味噌 :味噌に醤油をたらし、砂糖を加えてこね回す。とろりとなったこの甘味噌をご飯にかけて食べる。

ごま塩:黒ゴマに塩を加えてフライパンで炒る。今でいうフリカケである。元祖フリカケといってもいいくらいの一品だろう。

貧乏といってもご飯を食べられたのだから、貧乏の中でもましだったのだろうと今思う。

昭和の足跡(19)テレビドラマ

2020年12月08日 | 昭和の足跡
小学校の頃、日本のテレビは創成期にあった。今でも覚えているドラマは「日真名氏飛び出す」と「事件記者」。だが、最も影響を受けたのはアメリカから入ってきたドラマだろう。

アニメではポパイやトムとジェリー。ドラマでは名犬ラッシーやパパ大好きなどのホームドラマに始まり、西部劇のローンレンジャーや、若き日のクリント・イーストウッドが出てたローハイド(もちろん当時のイーストウッドが後に有名になるなど知る由もないが)。以後も続々とドラマが入ってきた。正にアメリカのオンパレードの中で育ったようなものだ。こんな環境が後々海外へ行きたいと思うようになった一つの背景であろう。

ホームドラマの食卓シーン。家族で大皿からご馳走を皿にとりわけて食べる。感謝祭ではターキーの丸焼きが供され、それを切りもって食べる。西部劇では、野宿をしながら、無造作にコーヒーらしきものを飲み、煮豆らしきものを食べ、血がしたたる獲物を素焼きにして頬張る。日本では見られない豪華さやワイルドさに憧れたものだった。

それが約25年前日本からアメリカに住みついて暮らしてみると面白い。当時凄いご馳走とおもっていた感謝祭のターキーも決して美味しいものではない。大皿に盛りつけたものも、マッシュド・ポテト(要するにジャガイモのすり潰し)である、野菜類のぶつ切りである。唯々ボリュームで勝負するという今のアメリカの食生活と変わっていないのである。

そんな風に思うのも、当時の日本は貧しく、そのボリューム感の圧倒されていたのだろうと思うほかはない。それにしても戦後アメリカに統治されたことはラッキーだった。


昭和の足跡(18)肝油

2020年11月09日 | 昭和の足跡
小学校の頃、なぜか肝油が美味しかった。うす茶色で、六角形だったと記憶する。

今でいう栄養補給サプリメントであろう。学校が支給してくれたのか、それとも有料だったのか、定かな記憶はない。また、毎日給食時に食べていたかどうか、これも記憶にない。ただ、夏休みに入る前に肝油の缶を持ち帰り、毎日一粒づつ食べた記憶は残っている。夏休みの楽しみのひとつでもあった。

美味しいので毎回二粒目を食べたい誘惑にかられながらの一粒がやけにうまかった。とり目かかっけの予防で飲んでいたように思う。

昭和の足跡(17)テレビとプロレス

2020年09月28日 | 昭和の足跡
小学校の頃は家にはまだテレビはなかった。家から数分の五日市街道の角にパン屋があって、そこにはテレビがあり、路地からでも観れるようにしてくれていた。そのテレビで初めて観たのがプロレスである。プロレスの時間になるとそこには人だかりが出来ていた。

戦後の日本人が生活の中で、何か「希望」を求めていた時代、颯爽と力道山が現れ、庶民を魅了していく。アメリカとの戦争に敗れた日本人は力道山がアメリカのプロレスラーを空手チョップでなぎ倒す様に喝采し留飲を下げていた。力道山とプロレスは当時の日本人に元気を与えてくれたのは間違いない。

力道山を筆頭に初期は相撲界からの転身が多く、次いで柔道界が続いた。タッグを組んだ遠藤幸吉がいた。火の玉小僧吉村道明、そして豊登、芳の里など。大木金太郎は頭突きで席巻した。その後、ジャイアント馬場、猪木が続いた。

それにしても、戦後の”日本興し”に半島出身者の力道山が一役かったのは、興味深いことだが、現在の半島情勢は北も南も酷いものだ。力道山も泣いていよう。

昭和の足跡(16)ラジオの時代

2020年08月17日 | 昭和の足跡
家にテレビが入ったのが中二の頃、昭和36年だったろうか。それまではラジオの時代だった。

歌ありドラマありで、ラジオにかじりついていた。今も記憶に残っているのは、ホームドラマの「一丁目一番地」。父親役が名古屋章、母親が岸旗江だったと思う。

忘れてならないのが「赤胴鈴之助」。なぜそこに居たのかは定かではないのだが、公開録音の場に居たのだ。場所は恐らく日比谷公会堂野外ステージ。たまたま日比谷に行って出くわしたのか、それともラジオのお知らせを聞いていったのか。今となっては分からない。

主人公は鈴之助だがヒロインがいた。ラジオドラマが始まる時配役がアナウンスされるので当時から名前を聞いていたはずだが、その子があの吉永小百合だと認識したのは、ずっと後のことである。遠目にステージを観ていたが、やはり可愛かった。

テレビの普及につれて娯楽ものはテレビに移行したが、中学高校の受験生にとってはラジオは手放せなかった。ラジオ講座を聞き、旺文社のテキストにかじりついた。そのうち深夜放送に聞きいるようになる。高崎一郎のオールナイト・ニッポン。高石友也の受験生ブルースが流れる。

音楽もよく聴いた。当時は映画音楽全盛の頃。欧米のサウンド、とりわけ日本ではヨーロッパ映画の上映が盛んでハリウッドに引けを取らなかったから、心に残っている曲もヨーロッパ映画が多い。今聴いてもいい曲が多い。

昭和の足跡(15)映画小僧と阿佐ヶ谷界隈

2020年08月09日 | 昭和の足跡
最初に記憶のある映画は「君の名は」。当然、母のお供で行ったのだが。依頼映画が大好きで、今に至っている。

住んでいた東田町から青梅街道へ出ると、阿佐ヶ谷駅に続くスズラン通りが出てくる。この通りを暫く行くと左手に入る道が出てきて、そこを曲がると右手に東宝があった。

阿佐ヶ谷駅方面に進むと右手に松竹が出てくる。その手前を右に入ると奥が大映だった。そして、駅の向こう側に確か阿佐ヶ谷オデオン座があり洋画をやっていた。

この頃は再々映画に行けるような小遣いがあるわけではなかったので、専らの楽しみは映画館に張り出されているスチール写真を見てあれこれ想像を膨らましていた。

小学生の時分からこうだから、要するにませていた。松竹の看板で炎加代子のいささか過激なポスターに胸がドキドキしたものだ。大映のポスターでは何と言っても山本富士子の美しさにはうっとりしていた。今でも忘れないのは映画「白鷺」のポスター。確か共演が川崎敬三だったと思うが、二人並んだポスターの前で佇んでいたのを覚えている。東宝では鶴田浩二の眠狂四郎を観た記憶がある。

荻窪まで足をのばしていたのは、新東宝が荻窪しかなかったからだろう。宇津井健のスーパージャイアンツが特撮としてはちゃちだが懐かしい。

今でもインターネットで映画を漁ってはワイフと毎日のように観ている今日この頃だ。