よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

昭和の足跡(14)都電、トロリー、省線電車

2020年07月14日 | 昭和の足跡
当時東京は杉並の東田町と言う所に住んでいた。今は成田東と変わっている。近くを通る五日市街道から路地に入り青梅街道へ出ると阿佐ヶ谷界隈になる。家の近所以外の生活圏がこの界隈となっていた。
昔の青梅街道には都電とトロリーバスが走っていた。これに乗って新宿まで行っていた。何の目的で行っていたかと聞かれても思い出せない。ただ親父と一緒に新宿西口にあった露天商の雑多を覚えている。そこで親父はよく落花生を袋一杯に買っていた。トロリーバスはやがて普通のバスに変わり、都電も消えていった。2~3年前日本へ帰った時に東京へいったが、無性に都電に乗りたくて、唯一現存しているに三ノ輪から早稲田まで乗った。

青梅街道をスズラン通りに進むとやがて阿佐ヶ谷の駅が出てくる。昔はチョコレート色の「省線」と呼んで、これも新宿まで行ったものだ。そのうち車両もオレンジ色の新しいのに変わり、更に国鉄からJRなり、今では車両も路線で様々な色分けがされるようになった。

今一度、あのチョコレート色の「省線」に乗ってみたいものだが。今では古い昔の映画でしかお目にかかれない。





昭和の足跡(13)整備士としての親父

2020年07月03日 | 昭和の足跡
前稿で書いたように、親父は整備士だった。熊本工業高校を出たと言っていたから、そこで機械工学を学んだようだ。巨人の川上が同窓だったのが自慢だった。

高校を出てから親父は上京している。車の整備士として主としてタクシー会社を何度か変わっている。昭和14~5年の頃だから、世の中決していい時代ではなかったろう。仕事にありつけるのも地方出身者にとっては楽ではなかったはずだ。

当時のスポーツは野球が中心で、たまに親父は六大学の試合、とりわけ早慶戦に連れて行ってくれた。早稲田贔屓だったので、よし坊も自然と早稲田ファンになり、野球のユニフォームを買ってもらった時、ソックスは当然エンジ色の早稲田カラーだった。

早稲田贔屓には理由がある。上京してから二級整備士の資格を取る為に、早稲田の夜学(と言っても、所謂夜学ではなく、資格を取る為の必須コースを受講したのだろうと推測する)に通い、資格を取得している。決して裕福ではなかったが、この資格のお陰で職場がよく倒産したが次の職場に比較的早く就けたようだ。

整備士としての腕は評価が高かったようで、当時プロ野球出身のラジオの解説者(名前は忘れたが)の乗っている外車(マスタングだったと思う)の整備を個人的に全て任されていた。

小学校4.5年の頃だったか、親父が、今で言う、海外協力隊に応募してシンガポールを目指したことがあったが、母の猛反対にあって実現しなかった。自分の腕を海外で試し、かつ貢献したかったのだと思う。心残りのひとつだったに違いない。

親父の機械いじりのDNAは9歳年下の弟に受け継がれたが、残念ながら48歳であの世に行ってしまった。よし坊にはDNAは引き継がれなかったが、もし、生まれ変わることが出来たなら、今度は機械いじりをやってみたい気がする。

昭和の足跡(12)東京モーターショーとルノー

2020年06月20日 | 昭和の足跡
私の親父は自動車の整備の仕事に携わっていた。職場はタクシー会社での整備だ。その関係でたまに会社の車で帰ることがあった。決まってルノーだった。この時代、日本の国産車が無く、ルノー以外はヒルマンをよく見かけた。日本初の国産大衆車は1961年のパブリカだ。トヨタが名前を全国に公募したのを覚えている。

そんな関係で、毎年東京の日比谷公園で開催される東京モーターショーに親父がルノーで連れて行ってくれた。なにやらお祭り気分で、楽しかった。

当時のルノーは独特の車体で、子供ながら「犬」のようなイメージがあった。これによく似たのが、後で出てきたフォルクスワーゲンとかスバルだろうか。

当時の映画やテレビドラマが100%外車から徐々に国産車に移り、高度成長とともに、モーターショーの開催も晴海会場に変わっていく昭和の良き時代であった。

昭和の足跡(11)田舎

2020年03月25日 | 昭和の足跡
生まれは長野県下諏訪だが、育ちは東京だ。母が長野県の茅野出身なので、終戦直後の昭和22年、お産の為に下諏訪の妹の所に身を寄せたらしい。だから戸籍謄本には下諏訪が記載されている

その長野県に生まれて初めて行ったのが小学校三年の夏休み。何故そうなったのかは記憶にないが、ともかく初めて汽車に独りで乗った。恐らく父親が新宿駅まで送ってくれたのだろうが、記憶にはない。下諏訪に着くまでの記憶は、汽車の煤の匂いと山梨の小淵沢という所でのスィッチバック。これが面白かった。今ではイメージできまいが、汽車ではパワーが出ないから急こう配を進むのに行ったり来たり、ジグザグで登っていく。

下諏訪の叔母の家で茅野の玉川村から来ていた祖母に初めて会った。数日して祖母が玉川村の家に連れて行ってくれた。この家で約一か月ほど滞在した。

リンゴ園をやっていたが、ここで初めて炭焼きを経験した。ここでの生活は全てが別世界だった。家の脇には小川が流れ、どぜうをザルで取ってフライパン焼きにした。蛇が出ればどうやって殺すかを教わった。初めて蜂の子を食べさせられた。生来オネショ癖がついていたから3年生でも地図を書いていた。それを黙って祖母が日向で布団を干してくれた。冬瓜からカンピョウを剥いた。中二階にカイコ棚があり、朝は桑の葉をリヤカーで採りに行き、昼間は繭から糸を紡いだ。山に登れは清水が湧き、夏休みの宿題になる蝶々とトンボ採りに熱中した。にぎりめしときゅうりに味噌をつけて食べた。トイレは外にある、穴の上に板が二枚渡してあるだけだった。夜は怖くてガマンしていると、朝起きると布団に地図。

後にも先にも初めての田舎暮らし。懐かしい三年生の夏。


昭和の足跡(10)給食

2020年03月05日 | 昭和の足跡
よし坊の給食は小学校5年までだった。5年生の二学期から今の小平市に移ったからだ。当時の小平の小学校には給食は無く弁当持参だった。

給食メニューで恐ろしかったのはミルクだ。脱脂粉乳という悪名高い飲み物だ。味は不味い。加えてあの表面塗膜だ。ミルクが冷め始めると途端に表面に薄い膜が張られる。これと一緒にミルクを飲む気持ち悪さは相当だ。だから、いつも鼻を摘まむか息を殺して一気飲みするのだ。もちろん膜は横にどけて飲む。

小さい頃は好き嫌いが多かった。ネギ、玉ねぎの類と人参(これは今でも嫌いな野菜だが)。今で言う肉じゃがみたいなごった煮のようなものが出ていた。どろどろの玉ねぎとでかい人参。食べるのに苦労した、というよりはいつも残していたように思う。

パンはコッペパン。フランスがルーツらしいが、大体半分残し、残すと怒られるからランドセルのポケットに入れて帰る。翌朝までランドセルは明けないからパリパリになっていた。それでもコッペパンの揚げパンが出た日は美味しいから完食となる。

たまにミルクではなくコーヒーが出てくる。あれをコーヒーと言っていたのだが、本当は何だったんだろう。本当のところはともかくとして、美味かった。

それにもうひとつ、美味しい物に肝油があった。栄養補給剤だが、この小さな粒が気に入っていた。支給は一粒だったか二粒だったかは覚えていない。

5年生で転校し、弁当持参となった時、なにやら嬉しかったのを覚えている。今、あの給食の時代が懐かしい。


昭和の足跡(9)塾通い

2020年02月22日 | 昭和の足跡
受験戦争と塾通い、昔からワンセットで言われてきたお題目である。

よし坊は小学校の3年生頃から塾に通っていた。と言っても有名中学を受験するなどと言うようなものではない。ちょっとした流行でもあったし、仲の良い友達が行くというので親にせがんだ。勉強の上達は二の次だった。そのころ、塾の近くにラジオの文化放送のお偉いさんが住んでいたらしい。ある日、塾の休憩時間に外で遊んでいると、黒い高級車が通って、先で止まった。出てきたのが長嶋茂雄であった。我々子供たちは一斉に走った。

子供の頃から何故かしら英語に興味があった。そこで小学校6年になるころ、親に頼み込んで英語の塾に行くことにした。新宿の方にあったプロメテ学園といいう塾だ。

中学に入るとショッキングな事があった。クラスに途轍もなく英語の出来るのが居た。今で言う帰国子女である。父親が自衛隊とのことだが、当時では自衛隊と外国が結びつかなかった。今でもそうだが、外国大使館には自衛隊や警察出身の駐在武官が派遣される。彼の父親もそうだったのだろう。それに刺激されて、高田馬場にある外語学院という塾に通った。この塾クラスで知り合った二人の九州出身の友達から教わった土地の歌、デンデレリューダーは今でも覚えている。

高校では英語だけは成績が良かった。2年になる直前、英語の矢吹先生から、交換留学の試験を受けないか誘われたが断ってしまった。もうひとり誘われていた別のクラスの山下嬢は試験を受けアメリカに飛び立ち、一年後、3年になった時2年に編入で帰国した。何故、あの時断ったのだろうか。後々の進路も変わっていたかもしれない出来事だった。そして希望通り大学で英語を専科とし、ビジネス英語に注力した。

何故あの頃英語に興味を覚えたのかを考えた時、思い当たることがある。当時小学生の頃、親父に海外技術援助スタッフでシンガポールへ行けるチャンスがあった。何故覚えているかと言うと両親の間で騒動があったからだ。母が親父に行ってくれるなとエライ権幕で言い立てている。結局行かないことにしたのだが、その時だろうか、外国、シンガポールなどが頭にインプットされたのは。いつか親父が行けなかった外国に行こう、と思うようになった。




昭和の足跡(8)やけど と 幼稚園

2020年02月05日 | 昭和の足跡
世の中目まぐるしい。保育園幼稚園に入れないと大騒ぎしたかと思ったら、これからは逆の潮目で大変だ。少子化の波をもろにかぶり、閉める所も出て来よう。

昭和の27年頃、子供が普通に幼稚園に行ったのかどうか、定かではないが、よし坊は幼稚園には行かなかった。正確に言えば行けなかった。

ある日、炭炬燵で寝ていて、寝入ってしまい、炭の上をカバーする金網の上に置いた足のふくらはぎを火傷したのだ。ふくらはぎ全体だから結構な面積で、歩けなくなった。この記憶は今でも頭の隅にある。

もうひとつ記憶にあるのは、歩けないから木製の乳母車に乗せられて近くの幼稚園を外から見ていた光景だ。と言うことは、幼稚園に入園する予定だったのかもしれない。

やけどの跡は72歳になった今でもうっすらと残っている。

昭和の足跡(7)履物

2020年01月16日 | 昭和の足跡
小さい頃の一時期、下駄を履いていた記憶がある。そして、木製のサンダルだ。遊びまわるのに履いていた靴は総ゴム製だった。だから蒸れる事蒸れる事この上なしだった。それがいつの間にかズック靴になった。覚えているのは月星とかアキレスとか。サンダルもやがてビニール製になっていった。そう言えば、ゴム草履というのもあった。

小学校6年の頃、もうすぐ中学入学が間近になるにつれ、一つのワクワク感があった。黒の学生服を着るのもそうだが、当時中学生が履いていた白いズックのトップシューズと言われていた運動靴だ。あれを早く履きたかった覚えがある。

大学の頃どんな靴を履いていたのか、あまり記憶がない。革製のカジュアルだったのか、それとも所謂スポーツシューズだったのか。殆ど覚えていないから不思議なものだ。

繊維会社に就職したが、人工皮革を扱う部署だったので、履物ビジネスに入っていった。とりわけスポーツシューズが主体だったが、当時の業界はダイナミズムに溢れていた。国内のオニツカ、ミズノの市場にナイキが参戦したのだ。これをきっかけにリーボック、ケイパ、サッカニー、ニューバランスなどの海外ブランドの積極展開が始まった。個人的に履いたのは、最初はナイキ、続いてリーボックを好むようになり、最後はニューバランスにたどり着き現在に至っている。よし坊の影響だろうか、ワイフもついにニューバランス派になり、近くを通ればNBショップを必ず覘き、年がら年中ホームページで新デザインを探している。

ビジネスから遠ざかったので革靴を履く機会は殆どなくなった。特にビジネスシューズは下駄箱に眠っている。それでも当時はブランドに拘ったものだ。服装がトラッドだったので、国内ブランドではリーガルシューズ。それと大塚製靴のフォーマルトラッド。アメリカンブランドのコールハーンもお気に入りだったが、ナイキが買収してからは”らしさ”がなくなり興味を失った。これらはそろそろ処分せねばなるまい。

昭和の足跡(6)プロレス

2019年12月18日 | 昭和の足跡
あの頃、日本にひとりの英雄が登場した。昭和30年頃のことである。当時我が家にはまだテレビなるもんは無かった。あるのは商売をやっている店くらいしかなかった。家から出て五日市街道に出る角にパン屋があった。そこにはテレビが居間に置いてあり、通りから見ることが出来る。パン屋もプロレスが始まる時は、窓を開けて皆が観れるようにしてくれる。そして、我がヒーロー、力道山の登場である。戦後の、まだ日本が立ち直っていない時期、大いに我々に活力を与えてくれた。何しろ、戦争に勝ったアメリカ人のレスラーがバッタバッタと倒れるのだから、こたえられない。この戦後のヒーローが半島出身だったと知ったのは遥か後のことである。

力道山と柔道の木村の戦いがあった。タッグを組んで喝采を浴びたのは遠藤幸吉。力道山の空手チョップを出し、遠藤がドロップキックを連発する。力道山が相撲からの転向だったせいか、その後相撲界から豊登や芳の里がやってきた。他にも色々居た。テクニシャンの吉村道明が繰り出す技に拍手喝采したものだ。変わったところでは木金太郎。日本人レスラーでは珍しい頭突きを得意としていた。彼も半島出身と聞いたのは後のことだ。やがて、ジャイアント馬場の時代となり、そこからアントニオ猪木が分かれていった。

外国勢もいろいろだ。力道山とNWAチャンピオンを争った硬派のルー・テーズ。華麗なテクニックで魅了したものだ。日本でタイトルマッチをやると、まず負けて力道山が株を上げる。しかし、帰国までに復讐戦があり、ベルトを取り返すことになる。プロレスはショービジネスだから、最後は戻るシナリオとなっている。他に原爆固めのカール・ゴッチがいた。悪役では銀髪鬼ブラッシーがいた。相手に噛みつき口を真っ赤にして襲い掛かる。アブドラ・ザ・ブッチャーもいた。このブッチャー、アトランタに住んでいるが、今から15年前くらいか、彼のレストランで会ったことがある。身近に見ると、愛嬌があり、馬場の思い出話をしてくれた。奥さんは日本人だった。プロレスファンのみならず、日本中に名を轟かしたのがザ・デストロイヤーだ。あの四の字固めは強烈だった。

あの頃、みんなプロレスで育ったようなものだ。

昭和の足跡 (5)遊び

2019年09月27日 | 昭和の足跡
小学校の頃、家で遊ぶことは殆ど無かった。学校から帰るとランドセルを放っぽりだし、外に出る。子供の世界は「外」にある。

チャンバラごっこ。刀代わりの棒を探す。適当なのがないから、大概近くの竹藪に行き採ってくる。今から思えば私有地なのだろうが、無造作なその竹藪で竹を採っても怒られることは無かった。刀が揃えば、次はどのヒーローになるか。鞍馬天狗か紫頭巾か。だいたいそんなところだった。

ビー玉遊びもあった。メンコにベーゴマ。缶蹴り。そんなのに夢中になり一日が終わる。

当時の遊びの中で、今思えばちょいと変わった遊びがあった。子供の世界の「鋳物」の遊びとでも言えばいいのか。駄菓子屋で5センチx10センチくらい(今や定かな数字ではないが)の鋳型(当時何で出来ていたかは知る由もないが)を買ってくる。型は髑髏とか他にもあった。どこでどう調達したのかは覚えていないのだが、錫(だったと思う)をブリキの上で溶かして型に注ぎ込むと、髑髏の型が出来上がる。ただそれだけの事だが、いくつも作って自慢するのだ。他愛もない遊びだが面白かった。こんな遊び、今の親なら”とんでもない、危ない”と言って絶対させないだろうが、子供としての「経験」なのである。

今の遊びはデジタルの”仮想”世界の遊び。現実が見えないから、何やら”危険”な匂いが充満している。怖い世界になったものだ。