よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

昭和の足跡 (4)駄菓子

2019年09月10日 | 昭和の足跡
小学校の頃。毎日貰っていたかどうか記憶にはないのだが、貰う時のお小遣いは5円か10円だった。東田小学校の前に駄菓子屋があった。毎日学校から帰るとランドセルを放って外に遊びに出る。出がけにお小遣いを貰い、遊びの途中で駄菓子屋に走り込む。

店には飴玉やら煎餅やら、それなりのバラエティはあった。とりわけよく買ったのが「酢イカ」とでも言おうか、イカに甘酸っぱい赤色のタレが付いている駄菓子だった。飲み物ならやはり「ラムネ」がくる。駄菓子類以外にも、メンコとかビー玉が売られていたから、毎日のように駄菓子屋には出入りしていた。

もうひとつ忘れてはいけないものがある。キャラメルだ。森永ならミルクキャラメル、明治はチョコレート味、外せないのがグリコ。何せ、おまけが欲しいから、ついグリコに手が伸びた。

昭和の足跡 (3)野球

2019年08月13日 | 昭和の足跡
小学校の頃のスポーツと言えば野球だった。低学年ではゴムボールを使った三角ベースの野球で、人数も3~4人いれば成立する。ワンバウンドの手打ち野球である。ゴムボールを変に捻くって投げるとワンバウンドだから、あらぬ方向へバウンドする。これが変化球である。ボール一個で出来る、何とも他愛のない野球であった。

そのうち軟球野球にをクラスの友達とやるようになった。専ら野球の上手い吉井君というのがいて、全体をリードしていた。よし坊はどういうわけか、先発のピッチャーをやっていた。ゲームが半分過ぎた頃、決まってピッチャ‐交代で吉井君が投げ、よし坊はショートに回る、と言うのがパターンになっていた。

当時、何故か覚えているのが早慶戦である。何度か父に連れられ観に行った覚えがある。父は一時期整備の勉強で早稲田の夜学に通っていたこともあり、早稲田びいきだった。それが影響してよし坊の早稲田ファンとなった。当時の早稲田のユニフォームは白にエンジである。いつの日かあんなユニフォームを着てみたいと思ったものだ。

野球に明け暮れていたのも、小学校5年が最後だった。杉並からみれば、当時まだ田舎然としていた北多摩郡の小平へ引っ越すことになったからだ。

あの頃、日本中が”野球”だったように思う。

昭和の足跡 (2)道

2019年08月06日 | 昭和の足跡
小学校5年まで、当時東田町(今は成田東というらしい)に住んでいた。近くに大宮公園(これも今は和田堀公園というらしい)があり、相撲の花籠部屋があった。

当時の道はどこかしこも土の道である。子供は外で遊ぶものだと、土の道を駆けずり回り、メンコやチャンバラごっこに明け暮れた。

大宮公園 思い出すのは事件だ。松本清張の「黒の福音」の題材にもなった、BOAC(英国航空)の日本人スチュワーデス殺人事件である。その日、外で遊んでいた、急に周囲が騒がしくなり、遊んでいた仲間と公園に走った。既に規制されていて、何が起きているのか分からなかったが、後で殺人事件だと知った。この大宮公園は我々の探検の場所だった。川沿いにちょっとした洞穴などがあり、何が出るかわからないので、竹棒を片手によく探検そしたものだ。竹棒は家の近くに竹藪があり、チャンバラごっこの刀に使ったものだ。

花籠部屋 初代若乃花のこの部屋は、家から阿佐ヶ谷へ通じる細い道沿いにあった。通ると部屋の二階から洗濯した力士のふんどしが所狭しと垂れ下がっていたものだ。不幸なことに、まだ小学校だったはずの長男が事故か何かで亡くなり、喪服姿の人々が集まっていた所を見に行った記憶がある。

東伏見邸 家の近くを通る五日市街道から阿佐ヶ谷に抜ける小道を直ぐ入った右手一帯が旧宮家の屋敷だった。正門は五日市街道に面していた。この中に高貴な人が住んでいるのだなと、思いながら通ったものだ。

五日市街道  新宿方面へ行くのに関東バスが通っていた。道が狭いから、対向時は車掌が降りて笛を吹きながらバックの誘導をする。バスの車掌は当時の女性の憧れの仕事のひとつだったのだろう。

どの道も土だった。五日市街道沿いには田んぼがあり、灌漑用の水路にはオタマジャクシの子がわんさと生息し、道路わきの泥沼にはザリガニがいた。どこもかしこの土の匂いがしていた。

約15年前、日本へ行った折、懐かしの旧東田町を訪れたが、当然のことながら、昔の面影は微塵もない。そこは確かに別世界だった。




昭和の足跡 (1)足袋

2019年07月23日 | 昭和の足跡
今時、足袋を履くのは限られた職種の人達で、日常生活の中で見かけることは殆ど無い。そのうち、足袋と言う字も姿を消えるのかもしれない。今の若者に足袋をタビと読めるのがどれほどいるのだろうか、とさえ思う。

敗戦後のベビーブーマー世代にとって、昭和、平成、令和と生きてきて、やはりそのバックボーンは昭和にある。昭和という時代は、面白い時代であった。明治、大正を受け継いだ昭和の20年間は、不幸な戦争で区切りをつけ、一からの出直しとなった時期に団塊世代としてこの世に登場出来たことに感謝せねばなるまい。”昭和という佳き時代”と言わせてもらいたい。

そのベビーブーマー達が日常生活の中で、ぎりぎり覚えているのは足袋である。よし坊には足袋を履いていた記憶がかすかに残っている。足袋を履いていたと言うことは下駄も履いていた。足袋は黒っぽい、濃紺のような色だったように思う。くるぶしの所で、二つか三つのフックで留めていた。お祭り(多分夏まつりか秋祭りだろう}の時は白い足袋だ。法被とハチマキをしているセピア色の写真が残っている。

足袋に下駄とくれば、浴衣も着ていた。夜寝るときは、前に帯代わりに紐が括り付けられた寝間着を着ていた。やがて、靴下とパジャマが日常になっていった。昭和22年生まれからすると、昭和27~8年の頃であろうか。