よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

男は女より優れているか

2020年10月14日 | いろいろ
こんな質問を世の男性たちにぶつけたら、表向きは”同じだ”と答えても内心はそうではないと思っている男性も多いはずだ。その拠り所は身体能力としての「力」である。この「力」によって”男は女より優れている”と錯覚する。

地球上に単細胞生命体が現れ、両性類からオスメスに進化、人類となった。、自然は人類に身体的特徴と役割を与えた。オトコには「力」という身体能力で生存する為の食料を確保させる。オンナには、受胎能力を与え種族繁栄の使命を任した。外見や役割の違いはあるが、優劣の差ではない。これが出発点であろう。

残念ながら、ヒトが増えれば争いも起こる。それを鎮める最も簡単な手段が「力」による制圧だ。この「力」はやがて、身体能力の弱いオンナの征服に向かう。こうしてオトコはオンナに対する優越感を勝ち取り、オトコはオンナより上、との図式が出来上がった。手に入れた優越感に持続的に浸る為には「オトコ社会」をなんとしても維持しなければならない、とオトコは考え、決めごとはオトコだけで決める、とした。その典型が参政権である。今では当たり前だが、参政権が女性に与えられたのは、そう遠くない近代史の出来事である。

「オトコ社会」を誇示し「力」でオンナを制圧しようとするセクハラは後を絶たない。だが、アメリカではMeToo運動が起こり、オンナの反撃が始まったと言ってもよい。この運動で悪事が暴かれ、多くの有名人が塀の向こうに消えていった。

10年程前、日本で働いたイリノイの女性は滞在記の中で、「アメリカでは当たり前のセクハラの概念は未だ太平洋を渡っていない」と当時の日本の現状を嘆いていた。その後日本でもセクハラ訴訟が増えるには増えたが、まだまだレベルが違い過ぎる。最近日本の女性ジャーナリストI.Sさんのセクハラ訴訟が話題となったが、セクハラ訴訟は証拠の取扱いが難しく、日本ではとりわけ困難を伴う。残念ながら、ISさんの件は、刑事訴訟では有罪を勝ち取れなかったものの、民事で賠償支払いの決定が出た。要するに原告は実質有罪と判定されたのである。

最近の日本の医学部国家試験の合格者は女性が男性を抜いたとか。オトコがオンナより優秀だ、などと考えていると、世の男性諸君はそのうちトンデモナイしっぺ返しを食らうかもしれない。

日本の不思議 何故マイナンバーが普及しないのか

2020年06月14日 | いろいろ
コロナ禍対策でアメリカ市民に対する経済支援策として最大独り1200ドルが決定された。日本と異なり一律ではないから、それぞれ所得に応じての給付になるが、低所得者や年金受給者は1200ドルがもらえるという。アメリカ市民でなくとも永住権所有者で米国年金受給者であれば対象に入って入りので助かる。そんなわけでNJで働いている娘は所得に応じた600ドル弱を受け取ったという。我々は年金所得所になるので二人で2400ドルを政府発表から一か月でチェックで受け取った。アメリカはご存知のように、国民全てがソーシャルセキュリティー番号で管理されているから、何事も迅速に出来る。

翻って日本はどうか。マイナンバー制度すら普及していないのに、当初は所得に応じた給付金を考えていたようだが、簡単にとん挫したのは当然の帰結だろう。あのまま進んでいたらトンデモナイ混乱になったと想像できる。しかし、一律に変更したまではいいが、そのあとがうまくいかない。

本来のマイナンバー制度が確立していれば、こんな時造作もなくアクションがとれる。なぜ制度が進まないのだろうか。プライバシー侵害を恐れている? 現代は全ての局面でプライバシー侵害のリスクに晒され、その保護の為のセキュリティ対策の真っただ中に生きている。それを恐れていたら取り残されるだけである。

髭剃りの話

2020年06月03日 | いろいろ
日頃、髭剃りには貝印の二枚刃を愛用している。日本に帰る度に二枚刃の替えをホームセンターで買って帰る。日本にいる時は三枚刃だったが、今では五枚刃が流通している。さそかしソフトに、スムーズに剃れるのであろうが、果たしてそこまで必要なのだろうか、と思ってしまう。

昨年日本へ帰った時、亡くなった義父が愛用していた一枚刃の使い捨て髭剃りが嫁の実家にたくさん残っていたので貰って来た。それ以来使っているのだが、この歳(72歳)になって気づかされたことがある。

習慣とか先入観とは恐ろしいもので、一枚刃だから一週間くらいでダメになるからと新しいのをとっかえひっかえしていたのだが、待てよ、それほどダメなのかな、と思い直してどこまでいけるか今試している最中である。

もう一か月同じものを使っているが、結構いけるのである。最初の切れ味こそないが、あとは殆ど変わらない。剃り方を工夫すればまだまだいけそうである。要するに剃る度に石鹸で滑らかにして、縦、横、逆さ、時には斜めに剃ると綺麗に剃れるのだ。

昔懐かしの一枚刃も捨てたものではない。使い捨ての感覚で皆使っているのだろうが、おっとどっこい。この世の中、無駄で成り立っているのがよく分かる。今回のコロナ禍、いかに日頃の生活が無駄で踊らされていたかを思い知らせてくれたような気がする。たまには原点回帰が必要だ。

私とパソコン

2020年01月26日 | いろいろ
90年代に入っても会社の月例報告は手書きだった。新しもの好きの同僚がある日ワープロを会社に持ち込み、レポートをワープロで書き出したが、特に興味も持たなかった。

ワープロから一歩進んでパソコンへの入り口を作ってくれたのがA氏であった。88年頃だろうか、シカゴに出張の折、ヒルトンのバーカウンターで飲んでいた時、たまたま隣になったのが中堅商社N産業のA氏だった。名刺を交換後、同世代のよしみで大いに飲んで別れた。90年代に入り、仕事柄、アメリカのSスポーツへのコンタクトが必要となり、Sスポーツジャパンから現地担当者を紹介してもらおうと考え、電話を入れたところ、電話はまわりまわって社長に繋がった。「覚えてますか?以前シカゴのホテルで盛り上がったAです。今、ここの社長をやってます」。後日面談した際、社長になった経緯を話してくれた。N産業はアメリカのSスポーツの日本輸入総代理店で、A氏は毎月のようにミーティングの為渡米するようになった。アメリカでは早くからワープロ、更にはパソコンでの作成書類が普通となっており、アメリカ人に後れを取らないようパソコンの猛勉強をしたという。プレゼンでアメリカ人に引けを取らないA氏の評価が定着し、Sスポーツ日本法人設立の初代社長に任命されたとのことであった。アメリカとパソコン。この話が強烈に頭に残った。

94年暮れ、アトランタでの現地法人スタートアップの辞令を受けた時、頭に浮かんだ一つがA氏の話、パソコンだった。パソコンの何か、も分らぬまま電気街に行って購入したのが出たてほやほやのNEC98ノートB5サイズだった。ワープロソフトは当時全盛の一太郎。アトランタからの当初の月報は全て98ノートでたたき出した。因みにOPはW3.1だったと思う。値段は今となっては覚えていないが、20万以上はしたのではないか。

しかし、マイクロソフトがW95、更にW98を出すに及び、世界的にワードとエクセルが主流になったことで、日本に出張帰国した折NECのLavie A4サイズを購入した。その後、XP主流になった頃、シャープに変えた。ここまでの所、ノートパソコンの機能やスペックに拘りは一切なかった。と言うよりは無知だったに過ぎない。ただ、日本に帰った時に電気屋の勧めるまま、最新版を20万円前後で購入していただけである。製造ブランドなら日本品、だけが根底にはあった。

シャープのノートパソコンが度々不具合を生じたので買い替えることにした。ブランドはソニーと決め、アメリカ販売品を調べ、当時の手ごろ値段1300ドル台に照準を合わせた。丁度日本出張があったので電気街に見に行ったところ、同じスペックで22万円で売っていた。アメリカに舞い戻り、迷わず1300ドルのバイオを購入。それでもこの頃の容量は512MBであった。

W7になってからパソコン容量もギガ時代に入った。手持ちのバイオも古く処理能力も遅いので、今度は東芝に決めた。何と言ってもノートパソコンのアメリカ市場で断トツのシェアを持つ東芝。この頃になると値段構成は激変し、購入したのは500ドル商品。ところがである。たった一年半で見事に裏切られた。電源スイッチ部分が壊れたのである。何度初期化しても戻ることはなかった。ことパソコンに関して、根底にあった「日本品、日本ブランド」神話が崩れた瞬間である。

考えてみれば、殆どが中国生産のパソコンのような商品ではブランドでの品質差は殆ど無いのではないだろうか。そう考えると選択肢は多くなる。スペックも意識の中に入って来た。以後W8.1ではAcerを320ドルで購入。メモリー4G、HDD500G、CPUはi3である。更にW10ではHPを購入。メモリー6G、HDDは1T(1000G)CPUはi5のスペックで300ドルである。日本で言えば3万円というところか。最早、300ドルレベル以上では買う気は起らない。因みに昨年ワイフが買い替えたのは、デルのノートで300ドルを切る値段だった。

ひとつ、日本のパソコンが高い要素にワープロ表計算ソフトが内蔵されており、その値段が価格に反映されているが、これとて、フリーのソフトを使えば内蔵ソフトは不要だ。もう5年以上もフリーソフトを使っているが、マイクロソフトのオフィス仕様だから不都合は全く感じない。それでも日本のパソコンは高い。








ヒレ酒

2019年12月29日 | いろいろ
12月の押し迫った。正月を含めた冬の楽しみのひとつはヒレ酒である。

この冬で24年前、日本から持ち込んだヒレがなくなる。思えば1995年、某商社が浅草橋の割烹居酒屋でしてくれた送別会の帰り際、やや大きめの包みの送別品をいただいた。中に立派なヒレが仰山入っていた。毎年チビチビやりながら24年間飲んできた。途中で腐るものかと思っていたが、乾物とはどうも腐らないらしい。

この10月日本へ帰った折、日本橋の黒門へ直行、ヒレを探して漸く1軒見つけた。一袋350円を4袋購入。これでしばらくまた暫くヒレ酒が楽しめる。その後、イオンの鮮魚売り場でヒレの袋入りを見つけたが、高いのと中に入っているヒレが貧弱で、やはり買うべきところで買わないといけない。

正月のお屠蘇はヒレ酒といこう。

日本でラジカセを買ってきた

2019年11月27日 | いろいろ
今から20数年前、アメリカに来る時に家にあったジャズレコードをカセットテープに録音して持って来ていた。約100枚くらいのレコードを録音してきたわけである。きた当時はまだカセットが主流の時代だった。

当初はカセットCDプレーヤーを買って聴いていたが、プレーヤーも古くなるとテープの送り部分が不具合となり聴けなくなり、カセットから遠のいて、気が付いてみれば10年以上も経っていた。折角持ってきたテープが泣いている。そう思ってカセットテープレコーダー(もちろんカセット再生専用でCD無しのもの)を買うことにしたのだが。

アメリカ国内で買おうと思ったが、もうひとつ信頼感が沸かない。昔からそうだが、アメリカで売られてる商品は、その中身が何故かちゃっちい。言うなれば、「安かろう、悪かろう」ではなくて、「安かろう、ダメかろう(コレよし坊の造語)」だ。悪い、とまでは言い過ぎだが、ダメなのである。

日本に行く予定だったので日本の電化製品やアマゾンジャパンのサイトで物色してみたところ、3~4ブランドの中にパナソニックがある。品番で二機種あるが購入者評価ではRX-FS27が高評価であった。決め手は「売り出し当時の型版からの生産」とある。これが気に入った。

幅30CMちょっとの小さなカセットレコーダーである。昔はこうだった。毎日古いテープを聴きながら悦に入っている今日この頃である。昔の物は何となくいい。

私の恩師(5)再会

2019年11月21日 | いろいろ
二年前に日本へ帰った時、アメリカへ戻る直前に恩師と電話で話をして以来、次に日本へ行く時は是非お会いしたいと考えていた。そして、10月28日、25年振りにお会い出来た。

朝早くワイフと6時台のJRに乗り、新大阪経由新幹線で三原に向かった。10時過ぎに三原に着き、階段を降りると、改札の向こうにKKさんが奥さんと出迎えてくれた。懐かしいお顔がそこにあった。昨年大きな手術で入院した関係でだいぶ足が弱っているようで杖で補助しておられたが、92歳、まだまだお元気であった。

アメリカから電話で再開の日時を決めた時、ご高齢ということもあり、一時間程度お会いすることにしようと思ったのだが、どうしても昼ご飯を食べていけ、と言うのでお受けすることにしたのだが、駅前にハイヤーを待たせ、これから”懐かしの町”を案内するから、と仰ったので、あーなるほど。早く着いても昼飯を食べていけ、と言った意味がこれだったのか、と納得した。

かつての三原は駅前にTJ通りの看板があったが、それも6年前に降ろされたとのこと。三原に工場があり、大阪からの出張は一泊、そのうち山陽新幹線が開通して日帰り出張となった。瀬戸内の海に恵まれ、直ぐ向こうには筆影山が聳える。 車で見晴らしの良い高台にある道の駅へ案内していただき、綺麗な瀬戸内が一望出来た。工場跡地を案内してくれた。当時の面影はどこにもなかった。

昼近くになり、呉線沿いを車が走り、レストラン浮城についた。食事をとりながら、約二時間積る話をさせていただいた。帰りがけにお土産ヤッサ饅頭をいただいた。昔からワイフの大好物である。

恩師KKさんからは、会社組織の中にあって、不遇の時代を戦う、その生き様を通して、多くの事を学ばせていただいた。感謝あるのみである。長生きしていただきたい。

2019 日本短訪

2019年11月12日 | いろいろ
10月中旬、約3週間の予定でワイフと日本へ二年振りに帰った。どうしてもやっておきたい事がひとつ。海外からの国民年金支払いに使用していた住銀の麹町口座をクローズすることであった。既に年金を受け取っているから現在は使用していないのだが、口座がオープンになっているのは気持ち悪い。一年前に聞いた時には、麹町支店まで行かねば解約手続きが出来ないと聞いていたので、日本行きも東京経由を考えていたのだがチケットを取る前にもう一度住銀に確認したら、今では支店のどこでも解約出来るという。世の中の変化は急だ。お陰で大阪に直行することが出来た。

今回は雨に祟られ、折角の目玉の熊野古道小辺路行きが中止となった。直前までワイフとジョージアの小山でトレールウォーキング訓練したのだが。代わりに晴れの日、今や山女になっている娘と三人で二上山に登ってきた。

日本へ行った時の定番コースは天王寺で買い物をして、ランチを新世界界隈の串揚げを食べること。今回が三回目だが、前回と同じ「だるま」で昼間から生中片手に串揚げを堪能した。相変わらず外国人が多く、結構を通り越して、いささか壁壁する風景である。それと夜の定番、炉端焼きの「吾作どん」でもしっかり飲んできた。やはり日本の魅力は食にあるといっても過言ではあるまい。アングロサクソンの連中には分かるまい、この気持ちは。

我が夫婦はニューバランスがお気に入りなので、毎回、大阪のニューバランスには顔を出す。アパレルはアメリカ物はサイズが合わず、デザインもイマイチなので何か無いかと顔をだすのだが、今回スェットシャツ(トレーナー)目当てに行ったところ、いいジョギングパンツがあったので娘が買ってくれた。アメリカにはこんなパンツは無い。

今話題のワークマンでは980円のリュックサックを二つ購入。これは行く前にオンラインで注文していたものを受け取りに行った。バッグの両サイドにボトル入れが付いているのがほしかったからで、これからジョージアでのトレイルウォーキングに使える。

いささか驚いたのはユニクロでの買い物。支払いがセルフでそれはよいのだが、なんと買い物トレイを置くと中の商品が値札も見えないのにスキャンされて精算出来るシステムだった。これはまだアメリカにはないだろう。初めて経験する客は一様に声を上げていた。どんな仕組みだ!!

もうひとつ、今回の目玉は、会社人生の恩師(と、かってによし坊が思っているのだが)を訪ねることであるが、これは別稿(私の恩師)で詳述したい。ただ、これに合わせて広島の原爆資料館を訪れた。実は今まで一度も訪れたことが無く、長年心に残っていたので、この機会を逃しては、と思ったのである。死ぬまでに一度は見ておく義務みたいなものがある。日本にいる時に作ろうと思えばいくらでもチャンスがあったはずだが、そうしなかった忸怩たる思いもあった。昔で言えば”非国民”みたいなもので、日本人として生まれたら、外してはならぬ場所だろう。これでひとつ、人生の痞えが取れたような気がした。

同じ釜の飯。昔の職場の方々8人が集まってくれて久しぶりの夜の飲み会。上は82歳を筆頭に昔話やら最近の話題に大いに盛り上がった。いいものである。女性の社会進出著しい今でも、この”同じ釜の飯”飲み会は難しいだろう。長い会社人生の男の特権みたいなものだ。

日本ではテレビは見ないし、パソコンもなし、もちろんスマホも無い、完全デジタル・フリーの3週間を過ごした。お陰で夜は9時ごろから寝てしまう。大正や昭和の初期はこんなものだったんだろう。

私の恩師(4)二人三脚 海外行脚

2019年11月07日 | いろいろ
韓国では半製品を現地加工仕上げするプロジェクトを展開した。そのきっかけとなる情報を提供したのが恩師KKさんである。よし坊は営業としてそのサポートをしたに過ぎない。そのかたわら、スポーツボール用品質評価の拠点としてのメーカー選びに恩師は動いていた。製品の売込みには技術的な説得が欠かせないものだったので、製品産みの親であるKKさんの存在には大いに助かった。

やがてボール生産拠点として中国が浮上。中国各地へのプレゼン行脚が始まった。当然KKさんが同行してくれた。北京、天津、大連、丹東、上海、広州と、商売に結び付くまで何度かご一緒した。商売が始まった後でもクレームやトラブルでお出ましいただき、大いに助けていただいた。

よし坊のビジネス経験は、韓国中国での恩師との海外行脚の中で大いに鍛えられたと実感している。様々な当時のエピソードが思い出されるが、印象に残る一番は1980年代に起こった、所謂「教科書問題」である。訪問すれば必ず教科書問題で揺さぶられる。だが、KKさんはそんな時こそ行くべし、であった。その気概に大いに共鳴したものである。

個人的なエピソードとして忘れられないのは、韓国日帰り出張である。1970年代から80年代の海外出張でどんなに近い国でも日帰りはあり得なかった。所用日数二~三日でも他にビジネス用件を作り出張内容を濃くしなければ申請が許可されない、そんな時代だった。そんな時韓国からトラブル発生が飛び込んだ。トラブル内容からみて素材供給側の目視が不可欠、更に担当者が直ぐ飛んできたという相手に対する印象がもっと重要、というもの。当時会社全グループで日帰り出張の前例はなかったようである。後年、他の関連会社に移った時、当時の人事部次長が常務で座っていた。大所帯の会社だったからよし坊は一面識もなく、その時が初めてだったが、向こうは昔そんな社員が居たことをどこかで知っていたらしく、”日帰り出張したのはお前だったのか”と大いに歓迎してくれた。

その後、縁あってアメリカに移ったが、恩師KKさんの不屈の闘志、行脚で得た無形の教えは大いに参考にさせていただいた。あの時代から20年以上が過ぎた。

どこまで便利さを求めるのか - 老人大国の中で

2019年06月19日 | いろいろ
最近やたらと紙面を賑わしている老人の車事故は他人事ではない。よし坊も既に、世間を騒がしている年齢に達しているからだ。事故の殆どは、恐らく老人達の思い違い(ブレーキとアクセルの踏み間違え)や老人ゆえの反応の鈍さに起因するのだろう。その意味で免許返納の流れが出てきたのは自然のながれ。とはいえ、移動の手段が無い過疎地では簡単に返納とはいかないだろう。今住んでいるアメリカは 日本の過疎地のようなもので、車で30分くらい行かないとスーパーに行けない。幸いなことにアメリカの道路は広く、チャリンコが通っているわけでもないから老人でも運転が出来る。しかし、日本のような狭い過密な所ではとてもじゃないが、怖さが先に立つ。

先日面白い記事に遭遇した。車の自動変速機、即ちAT車だが、これが今足かせになっているのではないか、というものだ。AT車は瞬く間に広がり、それまでギアの切り替えが煩雑で敬遠していた女性ドライバーもグンと増え、車の会社を潤った。よし坊も最初はカローラのマニュアル車だったが、二台目はカムリのオートマにした。この便利なオートマの機構が一端アクセルを踏み、更に踏み込んで暴走を誘発しているとの指摘である。

マニュアル車は、速度に応じてギア切り替えをその都度しなければならない。ローかセコンドで走っている時に事故ったり、何かの理由でパニックになりブレーキを踏むところをアクセルを踏んでしまってもギアを切り替えない限り、加速は抑えられる仕組みだ。ところがオートマで間違ってアクセルを踏み込めば、あっという間に加速され制御不能となる。

何やら、便利さのツケがこう言う所に出てきたような話である。それを見越してなのか、九州のあるメーカーが何十年も前に、マニュアルとオートマの折衷技術のようなもので、加速されにくい仕組みを開発、細々と販売してきたのが、ここにきて一挙に注目されているという。当時名だたるトヨタや日産に売り込んだが、けんもほろろだったらしい。この経営者の眼力はなかなかのものである。

今の世の中、便利さの追求が幸せに繋がるという考えが主流だが、果たしてそうかのか、よくよく考える必要がある。企業は新技術、新技術と売らんが為に世情を煽るが、消費者は身の丈を考え、どこまでの便利さを求め、過剰な便利さに追随しない眼力を肥やす必要があるだろう。ローテクが生きる領域は、この世の中にまだまだ相当残されているような気がする。

ローテクへ帰ろうではないか、諸君。