よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

いよいよ最後の領域に入ったのだろう

2019年03月18日 | いろいろ
昨日 高校時代の沢木君が先日行われたクラス会の写真を送ってくれた。2016年日本へ行った折、国立で開いてくれたクラス会を思い出しながら久しぶりの諸氏の顔と名前を頭の中で照合したが、3年前に逢えなかった3人の女性が名簿と照合しても分らず、沢木君の問い合わせることにした。残念だったのは3年前会えた”秀才”の井上君が昨年癌で亡くなられたことだ。あの時は元気そうだったのに。我々も含めそういう領域に入ったのだな、と実感する。

世の中長寿で沸いているが、果たしてそれを喜ぶべきなのか、クエスチョン・マークが付く出来る事なら自然体で終わりたいものだが、この先ボチボチ行くしかあるまい。

二年ぶりの痛風

2019年01月16日 | いろいろ
12月の初めに痛風が出た。実に二年振りである。いつもそうなのだが、約一か月で漸く完治となり、やれやれである。

通風とは別の話だが、昨年帯状疱疹を患ったのを機に、昔測定していた血圧測定を再開して毎日のデータを記録することにした。11月の中旬までは正常値が続いていたのが、突然高い数値を記録するようになり、通風発症後は連日高血圧数値が続いた。

いよいよ降下剤を飲むことになるのかと思いながら、痛風が完治するまで様子を見ることにしたのだが、完治後は正常値に戻った。これで飲まずに済みそうだ。

痛風防止の食事や食べ物が高血圧の予防にも効果があると、モノ本に出ているので、尿酸値アップと血圧アップはどこかで連動しているのかもしれない。と言うことは、血圧が上がり始めたら「要注意」ということなのだろう。

血圧チェックに加え、今年は市販されている尿酸値測定器を購入しようと考慮中である。70ドルで予知と対策が可能となれば安いものだ。

私の恩師 (3)険しい道のり

2018年06月18日 | いろいろ
配属された開発チームで営業部所属の受け渡し担当を命ぜられた。今風に格好良く言えば、本社サイドの物流管理といったところである。営業の受注分を工場に出荷依頼をかけ、生産計画を睨みながら在庫管理を行うもので、当時余裕のある企業では新人に物流全体を勉強させる格好の場であった。それを4年弱担当したのだが、この経験が営業に出てから大いに役立った。

独自技術の製品とはいえ、業界では二番手。営業の必死の努力にもかかわらず上向かず、更に品質問題を起こし業績は悪化、スタートして4年目で早くも赤信号がともり始めた。在庫管理をしていたから、不良在庫が溜まっていくのがよく分かった。そろそろよかろうと、会社はよし坊を国内営業に出してくれた。

国内営業の一年目、業績悪化の責任を取り、部長クラスは総入れ替えとなり、当初から工場長として生産・技術を任されていた恩師も職を解かれ、技術部長として、閑職同然のタイトルで本社勤務を命ぜられたのである。

幹部人事刷新と同時に、海外市場開拓を重視、よし坊は国内営業一年で新課長の下、輸出担当となった。念願の海外展開に漸くたどり着いた。

閑職とは言え、技術部長としての恩師の存在は大きく、大阪本社に常駐することになって、徐々によし坊とも接点が出来ていった。そして最初に訪れた恩師との共同作業が、韓国に半製品を売るというプロジェクトであった。

私の恩師 (2)独自技術の企業化

2018年05月28日 | いろいろ
大学を出て、関西系の大手合繊メーカーに就職したのが1971である。商社に入って海外雄飛を夢見ていたのだが、当時、日経新聞に頻繁に記事になっていた名物社長の多角経営戦略に興味を持ち、大学には募集枠が無かったので直接会社の人事課に電話して入社試験を受けさせてもらい、運よく採用してもらった。

約二か月の地方工場研修を終え、広島の工場に新入社員が集められた。配属先決定通知の日である。名前と配属先が読み上げられていく。よし坊の名前がなかなか出てこないではないか。そのうち、殆どの名前が呼ばれ、え?俺って最後か? と思っていたら名前が呼ばれた。「人工XX開発班 大阪」。聞きなれない部署であった。よし坊の後に技術系の二人の名前が同じ開発班として呼ばれた。

大阪本社の配属部署に初出社し、早速オリエンテーションのレクチャーを受け、部署の全貌が明らかになった。一時代を記した日本の合繊の殆どが海外からの技術導入によるものでオリジナルではなく、入社した会社も例外ではなかった。ただ名物社長の多角化のひとつが、配属された部署の開発製品で、しかもこの会社には珍しい独自技術によるものであった。研究段階を経て企業化の目途がついたので新規事業のプロジェクトチームが発足、よし坊入社のその年10月の販売スタートの準備最中であった。

この独自技術を開発したのが、恩師Kさんである。

私の恩師 (1)23年振りの声

2018年05月18日 | いろいろ
私には人生の恩師がいる。いや、勝手に私が恩師だと思っているだけだが、私にとっては紛れもない恩師なのである。私はこの恩師からいろいろなことを学ばせていただいた。とりわけ、その不屈の精神と分け隔てない異人種に対する平等感。言葉(外国語)は出来なくても真の国際人とはこういう人の事を指すのだな、と実感したものである。よく、外国語が出来ることによりグローバル・ビジネスマンなどと言うが、本質はそれではない。

昨年、所用で日本へ帰国し、20数年ぶりで昔の会社仲間5人と会食した折、1994年に当時の職場を去って以来ご無沙汰している恩師が私の消息を知りたがっているとの話を聞いた。アメリカに戻る直前に教えてもらった電話番号をダイヤルし、電話の向こうに懐かしい恩師の声を聞くことが出来た。齢90、まだまだお元気のご様子であった。

私のサラリーマン人生28年の内、23年間を恩師と同じ会社に在籍し、近くでそのお姿を密かに拝見、生き方の参考にさせていただいた。来年の秋に日本へ行く予定なので、是非とも広島のお宅に伺おうと思っている。

恩師、Kさんの事を書いてみたい。


日本短訪2017 (5)三人会

2017年11月03日 | いろいろ
かつての職場に三人会なるものがあった。メンバーはよし坊、熊さん、谷やんである。当時三人には共通するものがあった。連れ合いを亡くし息子夫婦と同居することになった姑と嫁が繰り広げるバトルの真っただ中で采配を振るわねばならなかった。

三人の共通点から自然発生的に飲み会が始まり、それはよし坊がこの職場を離れるまで続いたから10年くらいだろうか。熊さんが年長でアドバイスを含めた聞き役、よし坊と谷やんがバトルネタの提供者といった具合だ。

飲み会は随時不定期であった。パターンは概ね決まっていた。バトルの調停が明け方まで掛かるので当然徹夜状態になり、しょぼくれた目を真っ赤にして出社することになる。朝出社してお互いの目を見れば一目瞭然。例えば谷やんが赤い目で出社すれば、目と目で会話が成立し、暫くして谷やんがよし坊の席に来て「今晩どないですか」とくる。すかさず熊さんの予定を聞いて何もなければ夕方の三人会へと繰り出すわけだ。

こうして嫁と姑のサンドイッチマン三人があーでもない、こーでもない、と情報交換し、参考になるところを利用させてもらい、バトルストレスの解消にあい努めたわけである。

最初に熊さんが姑フリーになり、続いて谷やんが姑フリーになったと言うのをアメリカに来て知ることになった。

一度嫁姑のバトルを経験したら、二度と同居は御免蒙りたいと、今もつくづく思うのが本音中の本音である。

日本短訪2017 (4)カラオケ

2017年10月16日 | いろいろ
カラオケに行ったのはいつのことだったろうか。日本での会社勤めの頃だから30年も前であろうか。

日本へ行く度に時間を作ってカラオケに行って思い切り演歌を歌いたい、と毎回のようにワイフと言いながら、結局は時間がなくアメリカに戻ってきていたが、今回は漸く時間を見つけて行くことが出来た。

歌の方は散々である。音程は狂い、カラオケのペースにもうまく合わない。下手くそと言えば下手くそだが、昔はもうちょっとましだったような気がする。

行く前に娘から結構高いと言われていたので、パソコンでいろいろ調べたら、つい三か月前にオープンしたのが奈良にあるではないか。しかもシニア割引があるので昼間だと一時間240円。昔は飲み物一つはとらないといけなかったが、コーヒーやソフトドリンクの類はセルフのマシーンでフリーだから、変われば変わったものだと、つくづく思う。ひょっとしたら飲食で高くなるかもしれないと覚悟していたので、ほっと一息。

二時間歌ったのだが、いささか物足りない気分で店を出た。次回はみっちり練習して、三時間は歌いたいものだ。と言っても、長距離ドライブの時に流すCDを聞きながらのトレーニングとなるわけで、どうもあてにはなりそうにもない。

日本短訪2017 (3) 同じ釜の飯

2017年10月08日 | いろいろ
「同じ釜の飯を食う」。働く日本人にはぴったりの言葉だろう。これを英語に訳し、Live under the same roofなどと言ったところでピンと来ない。今でもいささか問題視される日本社会の働く環境だからこそ、「同じ釜の飯を食う」独特の響きと意味があるように思える。

今から3年ばかし前。そのうち日本へ行った折、昔の仕事仲間と一杯やりたいと思ったが、さて、連絡する電話も分からない。日本人は仕事で転居する以外は基本的に動かないからと思い、かつて職場で「3人会」を作っていた一人を探してみようと思い立った。「3人会」については別の機会に述べたいが、まずインターネットで当時聞いていた豊中市の電話帳を検索してみた。まさかと思ったが、2010年版の電話帳の詳細が出るではないか。個人情報ダダ漏れでいいのか、と思うが、お陰で仲間の名前も見つかって、ダダ漏れに感謝であった。

今回日本へ行くにあたり、早速電話してみたら、大正解、本人健在であった。彼を通じて、当時の「3人会」程度を期待していたのだが、よし坊の予定に合わせて都合5人が集まってくれた。聞けば年2回職場のOB会を催してる由。大慶の至りである。

上は81歳になるかつての上司を含め、大いに昔話に花が咲いた。かつての仲間の消息を聞いたが、鬼籍に入ったのは一人で、あとは皆健在であったのは何よりである。

既に大学OBや高校クラス会には顔を出しているが、仕事仲間で以前会ったのは、アメリカ駐在中に日本へ行った時だから、約20年前になるだろうか。

もうひとつ、今回嬉しかったことがある。会社の大先輩にして、人生の生き方を傍らで見させていただいた、いわば恩師のような存在のKさんの消息だ。消息を聞いたら、まだ90歳で健在だとのこと。しかも、よし坊がアメリカへ行った後の消息を気に掛け、探していたと言うではないか。聞いた電話番号で早速翌日電話をしたら、懐かしい声が向こうから聞こえてきた。次回日本へ行った折には是非広島まで足を運びたいものだ。この大先輩のこともいずれ書いてみたい。

「同じ釜の飯」。良い響きだ。

日本短訪2017 (2)てんのじ界隈新世界

2017年09月27日 | いろいろ
昨年10月日本で家族4人が合流して食べた新世界の串揚げに味をしめて、今回も大阪に出た折、ランチに串揚げを食べることにした。前回は「いっとく」で食べたので今回は「だるま」にした。

時間は昼前。本店に行くとすでに長蛇の列で、外国人が多い。というわけで空いている、ジャンジャン横町を抜け出た左にある店に入り、生中片手に堪能した。

昔から、てんのじ界隈はキタやミナミにはない顔をもった独特の”ごちゃごちゃ感”が面白かった。当時、夜になると独特の空気が流れ、商店や食べ物屋、一杯飲み屋が軒を連ね、左手に飛田新地を見ながら新世界界隈へと続くジャンジャン横町は、新世界近くを除いて昔の面影は無くなっている。いささか寂しい気もするが、時代の流れであろう。その代りに綺麗になった分だけ外国人が増えたということである。

会社に入りたての頃、同期のI君とジャンジャン横町に行き、一杯飲み屋にふらっと入ってみた。東京から移ってきたばかりで、釜ヶ崎事件で全国に知られ、あの黒岩重吾も住んで、その小説にも出てくる西成・釜ヶ崎は大阪で最も危ない地域だと聞かされていたから、いささか緊張しながらのジャンジャン横町探検になったのだが、その店はカウンターで5~6人も座れば一杯になるような小さな店であった。出てきた女将が、一目見ただけで、何やらゾクッとするような、妖艶と言う言葉がぴったりで、そんな雰囲気で圧倒されてしまった覚えがある。もうその店はすっかりなくなり、横町とは呼べぬ綺麗な通りになっているが、花街の飛田新地を抱えるこの街は、今でも夜ともなれば独特の空気が流れるのであろう。

次回日本へ行っても、又てんのじ界隈新世界になりそうである。

日本短訪2017 (1)墓終い

2017年09月24日 | いろいろ
母親が亡くなって一年、これを機会に親父が30年前に亡くなった時建てた墓を終うことにした。

我が家も女系、50歳を前に亡くなった弟の家も女系とくれば、先行き墓守りをする者もいなくなるわけで、墓を持つ意味も薄れる。そもそもお墓を持つことにどれだけの意義があるのか、とさえ思う。

お骨を引き取り、骨を粉末化して保管することに決めていた。この粉末化の業者がそれほど多くない。インターネットで調べると関西に一件あり、日本へ行く前に電話で段取りをつけておいた。

骨も火葬直後であれば直ぐ粉末化出来るが、日が経つと湿気を帯びるため、乾燥工程が必要となるらしい。一週間の間をおいて骨粉を引き取り、仏壇に安置した。

大阪の粉末化業者には娘にも同行してもらった。我々夫婦の最後に残った者がその日を迎えた時、そうしてもらうためである。

我々も最後は日本で迎えたいと思っているが、そうならなかった時は、アメリカで骨粉にして日本に持ち帰ることに夫婦で決めている。

気になる費用だが、乾燥代込みで3万3千円だった。あめりかだと約900ドルと聞いているから、、日本のほうが大分安い。