近年の映画界の画期的なことはCGI、コンピューター・グラフィック・イメージであろう。昔なら、ゴジラ映画に代表される円谷プロダクションの特撮技術は群を抜いていたのだが、CGIの登場で様変わりとなった。
CGIの登場によって、今まで通常の撮影では再現出来ない災害現場のシーンや生身の人間が行けないような現場でもCGIを使っていとも簡単に再現可能となった。迫力満点の画面に我々観客は釘付けになってしまう。
確かに大迫力ではあるが、一方でこうした迫力あるシーンが、実は俳優とグラフィック・イメージを巧妙に合成したシーンに過ぎないことを考えると、何かが欠けているような気がして仕方がない。
CGIは、手が掛り、従ってコストも掛る戦争物などのスペクタクル巨編の製作費を大幅に下げることになり、製作者としては利益を生む”打ち出の小槌”を手に入れたようなものである。その結果、どんなシーンも合成化が可能になったので、普通のシーンも何もない所で俳優に演技をさせ、あとでCGIと合成すれば、現場に行って撮ったような芸当が可能となった。そんな映画を我々は観ているのだ。
ハリウッドの巨匠のひとり、マーチン・スコーセシ。遠藤周作の原作になる、彼の最新作の「沈黙」は、流行りのCGIを極力排除した、20年越しの念願の、こだわりの映画なのである。
敬虔なカトリックのスコーセシが遠藤の「沈黙」に出会ったのは、1989年のことらしい。そして、いつかこの作品を映画化しなければならない、と決めた。問題は撮り方であった。直ぐ頭にうかんだのは、”昔の手法で丁寧に撮る。現場の空気を逃さない”であったと言う。この作品に限って彼は昔ながらの映画作りに回帰したのである。従って当然莫大な費用が掛かる。その為に20年を費やした。
ワンショット、ワンショットを丁寧に撮る。だから単なる夕陽のシーンも気に入ったシーンになるまで何日も待ったと言う。昔ながらの映画屋の撮り方を彷彿をさせるではないか。こうして丁寧に撮ったのが「Silence」沈黙である。
昨今、ど派手ドンパチが流行る中で地味ではあるが宗教的民族にとっては深く思い、貴重な映画だと思う。ハリウッドの辛口評論家が”Silenceは映画史に残る映画と考えてよいだろう”と発言しているは的を得ているような気がする。
CGIの登場によって、今まで通常の撮影では再現出来ない災害現場のシーンや生身の人間が行けないような現場でもCGIを使っていとも簡単に再現可能となった。迫力満点の画面に我々観客は釘付けになってしまう。
確かに大迫力ではあるが、一方でこうした迫力あるシーンが、実は俳優とグラフィック・イメージを巧妙に合成したシーンに過ぎないことを考えると、何かが欠けているような気がして仕方がない。
CGIは、手が掛り、従ってコストも掛る戦争物などのスペクタクル巨編の製作費を大幅に下げることになり、製作者としては利益を生む”打ち出の小槌”を手に入れたようなものである。その結果、どんなシーンも合成化が可能になったので、普通のシーンも何もない所で俳優に演技をさせ、あとでCGIと合成すれば、現場に行って撮ったような芸当が可能となった。そんな映画を我々は観ているのだ。
ハリウッドの巨匠のひとり、マーチン・スコーセシ。遠藤周作の原作になる、彼の最新作の「沈黙」は、流行りのCGIを極力排除した、20年越しの念願の、こだわりの映画なのである。
敬虔なカトリックのスコーセシが遠藤の「沈黙」に出会ったのは、1989年のことらしい。そして、いつかこの作品を映画化しなければならない、と決めた。問題は撮り方であった。直ぐ頭にうかんだのは、”昔の手法で丁寧に撮る。現場の空気を逃さない”であったと言う。この作品に限って彼は昔ながらの映画作りに回帰したのである。従って当然莫大な費用が掛かる。その為に20年を費やした。
ワンショット、ワンショットを丁寧に撮る。だから単なる夕陽のシーンも気に入ったシーンになるまで何日も待ったと言う。昔ながらの映画屋の撮り方を彷彿をさせるではないか。こうして丁寧に撮ったのが「Silence」沈黙である。
昨今、ど派手ドンパチが流行る中で地味ではあるが宗教的民族にとっては深く思い、貴重な映画だと思う。ハリウッドの辛口評論家が”Silenceは映画史に残る映画と考えてよいだろう”と発言しているは的を得ているような気がする。