私の出身地は東京都日野市。現在は兄夫婦ほか家族が住んでいるが、私にとっては故郷である。
毎年9月中旬、日野の八坂神社で大例祭が行われる。昔から、この祭に合わせ親兄弟そしてその家族が集まる。今の私は、祭そのものよりも皆が集まる宴席ばかりが楽しみであるが、今回、久しぶりに神社に脚を運んだ。会場には若い人、子供達であふれていた。ところで、普段、私が住んでいる、茨城県の某市。ここの祭も、今、若い人や子供がたくさん集まる。普段、若い人が少ないところかと思っていたが、祭となるとこうも集まるものか。
幼少の頃から今までを振り返ると、地元の祭りは人間味ある楽しさがあるように思う。そこに行けば、地域に住んでいながら普段会えない人に会える。懐かしい顔に会える。小さな同窓会になる。もともとは、農作物の収穫を終え、神社に奉納し地域の人が集まり祭となったのだろうが、地域の人が神社の力を借り集まり楽しむというところは今も変わらない。
私の幼少の頃の祭の記憶。‥‥山車を引いて遠い道を歩いた。折り返し地点に、火の見やぐらがあった。それは夕日に赤く輝いていた。その印象が暑さと疲労感とともに、「祭」として深く心に刻まれた。
話は変わり、映画のこと。古いが名画として評価の高いオーソン・ウェルズの「市民ケーン」。新聞王として富と名声を得たケーンが、死ぬ直前に残した言葉「バラのツボミ」。それが彼にとって何なのかを新聞記者が探る物語。調査の結果、見つけることはできなかったが、遺品を整理処分される映像に「バラのツボミ」の絵のある子供の頃の雪ゾリが映し出される。彼にとって最後まで心にあったのは子供の頃の雪ゾリで遊んだ思い出なのだろう。この映画を見た時、私の火の見やぐらと同じかもしれないなと思った。
これからの日本の課題は、地域再生である。人が減り、活力が低下している地方が増えている。過去にも、経済低迷で、祭が寂しくなったが、経済回復し、賑やかになった歴史がある。地域再生の程度は、祭の賑やかさで測れるかもしれない。 9月16日 岩下賢治