ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

都会の共用地

2018年12月09日 | 日記

  収穫した鈴なりの柿の実

 私の住まいの近くに国道と国道が立体で交差する場所がある。そこにやや広めの法面があって当然ながら色々な植物が植えられている。国有地だから管理者は国土交通省である。しかし管理者が定期的に管理しているとは思えなく、雑木が生い茂っている。
 そんな中に柿の木がある。今年は豊作で万燈のように実をつけている。あまり見事だから、下枝のほうの実をもいでみたら、これがなんと甘柿である。近くに倉庫があって、そこで働いている人に尋ねてみた。すると、かつて住んでいた植木屋さんが植えたものだというが、あまり関心がない様子。そこで管理者である国土交通省に問い合わせた。すると、国が植えたものではないから、収穫云々はご近所の人と対処するのがよいのではないか、という返事だった。
 管理が行き届かなくて放置されている、こうした公有地というか、共有地というか、昔でいうと入会地のような性格の細々した土地が各地にある。例えば大通りの並木の根元、公園や学校の境目にあるマウント、切通しのような場所の法面、など。こうした場所をどのように始末して美観やら有用性を確保していったらよののだろうか。場所によっては植木鉢を放置して置いたり、勝手に草花や果樹を植えたり、物置がわりにしている場所もある。また逆に町内会や商店組合が定期的に清掃しているところもある。
 周囲から怪訝な目や白い目で見られるだろうが、そうした場所には、すすんで手を加えることが必要だと思う。管理者である国が費用をかけて動き出すのを待たずに、である。昔の田舎町だったら、小学校の生徒たちが神社や境内などの清掃活動をしていたものだ。今、都会なら、老人たちがその役目を果たすのがよいのだろうと思う。そんな思いで目配りをしては、私は時にゴミを拾ったり剪定したりしている。
 今度の柿の始末も、その一貫だと言えば、身贔屓すぎるだろうか。私が高枝鋏で柿をもいでいても誰も注目しない。共有地を地元の人たちが管理する、それが共同体を形成する基礎のように思うのだが‥‥。【彬】

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