10年前の、3.11大震災、僕は、茨城県の職場で被災した。常陸大宮市は生活の動きを止めた。
辛さを抑えながら、街の中のなかを彷徨し、ふと出会った梅園の満開の梅の花に勇気を与えられた。梅は何事もなかったかのように咲いていた。
この、震災10年目を前にして、梅の花見をしたくなり、小金井公園の梅園に足を運んだ。満開を過ぎ、5~6割は散っていたが、花の香はのこしている。盛りを過ぎているためか来場者はまばら。弁当を広げ、のんびりと、残された花を眺める。
梅の花は散り、草木の緑も未だわずか。桜の季節まで間がある。殺風景な風景である。だが眺めていると、何かが見えてくる。今は、盛りと盛りの間の過渡期なのだが、何か、気が付かないでいるものがそこにあるようなのだ。・・・・我々は、いや、自分は盛りばかりを求めているのではないか。むしろ、このように取り立てて何もないような風景のようなものが、現実の世の中のほとんどなのではないか。・・・そうしていると、この花の散った、いうなればインスタ映えしない、殺風景な梅園の風景が、心にしみる素晴らしい風景にみえてくるのだな。
先の、震災でも今のコロナ禍にあっても、人々から聞かれる「なんでもない普通の生活がいかに大切なものであるか、よくわかりました。」そんな言葉が頭に浮かんできた。
この日の、少し遅れた花見は今までにない充実したものになった。
2021年3月9日 岩下賢治