ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

政治家になること

2024年06月21日 | 日記

          カンナ

 東京都知事選が近づいてきた。小池現知事と蓮舫の決戦だと噂されている。それはそれとしてこの選挙になんと、50名が立候補するという。

 立候補するには供託金を出さなければならない。300万円だという。この供託金は選挙の補償金のようなもので、お遊びでの立候補するのを排除するためのものだから、一定の票を獲得した人には、還ってくるが、未満の人は没収される。有効総投票数の1%だったか。そんな制約があるにもかかわらず50名が立候補する。供託金だけではない。ポスターを作ったり、貼ったり、事務所を開いたり、様々な費用がかかってくる。資金に余裕がなければとても立候補なんてできないと思う。 

 民主主義国家だから政治の自由は保障されている。だから、だれでもが自由に立候補できるのだが、自由と勝手とは意味が違う。泡沫候補者たちは、政治というのを何と心得ているものやら。

 という私自身、政治とは何か、ということを明確に理解しているわけではない。弱いものを助ける、貧しい人を援助する、などと聞こえはいいが、それは政治ではない。それは、たんなる福祉という行政手続きにすぎない。また様々な社会事業を掲げて、これが政治だと嘯いている人もいるし、戦争は嫌いだ、軍隊はいらないといって候補になる人もいる。いわば社会運動のことを政治と理解しているわけだ。

 もちろん、社会運動は政治の一環である。だが、首長の仕事は問題の調整力である。

 政治は人が3人以上集まった時に出現する利害の調整である。2人なら2人で相談すれば済むことだ。ところが3人か、それ以上になると、相互理解が単純ではなくなる。その利害の調整を、言葉でするのか、力づくでするのか、あるいは神のような神聖なものに依存するのか、などの方策によって行うのである。その利害の調整をするのが、政治である。3人の集団といえ、東京のような巨大集団に膨れ上がった場合にどうするのか。

 政治家は、この利害の調整力に長けた人である。その自信がある人が政治家になるのだと思う。この調整を学問的にするのか、政治思想あるいは信条として貫くのか、あるいは人情として訴えるのか。政治と現実がクロスしてくる。東京の場合は1000万人が対象である。

 小池、蓮舫、その他の候補者たち、己はなんで都知事になろうとするのか。何を得意として立候補するのか、まず、それが問いたいことである。政治に関わることは国民一人一人の権利である。しかし、信条無くして政治はできないのは、前述の通りである。小池、蓮舫両氏に改めて聞きたい。

 なんのために都知事になりたいのか。東京を良くしたい? そんな漠とした返答では致し方ない。並べた立てたスローガンも全くの空虚である。単にエリート(選良)になるための手段なのか? 小池、蓮舫に限らず答えてもらいたいものだ。【彬】

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