ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

高齢化社会、あるいは理想の死について

2019年06月18日 | 日記

南天の花、今年はどこでも見事に咲いている。 

 定年退職が65歳、その後の70〜80才、あるいは90歳代をどうやって生きていけるのか。年金生活者の最大の関心事である。特に男女共、単身者の場合は深刻な問となっている。

 生産場面から離れた高齢者は、ただ消費するだけ、そして最期は最大の最高の消費である死を迎えることになる。
 人間は家族としてうまれ、家族として死ぬ。それが最高の幸せとされている。戦争とか、何かの不幸に見舞われ、家族と離れて死ぬことは、最大の不幸、不運とされているのである。

 ところがこうした風潮に対し、マルクスは重要なアンチテーゼを提出、人間は類的な存在で、死についても類として死ぬのだと言って、家族に依存した生き方の先の、もう一つ先の理想を提示した。といっても、類として死ぬというのが、どういうものなのか、具体的なイメージは提示してはいない。
 今、知り合いの人からメールが届き、高齢の実姉が亡くなったという。本人は大変な沈み込みで、慰めの言葉もない。
 そんなことから、自分や家内が死ぬことを想う。
 私は感性が鈍いせいなのか、死に対してたいして恐れもないし、悲しみもない。哀惜の感情がとぼしいのかもしれない。子どもの頃からの、親しくしていた同僚が死んだ時も、ああ、そうか、死んだのか、と思っただけ。
 ところが家内は猫が死んだといっては、長い間、想い出しては嗚咽していた。
 死はそれぞれに個別的にやってくる。だから個々のストーリーが立てられやすい。哀惜の念はそこから生ずるのだろう。これに家族をかぶせれば、今日の死の情景が出来上がる。
 私はこの死のイメージの円環から脱出して、類的な死というのをなんとか構想したいのである。類的というのは別の言い方をすれば、共同的ということ。人間は生産から消費に至るまで、共同性の中でしか生きることができない。そこで生き、死ぬわけだ。だから誤解を恐れずに言えば、死の理想は、日本に限って言うと天皇の生死に表現されているように思う。天皇の葬送、その具体例としては私たちは昭和天皇の葬儀を体験している。
 私の死も昭和天皇と同じように、地域共同体の儀礼として送ってもらいたい。ところが今は、それとは全く逆に家族葬とか、密葬とかが多くなっている。私の理想とはかけ離れている。
 それは、都市の不幸としか言いようがないものかもしれない。【彬】

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