ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

少し遅れた梅の花見

2021年03月09日 | 日記

 10年前の、3.11大震災、僕は、茨城県の職場で被災した。常陸大宮市は生活の動きを止めた。

 辛さを抑えながら、街の中のなかを彷徨し、ふと出会った梅園の満開の梅の花に勇気を与えられた。梅は何事もなかったかのように咲いていた。

 この、震災10年目を前にして、梅の花見をしたくなり、小金井公園の梅園に足を運んだ。満開を過ぎ、5~6割は散っていたが、花の香はのこしている。盛りを過ぎているためか来場者はまばら。弁当を広げ、のんびりと、残された花を眺める。

 梅の花は散り、草木の緑も未だわずか。桜の季節まで間がある。殺風景な風景である。だが眺めていると、何かが見えてくる。今は、盛りと盛りの間の過渡期なのだが、何か、気が付かないでいるものがそこにあるようなのだ。・・・・我々は、いや、自分は盛りばかりを求めているのではないか。むしろ、このように取り立てて何もないような風景のようなものが、現実の世の中のほとんどなのではないか。・・・そうしていると、この花の散った、いうなればインスタ映えしない、殺風景な梅園の風景が、心にしみる素晴らしい風景にみえてくるのだな。

 先の、震災でも今のコロナ禍にあっても、人々から聞かれる「なんでもない普通の生活がいかに大切なものであるか、よくわかりました。」そんな言葉が頭に浮かんできた。

 この日の、少し遅れた花見は今までにない充実したものになった。

  2021年3月9日  岩下賢治

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オリンピック、大会ボランティア辞退

2021年03月05日 | 日記

 沈丁花

 コロナのせいか、このところ目立ちたがり屋が絶えない。
 森オリンピック組織委員会会長の発言を巡って、大会ボランティアを辞退するというのも、その一つである。辞めるのは森喜朗氏に対する抗議だという。またその抗議を正当に扱ってくれないと言って、新聞沙汰にしている。辞めたいのならサッサと辞めたらいい。誰も咎め立てしないはずだ。

 オリンピックの運営にボランティアの活動が注目を浴びるようになったのは、ロンドン・オリンピックからである。ご存知のようにオリンピックの種目が多種多様になり、運営に多くの人員が必要になったために、ボランティアの協力が不可欠になったためである。

 東京オリンピックにはたくさんのボランティアが応募した。最終的には抽選になったほどである。ボランティアは余っている。

 問題なのは、なぜボランティアに応募したのかということ。単にオリンピックという聖域に名を連ねたいのだとしたら思い違いも甚だしい。オリンピックを成功裏に開催したいと願ったはずなのだから、森喜朗さんがどうであろうが、最後までその考えを全うすべきだ。それがボランティア=志願という意味だろう。
 同じことだが、聖火リレーを辞退する人が相次いでいる。ある演歌歌手の場合は、スケジュールが合わないからという。とんでもない思い上がりである。一度了解したことなのだから、最後までやり遂げるというのが人としての責務であろう。調整できないスケジュールなどないはずだ。
 いずれも、コロナからの波及。村上春樹風に言えば、「やれやれ」である。【彬】

 

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