五十年前の尾瀬紀行(その3)
部落の中央に一寸した、二階建ての建物があった。これは折立小の分校で、三里離れた上流の鷹之巣部落に在る分校と一日交替で受け持つ教員が居た。私は昭和十八年に此の両分校の視察と青年訓練所指導のために、佐藤地方事務所長と一緒に再度訪れたことがあったが、今だに印象が深い。
この部落も分校も、今は奥只見ダムの完成で数十米の湖底に沈んで跡形もない。須原口から二粁上流の浪拝まで、疲れた足を延ばして夕刻漸く銀山寺に到着した。今晩は、ここに宿泊させて貰うのだ。流石に銀山ともなれば真夏といえども涼しい。下界の蒸し暑さなど少しも感じない。
風呂は寺の前の只見川の辺にあるが、浪拝の岩場を前に只見の清流の川辺に石で川瀬をよけて作られ、温泉と水が丁度よく混合する頃合いの露天風呂であった。湯量の豊富なのに驚いた。これがせめて石抱橋の辺にあったら当時と雖も、もっと大勢の人達が利用し開発されていたことと静かに思うのである。
銀山寺の主人公は、大湯の湯本館の主人、桜井儀八郎氏が案内役ということもあって、我々一行の接待には大変の心配りで、前日から只見川の岩魚釣りに出て、あの大きなのを二匹づつ晩さんのご馳走に付けてくれた。当時の岩魚は銀山平の名物と言われたものだ。
酒は地酒(ドブロク)の心算でいたのが一行の大部分が洋服着たものばかりだから、此の中には、税務署と関係の有る者が居ないとも限らない、もしや密告されるとひどい罰金を取られる心配があると言うので、わざわざ大湯から入れた焼酎をだしてくれた。
(続く)
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