チビチリガマを訪れたのは9月30日のことだ。
この9月に、チビチリガマが荒らされる事案があった。
地元の若者がここで肝試しをしたというのだ。
もちろん、やったことの償いは必要だろう。
4人の未成年が起こしたことに対して、教育が行き届いていない結果だという声も聞かれた。
しかし、これは「戦争を知らない子供たち」に対して行われてきた教育もそうであったかどうかを検証する必要がありそうだ。
さて、ゆきたんくは6月に訪沖縄をすることを3月の段階で考えていた。
行くのであれば、たくさんのガマをできるだけ訪ねたいと思っていた。
ガマというのは、鍾乳洞のことだ。
戦時中ガマは避難壕の役割を果たしていた。
沖縄県中頭群読谷村波平(なかがみぐん・よみたんそん・なみひら)には2つの対象的なガマがある。
今回は「チビチリガマ」について。
名称の意味は、チビは「尻」、チリは「切る」だ。
谷底を流れる川がどこへ行くか分からないことから名付けられたそうだ。
ここは集団自決が行われた場所である。
沖縄戦では、一般住民が自殺する行為が発生した。これを集団自決と呼んだ。
ここ、チビチリガマ以外でも集団自決をした方々がおり、約900人以上の方が亡くなっている。
戦後、一文の文献により日本軍の命令など強制により自殺したということになっているが、確かなものではない。
未来を担う子供達の学校での教科書について、どのような記述が一番確かなのか。
歴史的考証がしっかりとできると良いと思う。
どのような内容であれ、事実が伝わらなければ意味がないのだ。
参拝である。手を合わせてくる。
チビチリガマに降りる階段手前にあった墓。「知念墓」とある。
「ハブに注意」の看板とともに、暗さが怖い。
降りていくと、ことのほか明るかった。
「平和の像」
壕の入り口にある看板。この中に遺骨がある。
集団自決が「強制された死」と彫られている。
名前の元になった川が流れている。
全景。
亡くなった方々には手を合わせてきた。
私たちが亡くなった方々の分まで生き抜くことを伝えた。
チビチリガマでは、壕の外に出ればアメリカ兵に確実に殺されると思っていたそうだ。
アメリカ兵に殺されるくらいならばと自決を選んだ人たちがいたのである。
その発端となったのが「元日本兵」と名乗る男だったそうだ。
その男が2回目にガマの中で火を着けた時に、煙で苦しむよりアメリカ兵に打たれた方が楽だと壕の外に出た人たちが保護されたという。
一方、ここから直線で南東に800m離れている同じ読谷村のシムクガマでは、1000名あまりの村民が生きて脱出した。
最初はチビチリガマ同様、自決するべきという意思を皆が持っていたようだ。
もう戦うしかないとなった時に、もとハワイ移民の住民たちがアメリカ兵と対話をした。
「手向かいしない限り殺さないのでガマを出るように伝えられた」ため、村民たちを説得した。
その結果、シムクガマからは1000名あまりの村民が自決することなく脱出した。