ここでもY氏と二人。
伊原第一外科壕から車で8分。(地図上では11分とあるが)
沖縄県陸軍病院本部壕跡に着いた。
ひめゆり学徒隊が、最初南風原(はえばる)に動員されたのだが、米軍が上陸して前線の負傷兵の増加に伴って学徒隊は分散配置された。
それが、前に書いた伊原と山城に撤退した時のことだ。
この沖縄陸軍病院本部壕も、地図上では「陸軍病院山城(やまぐすく)本部壕」だ。
沖縄陸軍病院本部壕の標柱。この奥に壕入り口がある。
車をとめ、周囲を見る。
ここでもホッとした。
戦争での出来事を風化させないように取り組んでおられることだ。
慰霊の塔の前にはベンチがあった。
碑文。
道の途中にあった案内の標柱。
その慰霊塔の前で当時のことを修学旅行生たちに話している写真も見つけた。
しかし、このような形で続けていくのには限界があるだろう。
映像記録という形で残していかれてはどうかと思うが、もうすでにやられているのかもしれない。
ひめゆりの塔付近が観光化した中で、他の壕も戦争遺跡(戦争遺産)ではあるけれども目をつぶらずに敢えて見ること、聴くことが大切だと思う。
さて、このガマはサキアブと呼ばれていて「キジムナー」発祥の地と言われている。
キジムナー 鳥取県境港、みずきしげるロードにて
そんな本部壕では43名の方が命を落とされたという。
冥福を祈りつつ、中に入った。
足元はかなり悪い。先陣を切るY氏。
中はかなり暗くなっている。
暗くて狭い。何処の壕でもこの環境で傷病兵の手当をしていたのだろう。
入り口に戻る途中で見た。字からして当時のものだろうが日本軍の防衛戦が、
陸軍病院そのものが南部の伊原・山城周辺に撤退したのは1945年5月25日
以降と言われている。この1944年7月3日と言うのはどう理解すると良いのか。
またこの当時西暦で書く習慣があったのか・・・
入る前には気付かなかった。
訪問してみて、深い勉強が必要だと思った。
この壕は日本軍が防衛線を前田高地附近にまで下げ、さらに後退したことの結果だ。
ただ、この戦いはアメリカ軍に本土上陸を許さないための必死の戦いであったことも事実だ。
オールインワンで歴史を勉強することが大切なことは一層強く感じた。