結論から言うと、ここも予約なしには入れないガマ。
平和学習の修学旅行生が明るい所で説明を受けている。
あれ、ガマの入口でやらない方が良いと思ったゆきたんくである。
この研修の項をいくつも書いてきたが、調べ物をすると「心霊」という字が躍っている。
それがあるかないかは別として、変えることはできない過去の歴史を事実として目を向けることだ。
そう、ここも宿題になった。
場所は「平和創造の森公園」の中だ。
緑にあふれた整備された公園だ。 → Map
路駐して歩を進める。金網が見えてきた。
立ち入り禁止の看板。係員の方が番をしていた。
10代の若者たちだ。修学旅行生だと思う。
ガイドさんの話を聞き、予備知識及び、安全確認をしてから中に入るのだ。
写真を見るとヘルメットを着用していることが確認できる。
靴は普段履いているものらしい。
糸数アブチラガマの近くでは長靴を貸し出していた。
解説を読んで・・・
2つ。
1つ目
地図ではマヤーガマとなっていたが、ここではマヤーアブとなっていること。
調べた。
① ガマ・・・横穴洞穴の壕(自然洞窟・鍾乳洞など)、岩の窪み等
② アブ・・・縦穴洞穴の壕(自然洞窟・鍾乳洞など)、または窪み等
こうなると、ひめゆりの塔の伊原第三外科壕はアブということになる。
2つ目
日本軍が避難していた住民を追い出したこと。
帰宅後、友人に教わった「阪神タイガース 松木一等兵の沖縄捕虜記」を読んだ。
その中に、墓(沖縄の墓は中が広い)に避難した住民を追い出した話が書かれていた。
その家族は、屋外の住居に戻り爆撃を受けて両親が戦死したことが書かれていた。
もちろん、それと逆のケースの話もあったが、気の短い(気の小さい)下士官などの指示によるものだったと思う。
そうであれば、被害に遭われた住民は日本軍に恨みを抱くことだろう。
捕虜になるのが恥で、自決ができるように手榴弾を持たされた避難民もいる。
沖縄が陥落すれば、日本本土への上陸を許してしまうから、最後まで戦おうとする姿勢が様々な形で吹きだしたのだろう。
しかし国民の命を守れなければ本末転倒ではある。
ひめゆり学徒隊の中で生き残った方の話があった。
目の前で子供を抱いた母親に、自分が持っている水を分けて欲しいと求められた時にあげることができなかった。
そして70年間も悔やんでいるという話がある。
きっとまだ名前も場所もしらない壕(ガマ・アブ)の中にも、それぞれの物語があるのだと思う。