あれ、ない。
グーグルマップに表示されたガマ。
ディダヌチジガマ。
写真も投稿されたのはズボンのようなもの。
ガマの様子のものはない。
地図ではこの辺りの写真を見ることができた。 → Map
このペイントの場所だ。
ガマらしきものは見つからなかった。
しかし、ネットではティダヌチジガマの訪問のことが載っている。
これはどうしたものか。
地元の観光課へ問い合わせるしかないだろう。
予約が必要なガマと併せての宿題だ。
あれ、ない。
グーグルマップに表示されたガマ。
ディダヌチジガマ。
写真も投稿されたのはズボンのようなもの。
ガマの様子のものはない。
地図ではこの辺りの写真を見ることができた。 → Map
このペイントの場所だ。
ガマらしきものは見つからなかった。
しかし、ネットではティダヌチジガマの訪問のことが載っている。
これはどうしたものか。
地元の観光課へ問い合わせるしかないだろう。
予約が必要なガマと併せての宿題だ。
糸数アブチラガマから車で走ること10分。
途中で看板を見つけた。
寄る予定がなかったガマである。
正確に言うと、看板を見て初めて名前を知ったガマであった。
行くほかはない。
看板にあった名前は「ヌヌマチガマ」であった。
その場に着いて、「ガラビガマ」もあることを知った。
どこの道を走っているのかは分からず、何枚かの看板に吸い寄せられて来た。 → Map
ゆきたんくは、常々戦争遺跡は保存するべきだと考えている。
まぁ、偉そうなことを言っても何の行動も起こしていないのだが。
ここでは、「戦争遺跡公園」なる言葉におめにかかることができた。
これは素晴らしい試みだ。
そしてここも予約が必要なガマである。
ネット資料では24時間営業になっているが、「NPO法人自然体験学校」が指定管理を受けており、同法人への問い合わせが必要である。
白梅学徒も忘れてはいけない。
階段をだんだんと暗い中へ。チビチリを思い出す。
そして入り口。
世界平和恒久記念の碑に「ヌヌマチガマ・ガラビガマ」とある。
全長が約500mの自然洞穴で、西側の出入口がヌヌマチガマ、東側の出入口がガラビガマと呼ばれているそうだ。
第24師団第1野戦病院の新城分院、陣地としての利用、そして県立第二高等女学校の生徒が5名の配備。
ネットを見れば、詳しい解説がある。
しかし、いずれ自分の目で確かめたい。
不勉強の極み。
沖縄に来る前に、点在するガマを訪問することは決めていた。
まずチビチリガマ、そしてシムクガマ。
ネットの地図で「24時間営業」になっているところは開放されていると考えていた。
その中の1つが、「糸数アブチラガマ」と思っていた。
実際には朝9:00からの営業だ。
ガマの入り口。
この入り口まで歩きで3分の距離に事務所があった。
そこで受付の女性に「予約はされましたか?」と聞かれ、他の壕とは違うことを知った。
案内がないと危険なので、前日までの予約が必要ということだった。
1日目の2つのガマで味をしめて、こんなものだろうと思っていたのだ。
受付の女性は親切で、様々な資料を手渡してくださった。
入り口まで歩くことにした。
上写真の奥に受付の若い男性がいた。
「こちらまで、どうぞ。覗いてください。」
と壕の入り口まで見せてくださった。
なるほど、これは・・・・
「また来ますね。」
約束をしてその場を離れた。
今日飛行機に乗るまでにいくつかの壕を訪れる。
同じような場所があるだろう。
これだけのものを維持するためには・・・
この後も記事にするが、ガマの中には開放されているもの。
開放されているが、しっかりと維持はされている。
この糸数のガマのように、予約して案内をしてくれるもの。
その中でも平和教育の施設となっているもの。
そう思ったんだ。
綺麗なところだった。→ Map
海沿いだから陣地壕があるのは当たり前。
だが、あえて景色に心を奪われた。
産まれて初めて、こんなに鮮やかな海の綺麗さを知った。
一層海に近い広場。
サンゴ礁だろうか。中の水は澄んでいる。
飛行機に乗らないで、水平線を感じることができる。
それは、何とも言えない色合いだね。
次に来るときには戦跡も意識して装備を整えなくては。
訪れたのは首里城だが、ここでは敢えて首里と書く。
先日の投稿に載せた「慶良間チージ」から見える首里。
その首里の高台に立つ首里城は世界遺産ではない。
首里城。1992年再建。
首里城城壁。
首里城のあった首里城跡が世界遺産に登録されているのだ。
そこがかつての首里攻防戦の場所となる。
トイレの蛇口。
首里城 鎖之間縁側に立つゆきたんく。
この首里を巡る戦いのことを知ったのは、帰宅後のことである。
いかに不勉強だったか。
沖縄線では、日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置いていた。
1945年5月25日から3日間に渡り軍艦などから砲撃を受けて27日に焼失したそうだ。
この戦闘では、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊されたという。
第32軍の無線所跡。立てかけてある札で知る。
長さ30㎝ほどの札。
爆撃を受けて崩れたコンクリートの壁。
そして32軍の司令部跡だ。
第32軍司令部跡。
中はしっかりと作ってある。
解説。
5月27日の日本軍南部撤退の際には、歩行不能の重傷兵約5000名が首里城の地下陣地で自決したという。
もちろん、この写真の壕の中でも・・・
合掌。
今回の研修については、相棒が絶対にはずせない場所があると言っていた。
それがシュガーローフである。
沖縄戦については、様々な話が残さている。
しかし、この間(かん)の取材で得た情報を確認しながら、それぞれを起点にして正しい情報を手に入れたいという欲求にかられている。
相棒のおかげで、シュガーローフという存在を知った。
本をよく読んでいるご仁ならば、「基本だろ」とおっしゃる方がいらっしゃるだろう。
残念なことに、良い歳をしてその基本をゆきたんくは知らないのである。
この沖縄研修旅行から始めるのだ。
ここは沖縄戦最大の激戦地だという。
車から様々な建物を見ながら、近づいていく。
安里という地名の所に来た。
懐かしさがこみあげてきた。
中学一年生の時に、沖縄から転校してきた安里君という子がいたのだ。
読み方は「あさと」。これで正解だ。
その安里五十二高地で激戦が行われた。
シュガーローフの闘いは昭和20年5月12日から18日まで1週間続いた。
その間に米軍は死傷者2662人、精神疲労者1289人という甚大な被害を出した。
日本人被害者はそれ以上と言われているそうだ。
実に8000人弱の人間が両国で被害に遭っているのだ。
水道タンクへ上る階段である。
飛行機のモニュメントのような展望台。
その脇に、戦いのモニュメント。
モニュメントの奥をみたら、低い所に卒塔婆。
ゆきたんくが見た中で今まで松代大本営に続く、大きな戦争遺跡である。
そこに碑文のようなおおきなものはなく、小さな解説とたまたまあったのだろう。
遺族の方が建てたのか、それとも・・・
「シュガーローフ」としっかり書かれた卒塔婆が祀ってあった。
展望台に上ると給水塔の全容が撮れた。
直径50m近くのか書きな建造物である。
しかし、慶良間チージ(慶良間頂地)いう呼び名の元になった、慶良間諸島が見える丘からは現在慶良間諸島は見えない。
この70年間に大きなホテルや商業施設が建ったからだ。
相棒がここに来たかった意味が分かった。
十分に勉強できていないゆきたんくは、次回の訪問の前に準備をするつもりだ。
沖縄2日目、最初の探索は牧港テラブのガマだ。
その地名の由来が面白い。
題名には牧港を「まきみなと」と書いたが、別の読み方では「まちなと」と言う。
これは、「源為朝と妻思乙・息子尊敦が別れた地であるとされ、妻子が為朝の帰りを待ち続けた海岸が人々に待ち港(まちみなと、まちなと)と呼ばれるようになった。」そうだ。
そして、今回取材した、牧港テラブのガマは妻子が為朝を待った場所だという言い伝えがあるそうだ。
まあ、伝説だからなぁ。
これが牧港テラブのガマ入り口。 → Map
これだけ見ると、なんとなく不気味だが場所は街中で寂しい所ではない。
昨日チビチリ、シムクを見ているのでそのコントラストに驚いてしまう。
写真につけてある「Map」のリンクをクリックしていただければ一目瞭然である。
そして、入り口は階段を降りるのだがその手前には
ちゃんと標柱がある。
解説だ。源為朝説について書かれている。
中に入っても良さそうである。
昨日のチビチリガマのように、遺骨が残されて遺族からは墓の扱いを受けている場所もあるが、ここは違うようだ。
そして、この看板を見て確信した。
これを見て良い場所なのである。
さて看板に書かれている線香はわかる。
ウチカビのことを知らなかったのである。
帰宅後調べた。
あちらの世界で使うお金のことで、「ウチカビ」という紙銭をお供えするそうだ。
確かにここに置かれていたらたまってしまうなあ。
中は少し暖かい。
先日は行ったシムクガマもそうだった。
冬が暖かくて、夏は涼しく感じることが理解できた。
ここで暮らした方々の祭具だろうか。
生活に使った壺だろうか。
ゆきたんくである。
友人は中まで入って良い写真を撮っていた。
ゆきたんくは閉所・高所・暗所恐怖症である。
ここまでが限界。
ベトナムのクチ・トンネルを断念したことを思い出した。
どこまでも臆病である。
今回で47都道府県を制覇したと書いた。
残念ながら2度行った新潟については写真データがない。
確か旅行と、友人の結婚式だ。
ちょっと振り返りだ。
昨日は沖縄の朝の話をした。
実際に、その地で1泊したかを検証したことがない。
ちょっと確かめてみる。
北海道Ok。
東北はOk。
岩手がホテルの写真データが残っていないが、確か熱射病だった。
秋田もホテルのデータなし。湯沢であった友人の結婚式の後一泊している。
関東もOk。
中部は
北陸の富山県で宿泊なし。
東海の愛知で宿泊なし。
記憶に残る白川郷「伊三郎」での夜。
「伊三郎」の庭から見た夜空。
近畿は ホテルの写真データが残っていないが滋賀では琵琶湖畔に一泊している。
大阪府は宿泊なし。
中国はOk。
四国は徳島と香川で宿泊なし。
九州は佐賀、熊本、宮崎で宿泊なし。
8府県で宿泊がない。
あたらな宿題ができた。
楽しみな宿題である。
沖縄で迎える初めての朝(笑)
あらためて表現すると何となく面白い。
さて、ホテルの朝食である。
いつもバイキングなどで食べ散らかしている朝食だ。
面白い取り合わせ。左上の沖縄そばが気に入った。
いままでもあったのだろうが気にしていなかった。
今回の食事はダイレクトに頭の中に入ってきた。
沖縄の朝に沖縄そば。
気に入ったな。
まぁ、朝散歩だから研修というほど重苦しいものではないな。
ゆきたんくは旅をすると朝散歩するのがくせではある。
近年は体調と相談してからと少し慎重にはなってきている。
はじめて向かえる沖縄の朝。
そして宿泊したホテルは「コンフォートホテル那覇県庁前」だ。
沖縄の県庁所在地にいるのである。
街中の雰囲気は想像していた沖縄とは違っていた。
普通の町である。
しかし、他の歳との違いを明確にする存在としてシーサーがいる。
神社仏閣をみれば狛犬を探し、北京では唐獅子を探していた。
沖縄では当然シーサーだろう。
ホテルの西にあるAO廚房青年旅舍の正門。
ホテルのはす向かいにある「かりゆしLCH泉崎県庁前」のシーサー
県庁方面に向かう道のフェンスもシーサー
こんな奴もいる。
沖縄市役所前のシーサー。
沖縄県庁前にある沖縄県議会の建物にあるシーサー。
県庁前交番のシーサー。すごい顔をしている。
愛のシーサー公園のシーサー。
そもそもシーサーは獅子を沖縄語で発言したものだ。
そして狛犬や中国の唐の時代の獅子、スフィンクスなどは古代インドで仏の守護獣として両側にライオン(獅子)の像を置いたのが起源らしい。
しかしシーサーは神社仏閣などを問わないで、一家の魔除けの意味を持っているそうだ。
おまけ。
さて、夕食だ。
座喜味城跡を見た後すぐホテルに向かった。
まだチェックインを済ませていないのだ。
ホテルに着き、着替えお出かけ。
夕食は頼んでいない。
お目当てがある。
うん、国際通りだ。
目を奪われる。 「アグーーー。」
ここは明るい。
昼間写真を撮った場所。
パインジュース
ラフテー。旨い以外言葉なし。
ロースかつ。脂が甘くしつこくない。
ポーク卵。一緒に食べると・・・
天ぷらだよ。紅ショウガ、もずく、ゴーヤね。
そう、チャーハンも頼んだのだけれど写真を撮り忘れた。
パラパラで、米粒の表面の脂がアツくって旨かった。
連れは、クース―、ラフテー丼、豆腐よう・・・
本当、良く食った。
腹一杯。
そして帰り道。
本物のふくろう。
これには食欲は湧かなかった。
そしてホテルで楽しむのにお買い物。
ブルガリアヨーグルト2つ
たっぷりプリンカスタード
おいしい水カルピス
カルピスソーダ濃い目
とやりたい放題。
素晴らしい夜だわ。
沖縄の城(グスク)もいい。
台風のコースにある沖縄。
まして城というものは高い所にある。
風邪に強い構造でなくてはならない。
チビチリ、シムクと見て、同じ読谷村にある座喜味城跡に寄らない訳にはいかない。
座喜味城跡公園の駐車場に車をとめ、城跡まで歩く。
途中で、本土では聞くことのできない珍しい蝉の声に出会う。
風に汗が冷やされて気持ちが良い。
この石積み、素晴らしい。
アーチ構造の通路。中央に楔石(要石)、分かってらっしゃる。
なんて滑らかな造り。
城壁の上からの景色が楽しみ
階段に上がる前に後ろを振り返ると・・・
城壁からの転落禁止ね。
なんと三角点が。
全景だ。
なんて素敵な城跡だろう。
ただ、県内のお城はみんなこんな感じな気もする。
特に今日が絶景なだけに・・・
さて、井戸が無い。
防御よりはシンボルと考えた方が良いようだ。
北山王国(今帰仁)が滅んだことで、防御を考える必要がなくなったことで山田城からここに居を移した護佐丸によって造られた。
山田城より貿易に有利な港に近い場所にある。
また、沖縄で唯一の赤土台地上に掘り込んで建てられたグスクだ。(他のグスクは硬い石灰岩台地上)
しかし、綺麗な城跡である。
先日書いたチビチリガマから直線で南東に800m離れている同じ読谷村のシムクガマでは、1000名あまりの村民が生きて脱出した。
最初はチビチリガマ同様、自決するべきという意思を皆が持っていたようだ。
もう戦うしかないとなった時に、もとハワイ移民の住民たちがアメリカ兵と対話をした。
「手向かいしない限り殺さないのでガマを出るように伝えられた」ため、村民たちを説得した。
その結果、シムクガマからは1000名あまりの村民が自決することなく脱出した。
アメリカ兵は、捕まったらどんな目に遭わされるか分からない「鬼畜米英」ではなかった。
チビチリガマでは、2人の村民が落下傘で降りてきたアメリカ兵が数少ないので十分竹槍で戦えると思いアメリカ兵に立ち向かった。
その結果、機関銃や手榴弾を浴びた。
集団自決はその後のことである。
シムクガマでは村民(子供)が竹槍を持ってガマを出て戦おうとした時に元ハワイ住民に止められたという。
武器を持って出て行ったら間違いなく殺されていただろう。
アメリカ兵に手向かいしなかったこと、アメリカ兵と対話できる人間がいたこと。
この差が自決者82名(85名とも言われている。)と自決者0の違いになった。
場所を探していたら足元に
階段などない。足元に注意して。
奥深く壕がある。
内側でフラッシュを焚いた一枚。
鍾乳洞ということが分かる。
頭上注意。この出っ張りに頭をぶつけた。
奥に「北之天満金満宮」
元ハワイ移民の「比嘉平治氏、比嘉平蔵氏」をたたえる碑
奥は真っ暗だ。ここはもともと沖縄県民の憩いの場であった。
チビチリガマを訪れたのは9月30日のことだ。
この9月に、チビチリガマが荒らされる事案があった。
地元の若者がここで肝試しをしたというのだ。
もちろん、やったことの償いは必要だろう。
4人の未成年が起こしたことに対して、教育が行き届いていない結果だという声も聞かれた。
しかし、これは「戦争を知らない子供たち」に対して行われてきた教育もそうであったかどうかを検証する必要がありそうだ。
さて、ゆきたんくは6月に訪沖縄をすることを3月の段階で考えていた。
行くのであれば、たくさんのガマをできるだけ訪ねたいと思っていた。
ガマというのは、鍾乳洞のことだ。
戦時中ガマは避難壕の役割を果たしていた。
沖縄県中頭群読谷村波平(なかがみぐん・よみたんそん・なみひら)には2つの対象的なガマがある。
今回は「チビチリガマ」について。
名称の意味は、チビは「尻」、チリは「切る」だ。
谷底を流れる川がどこへ行くか分からないことから名付けられたそうだ。
ここは集団自決が行われた場所である。
沖縄戦では、一般住民が自殺する行為が発生した。これを集団自決と呼んだ。
ここ、チビチリガマ以外でも集団自決をした方々がおり、約900人以上の方が亡くなっている。
戦後、一文の文献により日本軍の命令など強制により自殺したということになっているが、確かなものではない。
未来を担う子供達の学校での教科書について、どのような記述が一番確かなのか。
歴史的考証がしっかりとできると良いと思う。
どのような内容であれ、事実が伝わらなければ意味がないのだ。
参拝である。手を合わせてくる。
チビチリガマに降りる階段手前にあった墓。「知念墓」とある。
「ハブに注意」の看板とともに、暗さが怖い。
降りていくと、ことのほか明るかった。
「平和の像」
壕の入り口にある看板。この中に遺骨がある。
集団自決が「強制された死」と彫られている。
名前の元になった川が流れている。
全景。
亡くなった方々には手を合わせてきた。
私たちが亡くなった方々の分まで生き抜くことを伝えた。
チビチリガマでは、壕の外に出ればアメリカ兵に確実に殺されると思っていたそうだ。
アメリカ兵に殺されるくらいならばと自決を選んだ人たちがいたのである。
その発端となったのが「元日本兵」と名乗る男だったそうだ。
その男が2回目にガマの中で火を着けた時に、煙で苦しむよりアメリカ兵に打たれた方が楽だと壕の外に出た人たちが保護されたという。
一方、ここから直線で南東に800m離れている同じ読谷村のシムクガマでは、1000名あまりの村民が生きて脱出した。
最初はチビチリガマ同様、自決するべきという意思を皆が持っていたようだ。
もう戦うしかないとなった時に、もとハワイ移民の住民たちがアメリカ兵と対話をした。
「手向かいしない限り殺さないのでガマを出るように伝えられた」ため、村民たちを説得した。
その結果、シムクガマからは1000名あまりの村民が自決することなく脱出した。
ところで。
いろいろ知り合いに話を聞くと、私は一年中旅をしているように思っていらっしゃる方々がいた。
「いつも旅ができて良いですね。」
「もう年金生活ですか?」
「出張が多いですね。」
「自由にできて良いですね。」
私はまだ現役で正業も持っている社会人である。
仕事に関係のあることについては、時間を作って金をかけずに楽しもうしている。
って力を入れて言うことではない。
前回は長崎がテーマであった。
6月16日~18日までの2泊3日の旅を膨らませて記事にしている。
今回の沖縄は、9月30日~10月1日の1泊2日を膨らませている。
見る方々の目に、随分と楽しんで写っているのであれば、それはそれで嬉しいことだ。
ゆきたんくの旅は、短い時間に贅沢に盛り込んで、それをやり切ることがテーマの一つである。
今回の沖縄は、戦跡が中心になる。
サイドメニューが食べ物や、窓観光というわけだ。
さて、飯だ。
空港について、かねてから契約済みのレンタカーに乗る。
行くのはここだ。
那覇市第一牧志公設市場。この2階に食堂がある。 → Map
ウコンにマカ。 効きそう。
日差しが暑かったので、このようなアーケードは助かる。
いくつかある入り口の1つから市場の中に入る。
いやぁ、食材の宝庫。
流石市場である。
ゆきたんくの目を奪った肉屋さん。
ここにある食材を買って、上の食堂で調理してもらって食べることもできるという。
とりあえず、食後はホテルに向かわず、自動車で1時間かかる第一の目的地に向かうから我慢だ。
食事も基本的な沖縄の食事にしようと思う。
やっぱりこれ。ソーキそば500円。
まちぐゎ―(市場)食堂 道頓堀でいただいた。
なんやかんや言って、蒲鉾もソーキもそばも美味しいね。
どれを取っても旨い。
満足した。