私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
私は短歌の三十一文字(みそひともじ)、俳句の十七音に関して、
詠(よ)む素養がないが、ときたま人さまの詠(よ)まれたのを拝読し、味わいを得て多々教示を受けている。
そして無念ながら、詩も詠めないので、もっぱら散文の世界で小説、随筆を読んだりしていることが多い。
私は東京郊外の農家の児として、1944(昭和19)年の秋に生を受けたが、
小学生に入学した当時は、幼い記憶をたどれば、
本に関しては、家には農協の月刊誌のひとつの『家の光』しか見当たらなかった。
私は人生の歩みは、多くの日本人の方たちより、遥かに奥手であり、
高校生になり、やっと読書の底知れぬ魅力に目覚め、乱読をし始め、
早や50年の歳月となったりしている。
しかしながら古文の短歌、俳句や漢詩などの世界の基礎学習の授業をさぼったので、
今だに不明なことが多い。
文は人格を表す、と古人から伝えられているが、
つたない私は、遅ればせながら散文の修行と思い立ち、せめてこのサイトに毎日綴り投稿している。
齢ばかり重ねた定年退職後の7年生となり、つたない才能なりに綴っているが、
テーマがすんなりと決まることもあるが、苦心惨憺の時が多い。
後で読み返せば、月平均50前後に投稿しているが、
大半は気恥ずかしく、数編程度は私なりの独創性ある特有の綴りと思ったりしている。
いずれにしても、言葉の綴りは底知れぬ魔力が秘めていることだけは、
少しは理解している。
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私は短歌の三十一文字(みそひともじ)、俳句の十七音に関して、
詠(よ)む素養がないが、ときたま人さまの詠(よ)まれたのを拝読し、味わいを得て多々教示を受けている。
そして無念ながら、詩も詠めないので、もっぱら散文の世界で小説、随筆を読んだりしていることが多い。
私は東京郊外の農家の児として、1944(昭和19)年の秋に生を受けたが、
小学生に入学した当時は、幼い記憶をたどれば、
本に関しては、家には農協の月刊誌のひとつの『家の光』しか見当たらなかった。
私は人生の歩みは、多くの日本人の方たちより、遥かに奥手であり、
高校生になり、やっと読書の底知れぬ魅力に目覚め、乱読をし始め、
早や50年の歳月となったりしている。
しかしながら古文の短歌、俳句や漢詩などの世界の基礎学習の授業をさぼったので、
今だに不明なことが多い。
文は人格を表す、と古人から伝えられているが、
つたない私は、遅ればせながら散文の修行と思い立ち、せめてこのサイトに毎日綴り投稿している。
齢ばかり重ねた定年退職後の7年生となり、つたない才能なりに綴っているが、
テーマがすんなりと決まることもあるが、苦心惨憺の時が多い。
後で読み返せば、月平均50前後に投稿しているが、
大半は気恥ずかしく、数編程度は私なりの独創性ある特有の綴りと思ったりしている。
いずれにしても、言葉の綴りは底知れぬ魔力が秘めていることだけは、
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