夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

言霊(ことだま)に魅せられて50年、つたない私は表現者としては今だ未熟・・。

2011-01-05 18:18:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
私は短歌の三十一文字(みそひともじ)、俳句の十七音に関して、
詠(よ)む素養がないが、ときたま人さまの詠(よ)まれたのを拝読し、味わいを得て多々教示を受けている。

そして無念ながら、詩も詠めないので、もっぱら散文の世界で小説、随筆を読んだりしていることが多い。

私は東京郊外の農家の児として、1944(昭和19)年の秋に生を受けたが、
小学生に入学した当時は、幼い記憶をたどれば、
本に関しては、家には農協の月刊誌のひとつの『家の光』しか見当たらなかった。

私は人生の歩みは、多くの日本人の方たちより、遥かに奥手であり、
高校生になり、やっと読書の底知れぬ魅力に目覚め、乱読をし始め、
早や50年の歳月となったりしている。
しかしながら古文の短歌、俳句や漢詩などの世界の基礎学習の授業をさぼったので、
今だに不明なことが多い。

文は人格を表す、と古人から伝えられているが、
つたない私は、遅ればせながら散文の修行と思い立ち、せめてこのサイトに毎日綴り投稿している。

齢ばかり重ねた定年退職後の7年生となり、つたない才能なりに綴っているが、
テーマがすんなりと決まることもあるが、苦心惨憺の時が多い。

後で読み返せば、月平均50前後に投稿しているが、
大半は気恥ずかしく、数編程度は私なりの独創性ある特有の綴りと思ったりしている。

いずれにしても、言葉の綴りは底知れぬ魔力が秘めていることだけは、
少しは理解している。


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この『小寒』の時節、私が秘かに魅了される冬の花は・・。

2011-01-05 08:34:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
定年後から日常の買物の専任者となった私は、殆ど毎日、スーパーや専門店に買物に行ったり、
少なくとも30分ぐらいは散策している。

こうして歩き廻っている時、昼下りのひととき、風もなく暖かな陽だまりの中、
遊歩道の外れにコナラ、クヌギなどが群生している冬木立の情景を眺めたり、
大きな欅(ケヤキ)の樹が陽射しを受けながら、
悠然(ゆうぜん)と、青い空に向うように、たわわな枝を伸ばしている情景も、
この時節は私の好きな光景でもある。

そして、遊歩道、住宅街の垣根とかで、
白、淡紅色、ビンク色した可憐な山茶花(サザンカ)の花を観たり、
椿(ツバキ)の幾分小さめの朱紅色の藪椿(ヤブ・ツバキ)の花を眺めたりすることが多い。

この時節の冬の花は少なく、
つい私は山茶花、藪椿に目がいってしまうのである。

そして私は、山茶花は女性、少女、少年の眺める花であり、
藪椿こそは大人の男性でも、感銘を受けて、そして心寄せられる冬の花のひとつ、
と齢を重ねるたびに深く感じたりしている。


我家の小庭に於いては、無念ながら山茶花はなく、
陽当たりの悪い処に藪椿はあるが、
平年より暖かな年末年始であったので、三輪ばかり濃紅色の花が咲いている。

そして、白梅(ハクバイ)と日本水仙(ニホンスイセン)は、莟(つぼみ)が膨(ふくら)みはじめて折、
あと数週間過ぎれば、純白で清楚な白玉椿(シラタマ・ツバキ)と共に、
我家の庭を彩(いろど)り、早春の便りを告げる。

私は主庭のテラスで、ときおり煙草を喫いながら、
こうした冬の情景に思い重ねたりし、早春を便(たよ)りを待ちわびたりしている。

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『蒼穹(そうきゅう)』という言霊、私は心の深淵まで魅了され・・。

2011-01-05 00:09:40 | 読書、小説・随筆
私が蒼穹(そうきゅう)という言葉を遅ればせながら知ったのは、
昭和55年(1980年)10月の初旬で、私が30代のなかばであった。

敬愛していた作家・立原正秋氏が亡くなり、
遺稿エッセイ集として立原正秋・著の『冬の花』(新潮社)から発刊されて、
私は発刊日を待ち焦がれて、買い求めた一冊である。

この中の随筆のひとつとして、
『旅から帰って』と題された随筆があり、私は初めて『蒼穹』という言葉を知り、学んだのである。

【・・
1日、思いたって浦上蒼穹堂を訪ねた。
有名な店ではない。蒼穹堂は私がつけた店である。
浦上満くんは繭山龍泉堂に五年間勤め、
日本橋の仲通りに独立して小さな美術店を開いた。
・・
たのまれて蒼穹堂の扁額を認めたが、
日が経つにつれて字が不安になってきたので、
それをたしかめるためでもあった。

・・』
立原正秋・著の随筆集『冬の花』から、『旅から帰って』よりP45の一部を引用

注)著作者の原文より、あえて改行を多くした。


私は読みながら、蒼穹という言葉は、
作者が朝鮮半島で生を受けたのであるから、
大陸性の風土で、澄み切った蒼い空が空一面に果てしなく拡がった冬晴れるの光景を
思い浮かべたのである。

このような想像をしながら、私は亡くなわれて数が月の作家に愛惜を深めたりした・・。


この後は、平成8年(1996年)の4月に、本屋で『蒼穹の昴』と題された背文字に魅了されて、
本棚から取り出したのは作家・浅田次郎の小説の上・下巻(講談社)であり、
まもなく私はこの小説に夢中になった後、この作家の過去の作品を探し求め、
読んだりしたのである。


そして、平成11年の晩秋の頃、大型書店で偶然に、
金子 昌夫・著の『 蒼穹と共生~立原正秋・山川方夫・開高健の文学 ~』
という評論集を見かけたが、
殆どの作者の作品を読んだりしていたので、購入しなかったのである。
ただ、《透きとおった蒼空の動かしがたい美しさ》と本の帯に書かれていたのが、
心に残ったのである。


そして、一昨年の平成21年(2009)年の1月15日、
偶然に、あるサイトの投稿文の詩を読んでいたら、
私は詩の世界は余り読んだことがないが、
私の知る限り、桁外れに才能を秘めた詩を読んだのである。

  『バラード』と題された詩で

【・・

市営グランドの柵を乗り越えたら
そこは満天の星々
ぼくだけの舞台に
またひとつ流れ星が堕ちてゆく
なにひとつ
歌の聞こえてこない市営グランド

寝そべって見上げれば
空も 
地球も
人間も
すべての生き物も
蒼穹の夢の欠片のような輝き

・・


私は、《寝そべって見上げれば・・》からはじまる一節、
何より《蒼穹の夢の欠片のような輝き》一節・・
この一節だけでも、私が感じ、感銘を受けた度合いは、詩人・宮沢賢治氏を遙かに凌駕している。


先ほど、隠れた才能のある方の詩を再読し、
動顚するほどに感銘を受けたので、
改めて《蒼穹》に関して、このような形で私なりに綴ることができたのである。

尚、この作者の表現された詩は、このサイトにある。

http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki


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