夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

冬の朝のひととき、齢ばかり重ねた私は、思わず『冬景色』の歌を唄い・・。

2011-01-11 16:07:33 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む私は、年金生活の66歳の身であり、
いつものように日の出の7時前には、起床している。

今朝は幾分寒いかしら、と思いながら、
居間のガスファン・ヒーターの暖房を点けた。
急速暖房のスイッチを指定しても、1度が表示されていた。
15分程度が過ぎれば、遅くても居間は17度くらい暖かくなるのであり、
ネットで地元の天気情報を見たりした。

朝の6時はマイナス2度、昼下がりは6度、そして夜の6時は3度となり、
冬晴れで風もなくおだやかな1日となるが、
今年一番の寒い朝かしら、と感じたりしたのである。

そして、雨戸を開けたり、新聞を取り込んだりした後、
主庭のテラスに下り立ち、煙草を喫ったりした。
冬木立の樹木を眺めたり、黒土が霜で薄っすらと白く染められて、
しばらく眺めていたのである・・。

こうした情景を眺めていたのであるが、脳裏からひとつの歌が浮かび、
私は小声で唄いだした・・。

♪さ霧(ぎり)消ゆる 湊江(みなとえ)の
 舟に白し、朝の霜。

【 『冬景色』 作詞・不詳 】

この後、家内にコーヒーを淹れたりした後、
NHKの7時のニュースが始まる頃であった。

そして玄関庭から、現役の諸兄の出勤される姿が見られ、
私の現役時代が思いだされた。

私の定年退職前の5年間は、出向となり、遠方の勤務先となり、
起床は4時45分で、最寄の始発のバスに乗り、
小田急線の電車の通勤途上で日の出を迎えたりしていたので、
あんな時代もあったなぁ、と苦笑したりしたのである。

まもなく、まばゆい朝の陽射しを受けながら、

♪ただ水鳥の 声はして
 いまだ覚(さ)めず、岸の家。

【 『冬景色』 作詞・不詳 】

と心の中で唄ったりした。

私は民間の中小業に35年ばかり勤めサラリーマンをしたりし、
何かと長年、悪戦苦闘の多い半生を体験してきたので、
こうした歌から濾過(ろか)がされ、心の純潔が取り戻されるようで、
私は好きな歌のひとつである。

そして私の心の根底には、1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた中で、
私の幼年期がある。
そして、祖父と父が中心となり、戦前からの小作人の助力を得たりしながら、
程々の広さの田畑を耕し、雑木林、竹林などがある中で過ごしてきた体験があり、
心の片隅に今でも残っている・・。

この『冬景色』の歌のような情景があるので、
私の実家も周辺も私が小学校を卒業する前後から、住宅街に大きく変貌し、
私にとっては失われた情景に哀歓を寄せることもある。

このような思いも重ねてか、この歌をこの冬の時節に、
ときおり心の中で唄ったりすることもある。



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『はじめてのおつかい』、私の幼年期に初めて買物を思い馳せられて・・。

2011-01-11 09:54:57 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
一昨日、家内といつものように1時間ばかり談笑しながら、夕食を頂いた。

そして、料理をするのは家内の責務であるので、せめて私は後片付けをし、
この後はいつものように茶坊主の私は、家内にコーヒーを淹れたりした。

家内は居間を視聴しているので、食卓テーブルの片隅にそぉーとマグカップを置いた・・。
このように私の定年後の夕食後の情景である。

私は煎茶を淹れた後、居間の庭に面した処にパソコンを置いた机の前で、
椅子に座りながら、ネットでニュースを見たりした。

こうしている時、テレビからあどけない幼児の声が聴こえた・・。
そして何かしら幼児が買物をしているような声が聴こえ、
まもなく私はテレビの画面を向かい、
『この番組・・何なの?・・』
と私はテレビを視聴している家内に私は訊(き)いたりした・・。

『小さな子供が、初めて買物を体験する特集番組・・
この特集・・人気があるみたい・・』
と家内は私に教えてくれた。

この後、私もテレビを視聴したのであるが、
幼児が母親から買物を依頼されて、のこのこと買物先に行き、
あどけない表情としぐさで、何とか品を買い求めて、帰宅に向うシーンであったが、
私は圧倒的な感動を頂いたのである・・。


今朝、ぼんやりとテラスに下り立ち、朝の陽射しを受けながら、
冬枯れの落葉樹を眺めていた時、この番組の情景が思いだされたのである。
そして微笑しながら、私の幼年期に初めて買物をしたことなどを思い馳せたりした・・。


私は1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、
雑木林、竹林などがある旧家であった。

長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。

私が地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春であり、
それ以前は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。
幻燈機は若い方には不明と思われるが、
現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私も実家で、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。
総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。


こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であるが、
この当時は駅の周辺は商店街があったが、駅までは15分の道のりであるので、
実家の周辺には、この店しかなかったのである。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と云ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡を満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、冠婚葬祭で一升瓶を贈答したり、年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、
平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。
そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。

後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたのである。


昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋から頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。


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