私は東京郊外に住む年金生活の66歳の身であるが、
2008(平成20)年の12月の下旬に、北海道の札幌市に私達夫婦は4泊5日の滞在旅行をした。
この時、午前中のひととき中島公園にある『北海道文学館』を訪ねた時を思い馳せた・・。
この時の鮮烈な印象については、私は下記のようにメモ書きしていた。
【・・
『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
私達は地下鉄の駅でたったひとつ先の中島公園に向った。
公園は冬木立の中、積雪15センチばかりの清々しい景観で、
この一角に『北海道文学館』が見えた。
http://www.h-bungaku.or.jp/
☆『北海道文学館』ホームページ☆
私は館内をゆっくり廻り、やはり真摯に文学を表現する同人雑誌が多いのに注視したりした。
この後、受付の横にある即売コーナーで、
『北海道文学百景』とを題された一冊の本に魅せられ、購入した。
北海道文学館設立20周年記念として、北海道文学館が編集され、
昭和62年(1987年)5月30日発行と表記されていた。
私が何より魅せられたのは、道内の各地を基軸とし、
小説・随筆、短歌・俳句、そして詩が2ページで掲載されていた。
例えば,『小樽』であったならば、
右ページに上段が小樽の景観の写真、下段が伊藤 整の『若い詩人の肖像』、
左ページに上段に小樽を詠んだ歌人、俳人の短歌、俳句、
下段がひとりの詩人の詩が掲載されていた。
こうした道内の各地百景で編集されており、
私はたった定価2000円で北海道の代表的な文学に触れ、
そして各地の古来からの伝統美にも鑑賞できるので、
私のような道内が殆ど無知な人にとっては、最適な入門書の一冊と確信したのである。
(略)
・・】
私は、帰宅後に布団の中で読んでいたのであるが、
ひとつの詩を読みながら、思わず涙を流し、首に巻いたタオルで
頬をぬぐったりしたのである。
私は詩に関しては、無知であり、単なる私のつたない感性と感覚を頼りに
読んでいた・・。
無断であるが、転載をさせて頂く。
立待岬
作・三吉良太郎
ぼうぼうと草原に風はなびき
風をかきわけて少年は草の中をゆく
蒼々と広い空間にそれは影のようだ
しかも、海につき出た天と地の間の時間
ようやく突端にでて
身体(からだ)をささえるほどの石にすわれば
風はまっすぐに身体をぬけてゆき
目は流れる潮をのりこえて天につらなり
耳も、岩頭にくだける波とともに海に沈む
塩辛い霧は湧きあがり
少年は霧と風にぬれてじっと立っている
(後略)
この前後に、立待岬は函館山の東端の岬で、断崖を津軽海峡の波濤が洗う所、
と解説されていた。
私はこの後、この詩を詠まれた作者の略歴を読んだりしたのである。
三吉良太郎(みよし・りょうたろう)
詩人。明治40年、弘前に生を受け、昭和33年、函館で死去。
大正8年から函館に居住。
掲示作は詩集『虹の門標』(昭和30年、土曜詩学社)
このように紹介されていたのであるが、
このひとつ詩からは孤独を直感し、純粋な少年の魂の孤独を感じたのである。
このように思いながら、私は涙があふれた後、
ブログに準じたサイトで、ひとりのお方に思いを重ねたのである。
この人は中年男性の方と私は感じているが、
安楽な身過ぎ世過ぎの世渡りを軽蔑しながら、
烈風に立ち向かうように、自身の純粋な魂にもとづいて言動を重ね、
あえて苦難の多い職務に従事しながら、ときおり詩を投稿している人である。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki
私は1964(昭和39)年の東京オリンピックが開催された頃、
大学を中退し、アルバイト・契約社員などに従事し、
映画・文学青年の真似事をしたりした時期があった。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ安定したサラリーマンの身に転向し、
35年ばかり身過ぎ世過ぎのサラリーマンをし、定年退職を迎えた。
このように、拙(つたな)く苦闘しながら敗退した私の軌跡があるので、
何かしら創作者をめざして、孤軍奮闘する30、40代のお方には、
思わず敬意してしまう習性がある。
この後の私は、創作者は自身のゆらめく魂を削りながら、孤独さえ友とし、
心底から発露できる人しか資格がない、と思ったりしているのである。
そして、こうした人こそ芸術家とよぶのに相応しい、と確信したりしている。
このようなことを私は、ぼんやりと思い馳せていた。
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2008(平成20)年の12月の下旬に、北海道の札幌市に私達夫婦は4泊5日の滞在旅行をした。
この時、午前中のひととき中島公園にある『北海道文学館』を訪ねた時を思い馳せた・・。
この時の鮮烈な印象については、私は下記のようにメモ書きしていた。
【・・
『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
私達は地下鉄の駅でたったひとつ先の中島公園に向った。
公園は冬木立の中、積雪15センチばかりの清々しい景観で、
この一角に『北海道文学館』が見えた。
http://www.h-bungaku.or.jp/
☆『北海道文学館』ホームページ☆
私は館内をゆっくり廻り、やはり真摯に文学を表現する同人雑誌が多いのに注視したりした。
この後、受付の横にある即売コーナーで、
『北海道文学百景』とを題された一冊の本に魅せられ、購入した。
北海道文学館設立20周年記念として、北海道文学館が編集され、
昭和62年(1987年)5月30日発行と表記されていた。
私が何より魅せられたのは、道内の各地を基軸とし、
小説・随筆、短歌・俳句、そして詩が2ページで掲載されていた。
例えば,『小樽』であったならば、
右ページに上段が小樽の景観の写真、下段が伊藤 整の『若い詩人の肖像』、
左ページに上段に小樽を詠んだ歌人、俳人の短歌、俳句、
下段がひとりの詩人の詩が掲載されていた。
こうした道内の各地百景で編集されており、
私はたった定価2000円で北海道の代表的な文学に触れ、
そして各地の古来からの伝統美にも鑑賞できるので、
私のような道内が殆ど無知な人にとっては、最適な入門書の一冊と確信したのである。
(略)
・・】
私は、帰宅後に布団の中で読んでいたのであるが、
ひとつの詩を読みながら、思わず涙を流し、首に巻いたタオルで
頬をぬぐったりしたのである。
私は詩に関しては、無知であり、単なる私のつたない感性と感覚を頼りに
読んでいた・・。
無断であるが、転載をさせて頂く。
立待岬
作・三吉良太郎
ぼうぼうと草原に風はなびき
風をかきわけて少年は草の中をゆく
蒼々と広い空間にそれは影のようだ
しかも、海につき出た天と地の間の時間
ようやく突端にでて
身体(からだ)をささえるほどの石にすわれば
風はまっすぐに身体をぬけてゆき
目は流れる潮をのりこえて天につらなり
耳も、岩頭にくだける波とともに海に沈む
塩辛い霧は湧きあがり
少年は霧と風にぬれてじっと立っている
(後略)
この前後に、立待岬は函館山の東端の岬で、断崖を津軽海峡の波濤が洗う所、
と解説されていた。
私はこの後、この詩を詠まれた作者の略歴を読んだりしたのである。
三吉良太郎(みよし・りょうたろう)
詩人。明治40年、弘前に生を受け、昭和33年、函館で死去。
大正8年から函館に居住。
掲示作は詩集『虹の門標』(昭和30年、土曜詩学社)
このように紹介されていたのであるが、
このひとつ詩からは孤独を直感し、純粋な少年の魂の孤独を感じたのである。
このように思いながら、私は涙があふれた後、
ブログに準じたサイトで、ひとりのお方に思いを重ねたのである。
この人は中年男性の方と私は感じているが、
安楽な身過ぎ世過ぎの世渡りを軽蔑しながら、
烈風に立ち向かうように、自身の純粋な魂にもとづいて言動を重ね、
あえて苦難の多い職務に従事しながら、ときおり詩を投稿している人である。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki
私は1964(昭和39)年の東京オリンピックが開催された頃、
大学を中退し、アルバイト・契約社員などに従事し、
映画・文学青年の真似事をしたりした時期があった。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ安定したサラリーマンの身に転向し、
35年ばかり身過ぎ世過ぎのサラリーマンをし、定年退職を迎えた。
このように、拙(つたな)く苦闘しながら敗退した私の軌跡があるので、
何かしら創作者をめざして、孤軍奮闘する30、40代のお方には、
思わず敬意してしまう習性がある。
この後の私は、創作者は自身のゆらめく魂を削りながら、孤独さえ友とし、
心底から発露できる人しか資格がない、と思ったりしているのである。
そして、こうした人こそ芸術家とよぶのに相応しい、と確信したりしている。
このようなことを私は、ぼんやりと思い馳せていた。
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