夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

創作者は自身のゆらめく魂を削りながら、孤独さえ友とし・・。

2011-01-06 18:35:46 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外に住む年金生活の66歳の身であるが、
2008(平成20)年の12月の下旬に、北海道の札幌市に私達夫婦は4泊5日の滞在旅行をした。
この時、午前中のひととき中島公園にある『北海道文学館』を訪ねた時を思い馳せた・・。

この時の鮮烈な印象については、私は下記のようにメモ書きしていた。

【・・
『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
私達は地下鉄の駅でたったひとつ先の中島公園に向った。

公園は冬木立の中、積雪15センチばかりの清々しい景観で、
この一角に『北海道文学館』が見えた。

http://www.h-bungaku.or.jp/
☆『北海道文学館』ホームページ☆

私は館内をゆっくり廻り、やはり真摯に文学を表現する同人雑誌が多いのに注視したりした。
この後、受付の横にある即売コーナーで、
『北海道文学百景』とを題された一冊の本に魅せられ、購入した。
北海道文学館設立20周年記念として、北海道文学館が編集され、
昭和62年(1987年)5月30日発行と表記されていた。

私が何より魅せられたのは、道内の各地を基軸とし、
小説・随筆、短歌・俳句、そして詩が2ページで掲載されていた。
例えば,『小樽』であったならば、
右ページに上段が小樽の景観の写真、下段が伊藤 整の『若い詩人の肖像』、
左ページに上段に小樽を詠んだ歌人、俳人の短歌、俳句、
下段がひとりの詩人の詩が掲載されていた。

こうした道内の各地百景で編集されており、
私はたった定価2000円で北海道の代表的な文学に触れ、
そして各地の古来からの伝統美にも鑑賞できるので、
私のような道内が殆ど無知な人にとっては、最適な入門書の一冊と確信したのである。

(略)
・・】

私は、帰宅後に布団の中で読んでいたのであるが、
ひとつの詩を読みながら、思わず涙を流し、首に巻いたタオルで
頬をぬぐったりしたのである。

私は詩に関しては、無知であり、単なる私のつたない感性と感覚を頼りに
読んでいた・・。

無断であるが、転載をさせて頂く。


     立待岬               
                      作・三吉良太郎

ぼうぼうと草原に風はなびき
風をかきわけて少年は草の中をゆく
蒼々と広い空間にそれは影のようだ
しかも、海につき出た天と地の間の時間

ようやく突端にでて
身体(からだ)をささえるほどの石にすわれば
風はまっすぐに身体をぬけてゆき
目は流れる潮をのりこえて天につらなり
耳も、岩頭にくだける波とともに海に沈む

塩辛い霧は湧きあがり
少年は霧と風にぬれてじっと立っている

(後略)


この前後に、立待岬は函館山の東端の岬で、断崖を津軽海峡の波濤が洗う所、
と解説されていた。

私はこの後、この詩を詠まれた作者の略歴を読んだりしたのである。

三吉良太郎(みよし・りょうたろう)
詩人。明治40年、弘前に生を受け、昭和33年、函館で死去。
大正8年から函館に居住。
掲示作は詩集『虹の門標』(昭和30年、土曜詩学社)

このように紹介されていたのであるが、
このひとつ詩からは孤独を直感し、純粋な少年の魂の孤独を感じたのである。


このように思いながら、私は涙があふれた後、
ブログに準じたサイトで、ひとりのお方に思いを重ねたのである。

この人は中年男性の方と私は感じているが、
安楽な身過ぎ世過ぎの世渡りを軽蔑しながら、
烈風に立ち向かうように、自身の純粋な魂にもとづいて言動を重ね、
あえて苦難の多い職務に従事しながら、ときおり詩を投稿している人である。

http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki

私は1964(昭和39)年の東京オリンピックが開催された頃、
大学を中退し、アルバイト・契約社員などに従事し、
映画・文学青年の真似事をしたりした時期があった。

確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ安定したサラリーマンの身に転向し、
35年ばかり身過ぎ世過ぎのサラリーマンをし、定年退職を迎えた。

このように、拙(つたな)く苦闘しながら敗退した私の軌跡があるので、
何かしら創作者をめざして、孤軍奮闘する30、40代のお方には、
思わず敬意してしまう習性がある。

この後の私は、創作者は自身のゆらめく魂を削りながら、孤独さえ友とし、
心底から発露できる人しか資格がない、と思ったりしているのである。
そして、こうした人こそ芸術家とよぶのに相応しい、と確信したりしている。

このようなことを私は、ぼんやりと思い馳せていた。


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高峰秀子さまの逝去に関して、玄人(くろうと)のプロの綴り、そして素人(しろうと)の綴り・・。

2011-01-06 11:15:51 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
昨夜、読売新聞の夕刊を見て、やはり文章を綴られる玄人のプロの綴りに感心させられたのである。

昨年の12月28日に高峰秀子さまの逝去され、公表されたのは31日の大晦日の夜の6時過ぎであり、
この件に関して、一面の左下段にある【よみうり寸評】で採り上げられていた・・。

この記事と同一に読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されているので、
無断ながら転載させて頂く。


《・・
             1月5日付 よみうり寸評

〈女優・高峰秀子さんが三ヶ月ほど前に死去していたことが判明した〉――「私の死亡記事」(文芸春秋刊)で高峰さん自身が書いている

〈生前「葬式は無用、戒名も不要。人知れずひっそりと逝きたい」と言っていた。
その想いを見事に実践したようだ〉と続く

その訃報が現実になったのが悲しい。
雪で越年したところの多かった元日の朝刊でそれは報じられた。
さすがに「三ヶ月ほど前」ではなく12月28日の死去だったが、昭和を代表する名女優の死と降る雪に昭和も遠くなりにけりと思った

1924年、北海道函館市に生まれ、5歳で松竹映画「母」で子役デビュー。
戦前の「馬」「綴方(つづりかた)教室」、戦後の映画黄金期に「二十四の瞳」「浮雲」……

激動の昭和とともに子役から名女優への道を歩んで86歳。
「葬式無用。生者は死者の為に煩わさるべからず」は親交の深かった梅原龍三郎画伯に学んだようだ

才気あふれるエッセーで「夫・ドッコイ」と表現した夫君松山善三氏の悲しみ寂しさは察するに余りある。

(2011年1月5日13時50分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column2/news/20110105-OYT1T00668.htm
☆【YOMIURI ONLINE】 1月5日付 よみうり寸評 ☆

この記事を読み終わった時、私はやられた、と感じたのである。
綴られた切り口に『私の死亡記事』(2000年12月発刊、文芸春秋)であり、
各界の著名人が自らの「死亡記事」を執筆される異色な本で、
この中のひとつとして高峰秀子さまも綴られていたのを採り上げられていたのである。

この当時、私も愛読したひとりであり、今回の訃報後、私は唖然としたり、動顚していたので、
すっかり忘れていたのが、本音である。


私は若き日に於いて、大学を中退して、映画、文学青年の真似事をしたこともあるので、
今回の高峰秀子さまの逝去に際して、
公表された31日の大晦日の夜の6時過ぎの翌日の元旦の午後のひととき、
涙ぐみながら、このサイトに投稿文を綴ったのである。

【・・
    高峰秀子さまの訃報に接し、私は呆然としながら、ただ御冥福を祈りながら・・。
                                2011-01-01 16:49:52

私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
昨日の昼下り、古本屋、本屋に寄り6冊の本を抱えながら、川沿いの遊歩道を歩いた。

冬晴れの陽射しの中、人影も少ないのどかな遊歩道を歩き、
梅園だった片隅に残された三本の白梅は、昼下りの陽射しを受けて、たわわな莟(つぼみ)の中に、
ひっそりと10数輪咲いて折、私は思わず立ち止まり、しばらく眺めたりした・・。

帰宅後、買い求めた中の一冊の文藝春秋SPECIAL『この国で死ぬということ』(平成23年季刊冬号)を読んだりし、
夜の6時半過ぎに、ネットでニュースを見ようと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、
高峰秀子さん死去、ニュースに私は呆然とした・・。


私は昨年の2010(平成22)年の4月初旬、
斎藤明美・著の『高峰秀子の流儀』(新潮社)を読みながら、
やはり斎藤明美・著の『高峰秀子の捨てられない荷物』(文春文庫)も読んでいたので、
高峰秀子さまは心身ご健在と安堵したひとりであった。

私は高峰秀子さんを敬愛するひとりであり、
映画の作品はもとより、高峰秀子さんご自身が綴られた随筆を数多く愛読してきた。

こうした思いもあり、私は幾たびか高峰秀子さんに関して、投稿文を重ねている。

今回、私は呆然としているばかりなので、
あるサイトに2008年1月2日に於いて、
【 愛(いと)しき人は、初夢でお逢いし・・♪ 】と題して投稿しているので、
ご冥福を祈りながら、あえて掲載する。

【・・
私は齢を重ねた63歳の身であるが、
日頃から、心に残った時は夢の中でも見ることのできるひとりである。
ときには、思いが強ければ強いほど、
映画の3本立てなどのように夢の続きを見る時もある。

大晦日のひととき、高峰秀子・著の『おいしい人間』(文春文庫)を読み始め、
昨夜の9時過ぎに布団にもぐり、続きを読んだりしたが、
途中で眠ってしまった。

深夜の12時半過ぎに目覚めて、
本を開いて、2時半過ぎに読了したのである。

この間に寝付いている時、著作者の高峰秀子が遠い縁の叔母のように、
夢の中で出て、私なりに少し困惑し、
そして嬉しげに私は逢い、言葉を交わしたりした・・。


私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催時であったが、
映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。

戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの昭和の20年までの名作を観ることが出来たのである。

この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子の存在を実感させられた。

私はこの当時の1964年に於いては、
少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、
木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。

そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。

私は女優の高峰秀子の存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。

子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、
私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。

その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三には、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていたのである。

              
高峰秀子が第一線の映画界を引退された頃は、
私は中小企業のサラリーマンに身を投じて、家庭を持ち、気負いながら世間の空気を吸ったりしていた。

いつの日が忘れてしまったが、本屋の店頭で、
このお方の本にめぐり逢い、数冊の随筆集を購入した・・。

多分、『わたしの渡世日記』、『台所のオーケスラ』、『にんげんのおへそ』と思われる単行本であったが、
殆ど本の読まない今は亡き家内の父は、高峰秀子のファンのひとりとして知り、
松竹の蒲田時代のエピソードを教えて頂いたので、
この単行本を差し上げたのである。

このような形でこのお方の随筆集が発刊されるたびに購入し、
そして現代に至っている。


深夜のひとときは、おかしな夢であった。
なぜか私の近くにある程度の高級マンション20数棟があり、
広大な敷地内の庭園が拡がっている・・。

この中の一角の300坪前後にテーブルが10数卓あり、
コックの3人を陣頭指揮をされているのが、
50歳前後の容姿をされている高峰秀子・女史であった。

どうして女史がこの庭園にと思いながら、私は近づいたのである・・。

『あぁ・・あなた・・今、招待した人達のお料理の真っ最中なの・・
うちの旦那・・あちらにいるから・・
手持ちぶたさなので、話相手になってょ・・』
と女史は私に云った。

私は庭の外れの大きな樹木の下で、
退屈そうに椅子に座っている松山善三の姿が判ったが、
私と同年輩の容姿に私は驚いた・・。

テーブルに古伊万里の徳利があり、
備前のぐい呑みのちぐはぐな取り合わせで呑まれていたが、
『あぁ・・よかったょ・・
XXちゃん、こんどのシナリオ・・構成が弱くて・・聞いてくれる?・・』
と私に話し込むであった。

私は戸惑いながら、椅子に座った・・。


このような夢であった・・。
私は若き映画青年の真似事した時代、
東宝の撮影所に幾たびか通い、ある日宣伝部の方と話し合っていた時、
たまたま高峰秀子がこちらに向かって来た時があった。

宣伝部の方が飛び出て、
『この青年・・大学を中退し、この世界に・・』
と話されていた・・。

『こんにちは・・でも・・もったいないわ・・大学をお辞(や)めになるなんて・・
でもねぇ・・大変ょ・・この世界は・・』
と大女優は私に云った。

私はこの大女優であった高峰秀子とは、
初めてお逢いでき、これ以降、40数年お逢いしたことがなく、
多分、今後も逢えることがないと思われる。

古人から一期一会、と名言があるが、
私のこのお方とのさりげない出会いを、今でも人生のひとこまとしながらも、
天上の女神のひとりとして、大切に心に留めている。
・・】

このように投稿しているが、高峰秀子さんの圧倒的な存在感は、
昭和4(1929)年に子役として出演された後、
昭和のそれぞれの時代を代表する映画作品で私達の映画ファンを感動させ、
昭和54(1979)年に惜まれながら、いさぎよく引退されたことである。

そして女優さん出身として、たぐい稀なエッセイの数々を綴られ、私達の読書ファンに感銘させ、
たんたんと人生の晩期を過ごされたことである。

私は高峰秀子さんの人生の軌跡を学ぶたびに、敬愛させられ、
今回、訃報に接し、
長年に於いて私達を数多く教示して下さり・・お疲れさまでした、
と私は思わず黙祷をしている。
・・】

そして新聞、テレビのニュースで三が日に報じられたが、
私は購読している読売新聞、ネットで毎日新聞などを見た限りの数多くの記事に関して、
文章を綴られる玄人のプロの綴りにしては、高峰秀子さんへの思いは浅く、浮ついた発言や、
愛惜感ある深淵の発露が不足している、と私は苦笑していたのである。


今回の【よみうり寸評】に関しては、5日の夕刊に掲載されていたので、
5日の午前中までに綴られた記事と思え、後追いは有利とされるが、
この分を差引いて、やはり文章を綴られる玄人の綴りと私は感心させられたのである。


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『寒の入り』、東京郊外の齢を重ねた私達夫婦は、旅先の雪の情景に思いを馳せ・・。

2011-01-06 09:09:23 | 定年後の思い
東京郊外の調布市は、早朝の6時は1度ぐらいの日の出前の薄暗い朝を迎えたが、
7時前に日の出となり、30分過ぎると我家の主庭、居間はまばゆい朝の陽射しを受けている。
昼下りは9度前後の冬晴れに恵まれ、夜の6時過ぎは5度前後が予測され、
平年より暖かい日かしら、と感じたりしている。

そして私は居間の片隅に掲げているカレンダーを見つめると、
『小寒(しょうかん)』と明示され、思わず微苦笑をしたりしていた。

私は年金生活の7年生の66歳の身であるが、
私の住む東京郊外の調布市の片隅の地域に於いては、
昨年の晩秋も平年より暖かく、年末年始になっても冬晴れの日々に恵まれている。

私は散策をしたりすると、陽だまりの中で、白梅が七分咲きに見惚(みと)れたり、
我が家の玄関庭にある白梅も大きく膨らんだ10数輪の莟(つぼみ)に微笑んだりしながら、
見つめたりしてきた。

このような情景を見ながら過ごしてきたので、
小寒か、と明記されて教えられても、実感が乏しいというのが、本音である。


この後、私は秘かに愛用している【日本文化いろは事典】のサイトを開き、
『行事・祭事』を指定した後、『二十四節気』を読んだりしたのである。

http://iroha-japan.net/iroha/A04_24sekki/
☆【日本文化いろは事典】==>『二十四節気』☆

《・・
【小寒(しょうかん)』】
1月5日頃
小寒は『寒の入り』つまり寒さの始まりという意味です。
本格的な寒さでないという意味があるようですが、
実際この頃になると寒さは厳しくなります。
寒中見舞いは、小寒から出し始めます。
・・》

このように綴られていたが、私は体力は衰えても好奇心があるので、
その後についても、読んだりした。

《・・
【『大寒(だいかん)】
1月20日頃
大寒とは、一年で最も寒い時期という意味です。
小寒から数えて15日後とされて折、
小寒から大寒までの15日間と大寒から立春までの15日間の合計30日間を『寒の内』といいます。
耐寒の為に様々な行事が行われます。

寒気を利用した食物(凍り豆腐、寒天、酒、味噌など)を仕込む時期にあたります。
・・》

このように誰でも解かりやすいように優(やさ)しく明記されていたのである。

私は季節感のうつろいを何よりも大切にしているひとりであるので、
こうした時節を明示している【日本文化いろは事典】サイトは、
特に定年後の年金生活を過ごす中、こよなく愛用させて頂だいているサイトのひとつでもある。


この時節、私の住む地域は、寒さを増しても、
庭の黒土の上にうっすらと霜となり、ところどころ霜柱も見られる。

そして3月初旬の女の子を祝う『桃のお節句』の頃までには、
数年に一度ぐらい雪が舞い降っても、わずか数センチぐらいとなっている。

私達夫婦は国内旅行が共通趣味であり、雪恋しの心情を秘めているので、
雪舞い降る情景に求めて、北の地をめざして、旅を重ねることが、多いのである。

昨年の12月中旬に青森県の十和田湖の奥地の『蔦(つた)温泉』に4連泊し、
雪舞い降る情景に私達夫婦は少年、少女のような見惚(みと)れたり、
30センチぐらいの積雪の中、散策して戯(たわむ)れたりしていた。

この時の想いを今朝、私達は話したりしていた。

そして、たまたま今年の2月中旬に山形県の山里にある『銀山温泉』に滞在したり、
最上川の船下りに訪れるので、
こうしたこともお互いに語り合ったりしていた。


このように私は60年前頃の幼年期、私の住む地域でも、
小寒から大寒まで、そして大寒から立春までの『寒の内』の時節には、
数回ぐらいは雪が降り、ときには積雪30センチぐらい舞い降った体験を幾たびかしている。

このような心情を愛惜を重ねながら秘めたりしているので、
何かしら雪恋し、となっているのか、と私は家内に結婚以来、何度も話したりしている。


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