夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『どんと焼き』、私の幼年期に体験した心の宝物のひとつとなり・・。

2011-01-10 17:58:51 | 幼年・少年時代の想いで
私達夫婦は昨日、駅前に出掛けた時、
駅の外れに、『どんと焼き』15日実施、と明記された案内の立て看板が置かれていた。

『どんと焼き』かょ、と私は思わず心の中で呟(つぶや)きながら、
見惚(みと)れてたりした・・。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
遥か遠い昔の60年前の昭和26(1951)年の前後に於いて、
私の今住んでいる近くに実家があり、祖父と父が健在だった頃、
農業を営(いとな)んで、程々の広さの田畑を耕し、雑木林もある農家であった・・。

お正月の三が日が終わると、七草がゆ、鏡開き、そして『どんと焼き』をしていた。

この当時、旧家ではその家なりに工夫して、『どんと焼き』を行っていた。

私の実家に於いては、田畑の外れに青竹を10数本ぐらい建てかけ主柱として、
稲の藁(わら)で覆(おお)いながら高い塔のように10メートル前後に作り上げた後、
旧年で使用していた注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、
新年に彩(いろど)った輪飾りなどを清めた後、燃やしたりした。
そのまじかで、枝葉に幾つも付けた団子をこの燃え上がる火で焼いたりしていた。

夕暮れで暗くなった頃に、点火されて、燃え盛り炎、はじける音、
そして燃え盛る炎と共に火花がはじけて、暗くなった中を明るく照らし、
祖父と父から少し離れて、長兄、次兄と共に私は眺めたりしながら、心の中で歓声を上げたりしていた。

そして枝葉につけた数多いの団子も食べたりしたが、
この枝葉は宅地の外れにあった雑木林の大きな樹木から採っていたのであるが、
何の樹木から採ったのかは・・想いだせないでいる。


この数年後、父は病死し、そして祖父も亡くなり、
男手の大黒柱を失った実家は没落しはじめ、『どんと焼き』をする余裕もなく、
取りやめたのである。

そして、まもなく実家の周辺も住宅街に変貌し、
私が小学校を卒業する頃になると、どの旧家でも『どんと焼き』をすることなく、
最寄の神社などに注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、輪飾りなどを持ち寄って、
神社の境内で共同の『どんと焼き』となったりした。

私は、その家なりの『どんと焼き』に愛惜を深めた為か、
神社でそれぞれの家が持ち寄った『どんと焼き』には興味がなく、
これ以来、私が幼年期に体験した実家の『どんと焼き』が心の宝物と思い、
今日に至っているのである。


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『成人の日』、つたない私が遠い昔、二十歳を迎えた前後の頃を思い馳せれば・・。

2011-01-10 09:24:32 | 青年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝、カレンダーを見て、『成人の日』と朱記されていたので、微苦笑したりした。

私の心の片隅には、『成人の日』は15日、と残ったりしたので、
2000(平成12)年に制定されたハッピーマンデー法に基づき1月の第2月曜日に改正されました、
と何かの本で読んだりしたことがあったが、不謹慎ながら実感性がなく、戸惑ったりしている。

この後、私は20歳の頃は、と想いめぐらしたりした・・。


私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。

小・中学校時代は長兄、次兄の兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で交流を重ねたりし、
文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび独りで通った映画館に寄ったり、
女子部の生徒と新宿御苑で木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したのである。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。

担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。


結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。
体育系のワンダー・フォーゲル部で山歩きをしたりしたが、映画館には相変わらず通っていた・・。

秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、映画評論の真似事をしたりした。

そして、翌年になると、都心は東京オリンピックの開催年で、日増し毎に景観が変貌していた・・。

私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したのである。

東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

ある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』と聴こえてきた。

この様に漠然と夢に向って過ごしたのが、私の20歳過ぎの姿であった。


東京オリンピックが終り、翌年の1月から、専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。

指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉委員長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが、一本立ちには程遠かったのである。

この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から、新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしてアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、スタッフの方たちはもとより、ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、
改めて教示させられた。


私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。


この間、学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような折、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。

この当時のコンピューターは、汎用の大型機でも、処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。


そして、近所の家電販売店の店主の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知り、紹介されて、
このお方のご尽力もあり、1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たのである。

そして、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。


このように私の高校時代から、25歳までの民間会社に中途入社の頃まで綴ったりしたが、
私の『成人の日』の当日は、と思い馳せたりした・・。

私は映画に無我夢中に夢を見ていた時期であったので、
調布市の式典などは眼中になく、無視していた。
その日の夕食後の夜の9時過ぎ、長兄、次兄と三人で、ウィスキーの水割りか日本酒を呑みながら、
祝い鯛を食べながら、談笑した、おぼろげな記憶しか残っていないのである。


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