第8章 父島の内陸を散策すれば
3月1日の午前中は、昨日の2月28日の津波の襲来で避難しりしたせいが疲れを覚え、
ホテル内でのんびりと私達夫婦は過ごしたが、
『父島 ガイドマップ』を見たりしていた。
そして、初心者向けの『森・山歩き』のツアーで島内の森を散策しょう、と私達はツアー先に連絡した。
島内は『おがさわら丸』が昨夜の未明に出航した後、観光客は閑散とした状況なので、
何とか連絡が取れて、特別に施行して下さる方に依頼したのである。
http://www.e-ogasawara.com/activity/shima.html
☆ ボニンブルーシマ ☆
私達の滞在しているホテルに自動車で12時半過ぎに来て下さり、
体力の衰えた夫婦のやさしい森の散策を、と私は40歳前後の方に依頼したりしたのであるが、
三言ばかり話し合っているうちに、私達はこのガイドのお方に魅了されてしまったのである。
そして父島の最北部にある三日月山の展望台より180度は超える広い海原を眺めたのである。
家内はガイドさんの指導で、双眼鏡を眺めながら、クジラが観えるわ、
と歓声を上げたりしていた。
この後、山道を走破し、長崎展望台、初寝展望台から切立った崖を眺めたり、父島の東岸の洋上を観たり、
いずれも道路から数百メートルを歩いた見晴らし良い展望台からの美景であった。
この間、壮大な国立天文台VERAの小笠原観測局を観たりし、
この後は旧海軍の食料の防空壕、施設跡を歩き廻り、西岸の穏やかなコペペ海岸にたたずんだりした。
そして落陽の光景を観たい、と私達の要望で、ガイドさんは、
二見湾に射しこむ夕陽を境浦、そして三日月山の展望台に戻り、洋上に壮麗な夕陽から落陽の光景を長らく見つめたのである。
そして夜のとばりになり、ガイドさんは私達の滞在しているホテルまで送迎して下さり、
私は初めて父島の秘めたる情景に心は充たされたのである。
第9章 峻久な時を秘めたる無垢な南島
私は『ホエールウォッチング』の2回目の3月2日で、父島の西岸の彼方に南島に上陸したと記載したが、
たまたまこの日は、『おがさわら丸』が父島の二見港がなく、観光客は少ない日となっていた。
そして私が未知の南島に上陸したのであるが、優しい女性ガイドの説明を受けながら、
私達一行の10名のほかは人影も見当たらず、歩き出したのであるが、
私は島の無垢な情景の数々に圧倒されたのである。
小笠原村観光協会の解説文の言葉をお借りすれば、
《・・
この南島は都の天然記念物に指定され、また、新東京百景の1つに選ばれた石灰岩でできた小笠原随一の景勝地。
世界的にも珍しい沈水カルスト地形の島でまぶしいほどの白い砂浜、
エメラルドグリーンの扇池、そして青く澄み切った空がとても美しい。
手つかずの自然以外何もない、別世界の時が流れているこの空間へ
・・》
大半の観光地の美麗な写真、解説には、一番良い時節にプロの方が撮る景観を掲載していることが、
殆どであるが、今回の南島の光景はまぎれなくこの写真以上に美しいのである。
しかしながら、私はこの後3月4日の三度目の『ホエールウォッチング』の時も南島を訪れたのであるが、
数多くの観光船のグループの人たちが上陸されて折、私は途中で断念した。
この秘めたる無垢な情景は、できうる限り少人数で歩き、
それぞれが心の留められれば、心の片隅に深く残る、と確かに教えられたのである。
第10章 ふたたびホテルは活気となり
相変わらずホテルの客は私達夫婦だけで、朝食を終えた後、
散歩かわりに歩いて一キロ程近くにある『亜熱帯農業センター』に出かけたのである。
ゆるい登り道路の脇の歩道を歩き、少し汗をかいた頃に到着したのであるが、
人影もなく、桜の花、亜熱帯の植物を観賞したが、数多くの花の咲く時節の谷間であり、静寂な情景であった。
一時半ばかりセンター内を散策した後、ホテルの前にあるバス停の『扇浦海岸』までの下り道を歩き、
この後は村営バスで街の中心街に出たのである。
そして家内は、昼食は緬類を食べてたい、というので、素朴に食堂風の店に入った。
店内の一昔の看板が展示するように数多く見られた。
私は家内に懐かしい看板だね、と云いながら、その当時の思いで話をしたりした。
私はチキンのガーリック味を頂きながら、ビールの大瓶を2本を呑んだりした。
店を辞する時、『波食波食(ぱくぱく)』と店の看板があり、私は思わず微笑んだりした。
そして街中を歩き、家内は長袖のスポーティなシャツを買い求めたりした後、
私達は村営バスに乗り、ホテルに戻ったのは午後2時前であった。
そしてバルコニーで二見湾の情景を眺め、煙草を喫っていると、
『おがさわら丸』がゆったりと二見港に入港してきた。
『おがさわら丸』の定時入港は午前11時半であるが、
過日の津波により少なくとも10時間以上遅れて出航したので、
少しは挽回して4時間遅れの午後3時半に入港したのである。
そしてこの船に乗船してきた一部の人たちが、
ホテルの宿泊者となり、70歳前後の女性の4人グループ、50歳前半のご夫婦の二組、
70代のご夫妻、30代のご夫妻、そして女性の30代前半が宿泊者と加わり、
私達夫婦を含めて15名となり、
私達はレストランで隣席の人たちと穏やかに談笑したり、或いはロビー等で話したりしたのである。
第11章 夜の浜辺、里の情景は
私達はホテルのベランダからは、夜のひととき前方の扇浦海岸、二見湾、
そして彼方に観える二見港の船舶の灯り、大村の街灯りを眺めたりしていた。
観光のひとつとして『ナイト・ツアー』があり、浜辺、里山の情景を観せてくれるのを知っていたので、
日中に観る情景とはまったく変貌すると思われるので、私達夫婦は3月3日の夜にツアーに参加した。
この日は『おがさわる丸』に入港したので、若い20歳前後の女性3人とグループとなり、
ガイドさんの導きに観賞したのである。
私達は暗い小浜海岸で特有のの蟹(カニ)を観たり、
付近の大きな樹木の実が、たとえ川に流れようとしても、やがて岸辺の地に根付く、
たくまし樹木を眺めたりした。
そして、たまたま午前中に訪れた亜熱帯農業センターで、
この小笠原諸島に住むコウモリの生態を見つめ、椰子の花などを食べている状況を見るができたのである。
その後、幻のキノコを観るために山沿いのせせらぎに行ったのであるが、
湿度と温度の微妙な環境を要求されるキノコであるので、
無念ながら拝見できなかったのである。
私は蟹、コオモリに余り興味がなく、家内は喜んでいたが、
独り夜空の星の方に魅了されていたが、曇り空で余り観えなかったのである。
そして雲間に恥ずかしげに隠れてしまった数多くの星に、
どうして内気なの、と私は恨めしげにわずかな星を眺めていたのである。
ホテルに戻り自動車の中で、ツアーのさなか若い女性3人の歓声、ため息、話し声、そしてしぐさに、
カニ、コウモリより遥かに学んだことを思いだし、
独りで微苦笑していたのである。
第12章 そよ風を海辺の休憩所で受けながら
3月5日の朝食後、明日の6日は『おがさわら丸』に乗船するので、
家内は帰り仕度の荷物の整理をしていた。
私達は日中はホテルの間近にある休憩所でのんびり過ごそう、と昨夜に話し合ったていた。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。
前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
私達は最初にこの場所に来た時から、何かと気に入って、
近くにある村営バスの『扇浦海岸』のバス停で街中に行く時も、
この休憩所を利用させて頂いたのである。
10時過ぎに大きなテーブルのひとつにバックとデジカメを置き、
長イスに座って、前方の白い砂浜に打ち寄せる波、そして青い浅瀬の海が広がり、
その先は蒼い色彩を増しながら彼方まで続く洋上を眺めると、時が過ぎさるのが忘れるくら見惚(みと)れていたのである。
そして、時折そよ風を私は受けながら、煙草を喫ったりしていると、
旅も終わりに近づいてきたことをぼんやりと感じてきたのである。
思い返せば、2月24日に早朝に自宅を出て、竹芝桟橋に早めに到着し、
『おがさわら丸』は定時の午前10時に出航し、一路南下して翌日の25日の午前11時半に父島の二見港に入港した。
そして滞在するホテル『ホライズン』にチエック・インし、この夜から創意工夫のある夕食、そして朝食を頂いたりした。
26日の日中は大村の街中に行き、『小笠原ビジター・センター』でビデオを3本ばかり観賞し、
小笠原諸島のことを多々教示を受けたりした。
27日は初めての『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
潮風を受けたり、潮水を浴びたりしたが、ザトウクジラを数多く観られ、洋上からの父島、兄島の景観に魅せられた。
そして28日には、津波警報に驚きながら『扇浦 交流センター』に避難し、
夜の8時の避難解除まで過ごしたりした。
この間に『おがさわら丸』は二見港を定時の午後2時に出航が遅れ、深夜の未明に出航したと翌朝知ったりした。
3月1日からは、3日の『おがさわら丸』が午後3時に入港するまで、
ホテルの宿泊客は私達夫婦だけとなり、レストラン等で何かと落ち着かない日々が続いた。
2日の日中は、二度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
まぎれなく神秘の南島に上陸し、散策しながら数多くの景観に魅了させらたのである。
3日の午前中はホテルから程遠くない『亜熱帯農業センター』を散策したり、
夜のひとときは『ナイト・ツアー』に参加し、夜の情景を眺めたりした。
4日の日中は、三度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
高速大型船で父島の西岸を北部の彼方から南部の彼方まで、縦横くまなく走破しながら、
ザトウクジラを見飽きるほど観せてくれたのである。
このようなことを思い浮かべたりしたのであるが、過ぎてしまえば余りに早く感じる・・。
前方の浅瀬の海に、カヤックが三隻が観られ、
この中のひとりの指導員がシーカヤック挑戦の初心者を教えている。
家内は微笑みながら、この状景を見つめたりし、
私も挑戦すればよかったわ、と私に云ったりしながら笑ったりした。
この後、家内がホテルに引き返して、缶ビールを2本とおつまみ、お菓子を提げてきた。
よそ風に身をゆだねて、ビールを呑み、前方の海の色合いを観れば、
贅沢すぎるかしら、と感じるのである。
そして私にとっては、このような天国であったならば、通俗の言葉で記すと、確かな極楽だね、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。
第12章 『おがさわら丸』父島・二見港の出航の光景は
6日の朝食後、午後2時に出航する『おがさわら丸』に乗船する為、
ホテルの方が船客待合所に私達の大きめの旅行バックを届けて下さるので、
チエック・アウト後は私達は身軽に村営バスに乗り、二見港から近くにある『小笠原ビスターセンター』に行った。
そして過日、感銘を受けたビデオを3作品を観賞した後、
付近の大神山公園の東屋風の休憩所で、昼食として煎茶を飲みながら、お弁当を頂いたりした。
そして船客待合所に行き、数多くのいる人々中、予約券の指定乗船券を本券に代え、
券の右側にある乗船名簿欄に記載したりした。
そして、確約した午後1時15分過ぎに、ホテルの方が所定場所に私達の旅行バックを届けて下さり、
私達はホテルの方に滞在中に何かとお世話になった意味合いのお礼を云ったりした。
この後、ホテルのお方から、私達にそれぞれ真紅の大きなハイビスカスの花を二輪を頂き、
私達は大きめの旅行バックを持ちながら乗船し、指定されたBデツキ・フロアーの『特一等』の一部屋に入室した後、
船室と船べりの間のデッキに行ったが、
岸壁に面した右舷は私達と同様な船客で鈴なりになり、上階のAデツキでも同じように船客で満ちていた。
下方に見える船客待合所の前の岸壁に面した広場は、数多くの観光関連の村人、滞在されている観光客が折、
中央には太鼓を打ち響かせる青年がいて、活気ある歓送の宴となっていた・・。
私達の船客は少なくとも600名ぐらい折、お互いに思いを残しながら、手を振ったり、大きな声で感謝の言葉を張りあげていた。
そして『おがさわら丸』はドラの音を鳴らすと、船は岸壁を静かに離れはじめた・・。
乗船した私達も見送りに来て頂いた下方に見える人々に手を振り、
ホテルのお方も見えて、私達夫婦は手を大きく振ったしていた。
私はこの後、華やかな真紅の大きなハイビスカスの花を二輪を岸壁に向かい、
お世話になりました、と心に呟(つぶや)きながら投げたのである・・。
そして盛大な歓送をして頂き、岸壁から50メートル以上離れたので、
船室に戻ろうとしていた時、『おがさわら丸』の右舷の数10メートル離れた周辺に観光船が少なくとも30隻以上が見え、
私達の乗船している『おがさわら丸』に並列するように小さな波間を疾走してきたのである。
それぞれの観光船は船長をはじめ、男性、女性スタッフ、滞在客も乗り、大きく手を振っていた。
そして、この中の一隻は後部に太鼓を響かせ、
最上部の狭い観覧席でひとりの青年が逆立ちをして、両足を開き『V』サインをしばらくの間し、
私達乗客600名ぐらいの殆どは、盛大な拍手と歓声を上げたりしたのである・・。
二見湾の中央付近になっても、それぞれの色彩を帯びた観光船は波間を疾走し、
私達が『ホエール・ウォッチング』に利用させて頂いた『ピンクドルフィン号』、『ドリーム号III』、『MissPAPAYA』の三隻も観え、
思わず私は大きく手を振り、そして遊覧船のスタッフも盛大な手を振りあげていた・・。
この後、二見湾から外洋に出る前に、それぞれの遊覧船のスタッフが海に飛び込み、やがて海上から手を振っていた時、
私は涙を流していたことに気付いたのである。
『おがさわら丸』は外洋に出て、速度を上げ、私は潮風を顔に受けながら、過ぎ去っていく二見湾、そして父島を眺めていた。
最終章 『おがさわら丸』を下船後、都心を過ぎ、そして我が家に
7日の午後3時45分に『おがさわら丸』は15分ばかり遅れて、東京湾の竹芝桟橋に着岸した。
昨日の午後2時に南方1000キロの彼方の父島・二見港を出航し、
私達の父島滞在の9日間は快晴に恵まれた22度から26度の快適な日々を過ごせ、
津波で避難した日だけは曇り時々霧雨であったが、
都心に向かい北上するたびに気温は低下し、小雨の降る6度ばかりの肌寒い状況で下船した。
私達は大きめの旅行バックを二つばかり持ちながら、竹芝客船ターミナルの食事処に入った。
私は笊蕎麦(ざるそば)を頂きながらビールを呑だりし、
『旅立つ前は11泊12日は長い旅路と思われたが・・こうして過ぎると早かったね・・』
と私は家内に云ったりした。
家内は早朝に船酔いに青ざめてに、下船する3時間前に少しは元気になったが、
疲れを感じた表情をしていた。
私は別室の喫煙できる部屋に行き、煙草を喫いながら、ビールを呑んだりしていると、
広場を急ぎ足で現役の諸兄諸姉の10数人が通り過ぎて行くのが見えたりした。
私が現役の民間サラリーマン時代には、数多くの人たちと同様に多忙で、
新婚旅行、勤続30、35年で特別休暇を頂いた時でも、4泊5日が限界であり、
職場に慌ただしく復帰し、私なりに精勤していたのある・・。
定年退職後、初めて長め旅行ができ、今回の父島にしても3泊滞在を少し長く5日ぐらいと思ったりしたが、
船の定期船のサイクルで結果として9泊の滞在となったのである。
このようなことをぼんやりと思いながらも、
父島でお逢いした人たちの多くは、純粋な心を持ちながらしなやかに生活をされている、
と改めて思いを馳せたりしていた。
何よりも都心と違い、単なる利便性に惑うことなく、確かな日々を過ごされていると感じ深めたのである・・。
冷たい小雨が降り、大きな旅行バックが二つもあり、家内にタクシーで帰宅しょう、と提案し、
私達はタクシーに乗車し、車窓から浜松町、芝公園、六本木、青山、渋谷のビジネスと繁華街を眺めながら通り過ぎ、
そして成城学園の住宅街を通過して、まもなく調布市に入ると我が家に到着したのである。
そして門扉を開けて、玄関への石段を上がると、玄関庭の白梅は散り、周辺の黒土に花びらが散乱し、
門扉の近くの椿は数多くの赤い花を咲き、小雨の中を彩(いろど)っていた・・。
私は旅の終わりで『おがさわら丸』で船中泊したせいか疲れていたが、
深夜の夢の中で、小笠原の父島でお逢いできた人たちが数多く出て、話し合ったりしていたのである。
この中のひとつとして、硫黄島で敗戦前に農業をされていた高齢の女性、
観光船の船長と女性スタッフの船上で溌剌としたしぐさ、明るい笑顔で私に話しかけられ、
私は長年に都心の利便性を享受せいか弱虫となり、モジモジと返事をしたり、
落ち着かないしぐさをしたり、眩(まぶ)しげに見つめたりしていたのである。
《終り》
・・】
このように私達夫婦は、東京都の一部である都心から遥か彼方の小笠原諸島の父島の旅をしてきたが、
これまで幾たびか島めぐりの旅を重ねてきた私共は、
限りなく素朴さの秘めたまぎれない美しい島であった。
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3月1日の午前中は、昨日の2月28日の津波の襲来で避難しりしたせいが疲れを覚え、
ホテル内でのんびりと私達夫婦は過ごしたが、
『父島 ガイドマップ』を見たりしていた。
そして、初心者向けの『森・山歩き』のツアーで島内の森を散策しょう、と私達はツアー先に連絡した。
島内は『おがさわら丸』が昨夜の未明に出航した後、観光客は閑散とした状況なので、
何とか連絡が取れて、特別に施行して下さる方に依頼したのである。
http://www.e-ogasawara.com/activity/shima.html
☆ ボニンブルーシマ ☆
私達の滞在しているホテルに自動車で12時半過ぎに来て下さり、
体力の衰えた夫婦のやさしい森の散策を、と私は40歳前後の方に依頼したりしたのであるが、
三言ばかり話し合っているうちに、私達はこのガイドのお方に魅了されてしまったのである。
そして父島の最北部にある三日月山の展望台より180度は超える広い海原を眺めたのである。
家内はガイドさんの指導で、双眼鏡を眺めながら、クジラが観えるわ、
と歓声を上げたりしていた。
この後、山道を走破し、長崎展望台、初寝展望台から切立った崖を眺めたり、父島の東岸の洋上を観たり、
いずれも道路から数百メートルを歩いた見晴らし良い展望台からの美景であった。
この間、壮大な国立天文台VERAの小笠原観測局を観たりし、
この後は旧海軍の食料の防空壕、施設跡を歩き廻り、西岸の穏やかなコペペ海岸にたたずんだりした。
そして落陽の光景を観たい、と私達の要望で、ガイドさんは、
二見湾に射しこむ夕陽を境浦、そして三日月山の展望台に戻り、洋上に壮麗な夕陽から落陽の光景を長らく見つめたのである。
そして夜のとばりになり、ガイドさんは私達の滞在しているホテルまで送迎して下さり、
私は初めて父島の秘めたる情景に心は充たされたのである。
第9章 峻久な時を秘めたる無垢な南島
私は『ホエールウォッチング』の2回目の3月2日で、父島の西岸の彼方に南島に上陸したと記載したが、
たまたまこの日は、『おがさわら丸』が父島の二見港がなく、観光客は少ない日となっていた。
そして私が未知の南島に上陸したのであるが、優しい女性ガイドの説明を受けながら、
私達一行の10名のほかは人影も見当たらず、歩き出したのであるが、
私は島の無垢な情景の数々に圧倒されたのである。
小笠原村観光協会の解説文の言葉をお借りすれば、
《・・
この南島は都の天然記念物に指定され、また、新東京百景の1つに選ばれた石灰岩でできた小笠原随一の景勝地。
世界的にも珍しい沈水カルスト地形の島でまぶしいほどの白い砂浜、
エメラルドグリーンの扇池、そして青く澄み切った空がとても美しい。
手つかずの自然以外何もない、別世界の時が流れているこの空間へ
・・》
大半の観光地の美麗な写真、解説には、一番良い時節にプロの方が撮る景観を掲載していることが、
殆どであるが、今回の南島の光景はまぎれなくこの写真以上に美しいのである。
しかしながら、私はこの後3月4日の三度目の『ホエールウォッチング』の時も南島を訪れたのであるが、
数多くの観光船のグループの人たちが上陸されて折、私は途中で断念した。
この秘めたる無垢な情景は、できうる限り少人数で歩き、
それぞれが心の留められれば、心の片隅に深く残る、と確かに教えられたのである。
第10章 ふたたびホテルは活気となり
相変わらずホテルの客は私達夫婦だけで、朝食を終えた後、
散歩かわりに歩いて一キロ程近くにある『亜熱帯農業センター』に出かけたのである。
ゆるい登り道路の脇の歩道を歩き、少し汗をかいた頃に到着したのであるが、
人影もなく、桜の花、亜熱帯の植物を観賞したが、数多くの花の咲く時節の谷間であり、静寂な情景であった。
一時半ばかりセンター内を散策した後、ホテルの前にあるバス停の『扇浦海岸』までの下り道を歩き、
この後は村営バスで街の中心街に出たのである。
そして家内は、昼食は緬類を食べてたい、というので、素朴に食堂風の店に入った。
店内の一昔の看板が展示するように数多く見られた。
私は家内に懐かしい看板だね、と云いながら、その当時の思いで話をしたりした。
私はチキンのガーリック味を頂きながら、ビールの大瓶を2本を呑んだりした。
店を辞する時、『波食波食(ぱくぱく)』と店の看板があり、私は思わず微笑んだりした。
そして街中を歩き、家内は長袖のスポーティなシャツを買い求めたりした後、
私達は村営バスに乗り、ホテルに戻ったのは午後2時前であった。
そしてバルコニーで二見湾の情景を眺め、煙草を喫っていると、
『おがさわら丸』がゆったりと二見港に入港してきた。
『おがさわら丸』の定時入港は午前11時半であるが、
過日の津波により少なくとも10時間以上遅れて出航したので、
少しは挽回して4時間遅れの午後3時半に入港したのである。
そしてこの船に乗船してきた一部の人たちが、
ホテルの宿泊者となり、70歳前後の女性の4人グループ、50歳前半のご夫婦の二組、
70代のご夫妻、30代のご夫妻、そして女性の30代前半が宿泊者と加わり、
私達夫婦を含めて15名となり、
私達はレストランで隣席の人たちと穏やかに談笑したり、或いはロビー等で話したりしたのである。
第11章 夜の浜辺、里の情景は
私達はホテルのベランダからは、夜のひととき前方の扇浦海岸、二見湾、
そして彼方に観える二見港の船舶の灯り、大村の街灯りを眺めたりしていた。
観光のひとつとして『ナイト・ツアー』があり、浜辺、里山の情景を観せてくれるのを知っていたので、
日中に観る情景とはまったく変貌すると思われるので、私達夫婦は3月3日の夜にツアーに参加した。
この日は『おがさわる丸』に入港したので、若い20歳前後の女性3人とグループとなり、
ガイドさんの導きに観賞したのである。
私達は暗い小浜海岸で特有のの蟹(カニ)を観たり、
付近の大きな樹木の実が、たとえ川に流れようとしても、やがて岸辺の地に根付く、
たくまし樹木を眺めたりした。
そして、たまたま午前中に訪れた亜熱帯農業センターで、
この小笠原諸島に住むコウモリの生態を見つめ、椰子の花などを食べている状況を見るができたのである。
その後、幻のキノコを観るために山沿いのせせらぎに行ったのであるが、
湿度と温度の微妙な環境を要求されるキノコであるので、
無念ながら拝見できなかったのである。
私は蟹、コオモリに余り興味がなく、家内は喜んでいたが、
独り夜空の星の方に魅了されていたが、曇り空で余り観えなかったのである。
そして雲間に恥ずかしげに隠れてしまった数多くの星に、
どうして内気なの、と私は恨めしげにわずかな星を眺めていたのである。
ホテルに戻り自動車の中で、ツアーのさなか若い女性3人の歓声、ため息、話し声、そしてしぐさに、
カニ、コウモリより遥かに学んだことを思いだし、
独りで微苦笑していたのである。
第12章 そよ風を海辺の休憩所で受けながら
3月5日の朝食後、明日の6日は『おがさわら丸』に乗船するので、
家内は帰り仕度の荷物の整理をしていた。
私達は日中はホテルの間近にある休憩所でのんびり過ごそう、と昨夜に話し合ったていた。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。
前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
私達は最初にこの場所に来た時から、何かと気に入って、
近くにある村営バスの『扇浦海岸』のバス停で街中に行く時も、
この休憩所を利用させて頂いたのである。
10時過ぎに大きなテーブルのひとつにバックとデジカメを置き、
長イスに座って、前方の白い砂浜に打ち寄せる波、そして青い浅瀬の海が広がり、
その先は蒼い色彩を増しながら彼方まで続く洋上を眺めると、時が過ぎさるのが忘れるくら見惚(みと)れていたのである。
そして、時折そよ風を私は受けながら、煙草を喫ったりしていると、
旅も終わりに近づいてきたことをぼんやりと感じてきたのである。
思い返せば、2月24日に早朝に自宅を出て、竹芝桟橋に早めに到着し、
『おがさわら丸』は定時の午前10時に出航し、一路南下して翌日の25日の午前11時半に父島の二見港に入港した。
そして滞在するホテル『ホライズン』にチエック・インし、この夜から創意工夫のある夕食、そして朝食を頂いたりした。
26日の日中は大村の街中に行き、『小笠原ビジター・センター』でビデオを3本ばかり観賞し、
小笠原諸島のことを多々教示を受けたりした。
27日は初めての『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
潮風を受けたり、潮水を浴びたりしたが、ザトウクジラを数多く観られ、洋上からの父島、兄島の景観に魅せられた。
そして28日には、津波警報に驚きながら『扇浦 交流センター』に避難し、
夜の8時の避難解除まで過ごしたりした。
この間に『おがさわら丸』は二見港を定時の午後2時に出航が遅れ、深夜の未明に出航したと翌朝知ったりした。
3月1日からは、3日の『おがさわら丸』が午後3時に入港するまで、
ホテルの宿泊客は私達夫婦だけとなり、レストラン等で何かと落ち着かない日々が続いた。
2日の日中は、二度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
まぎれなく神秘の南島に上陸し、散策しながら数多くの景観に魅了させらたのである。
3日の午前中はホテルから程遠くない『亜熱帯農業センター』を散策したり、
夜のひとときは『ナイト・ツアー』に参加し、夜の情景を眺めたりした。
4日の日中は、三度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
高速大型船で父島の西岸を北部の彼方から南部の彼方まで、縦横くまなく走破しながら、
ザトウクジラを見飽きるほど観せてくれたのである。
このようなことを思い浮かべたりしたのであるが、過ぎてしまえば余りに早く感じる・・。
前方の浅瀬の海に、カヤックが三隻が観られ、
この中のひとりの指導員がシーカヤック挑戦の初心者を教えている。
家内は微笑みながら、この状景を見つめたりし、
私も挑戦すればよかったわ、と私に云ったりしながら笑ったりした。
この後、家内がホテルに引き返して、缶ビールを2本とおつまみ、お菓子を提げてきた。
よそ風に身をゆだねて、ビールを呑み、前方の海の色合いを観れば、
贅沢すぎるかしら、と感じるのである。
そして私にとっては、このような天国であったならば、通俗の言葉で記すと、確かな極楽だね、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。
第12章 『おがさわら丸』父島・二見港の出航の光景は
6日の朝食後、午後2時に出航する『おがさわら丸』に乗船する為、
ホテルの方が船客待合所に私達の大きめの旅行バックを届けて下さるので、
チエック・アウト後は私達は身軽に村営バスに乗り、二見港から近くにある『小笠原ビスターセンター』に行った。
そして過日、感銘を受けたビデオを3作品を観賞した後、
付近の大神山公園の東屋風の休憩所で、昼食として煎茶を飲みながら、お弁当を頂いたりした。
そして船客待合所に行き、数多くのいる人々中、予約券の指定乗船券を本券に代え、
券の右側にある乗船名簿欄に記載したりした。
そして、確約した午後1時15分過ぎに、ホテルの方が所定場所に私達の旅行バックを届けて下さり、
私達はホテルの方に滞在中に何かとお世話になった意味合いのお礼を云ったりした。
この後、ホテルのお方から、私達にそれぞれ真紅の大きなハイビスカスの花を二輪を頂き、
私達は大きめの旅行バックを持ちながら乗船し、指定されたBデツキ・フロアーの『特一等』の一部屋に入室した後、
船室と船べりの間のデッキに行ったが、
岸壁に面した右舷は私達と同様な船客で鈴なりになり、上階のAデツキでも同じように船客で満ちていた。
下方に見える船客待合所の前の岸壁に面した広場は、数多くの観光関連の村人、滞在されている観光客が折、
中央には太鼓を打ち響かせる青年がいて、活気ある歓送の宴となっていた・・。
私達の船客は少なくとも600名ぐらい折、お互いに思いを残しながら、手を振ったり、大きな声で感謝の言葉を張りあげていた。
そして『おがさわら丸』はドラの音を鳴らすと、船は岸壁を静かに離れはじめた・・。
乗船した私達も見送りに来て頂いた下方に見える人々に手を振り、
ホテルのお方も見えて、私達夫婦は手を大きく振ったしていた。
私はこの後、華やかな真紅の大きなハイビスカスの花を二輪を岸壁に向かい、
お世話になりました、と心に呟(つぶや)きながら投げたのである・・。
そして盛大な歓送をして頂き、岸壁から50メートル以上離れたので、
船室に戻ろうとしていた時、『おがさわら丸』の右舷の数10メートル離れた周辺に観光船が少なくとも30隻以上が見え、
私達の乗船している『おがさわら丸』に並列するように小さな波間を疾走してきたのである。
それぞれの観光船は船長をはじめ、男性、女性スタッフ、滞在客も乗り、大きく手を振っていた。
そして、この中の一隻は後部に太鼓を響かせ、
最上部の狭い観覧席でひとりの青年が逆立ちをして、両足を開き『V』サインをしばらくの間し、
私達乗客600名ぐらいの殆どは、盛大な拍手と歓声を上げたりしたのである・・。
二見湾の中央付近になっても、それぞれの色彩を帯びた観光船は波間を疾走し、
私達が『ホエール・ウォッチング』に利用させて頂いた『ピンクドルフィン号』、『ドリーム号III』、『MissPAPAYA』の三隻も観え、
思わず私は大きく手を振り、そして遊覧船のスタッフも盛大な手を振りあげていた・・。
この後、二見湾から外洋に出る前に、それぞれの遊覧船のスタッフが海に飛び込み、やがて海上から手を振っていた時、
私は涙を流していたことに気付いたのである。
『おがさわら丸』は外洋に出て、速度を上げ、私は潮風を顔に受けながら、過ぎ去っていく二見湾、そして父島を眺めていた。
最終章 『おがさわら丸』を下船後、都心を過ぎ、そして我が家に
7日の午後3時45分に『おがさわら丸』は15分ばかり遅れて、東京湾の竹芝桟橋に着岸した。
昨日の午後2時に南方1000キロの彼方の父島・二見港を出航し、
私達の父島滞在の9日間は快晴に恵まれた22度から26度の快適な日々を過ごせ、
津波で避難した日だけは曇り時々霧雨であったが、
都心に向かい北上するたびに気温は低下し、小雨の降る6度ばかりの肌寒い状況で下船した。
私達は大きめの旅行バックを二つばかり持ちながら、竹芝客船ターミナルの食事処に入った。
私は笊蕎麦(ざるそば)を頂きながらビールを呑だりし、
『旅立つ前は11泊12日は長い旅路と思われたが・・こうして過ぎると早かったね・・』
と私は家内に云ったりした。
家内は早朝に船酔いに青ざめてに、下船する3時間前に少しは元気になったが、
疲れを感じた表情をしていた。
私は別室の喫煙できる部屋に行き、煙草を喫いながら、ビールを呑んだりしていると、
広場を急ぎ足で現役の諸兄諸姉の10数人が通り過ぎて行くのが見えたりした。
私が現役の民間サラリーマン時代には、数多くの人たちと同様に多忙で、
新婚旅行、勤続30、35年で特別休暇を頂いた時でも、4泊5日が限界であり、
職場に慌ただしく復帰し、私なりに精勤していたのある・・。
定年退職後、初めて長め旅行ができ、今回の父島にしても3泊滞在を少し長く5日ぐらいと思ったりしたが、
船の定期船のサイクルで結果として9泊の滞在となったのである。
このようなことをぼんやりと思いながらも、
父島でお逢いした人たちの多くは、純粋な心を持ちながらしなやかに生活をされている、
と改めて思いを馳せたりしていた。
何よりも都心と違い、単なる利便性に惑うことなく、確かな日々を過ごされていると感じ深めたのである・・。
冷たい小雨が降り、大きな旅行バックが二つもあり、家内にタクシーで帰宅しょう、と提案し、
私達はタクシーに乗車し、車窓から浜松町、芝公園、六本木、青山、渋谷のビジネスと繁華街を眺めながら通り過ぎ、
そして成城学園の住宅街を通過して、まもなく調布市に入ると我が家に到着したのである。
そして門扉を開けて、玄関への石段を上がると、玄関庭の白梅は散り、周辺の黒土に花びらが散乱し、
門扉の近くの椿は数多くの赤い花を咲き、小雨の中を彩(いろど)っていた・・。
私は旅の終わりで『おがさわら丸』で船中泊したせいか疲れていたが、
深夜の夢の中で、小笠原の父島でお逢いできた人たちが数多く出て、話し合ったりしていたのである。
この中のひとつとして、硫黄島で敗戦前に農業をされていた高齢の女性、
観光船の船長と女性スタッフの船上で溌剌としたしぐさ、明るい笑顔で私に話しかけられ、
私は長年に都心の利便性を享受せいか弱虫となり、モジモジと返事をしたり、
落ち着かないしぐさをしたり、眩(まぶ)しげに見つめたりしていたのである。
《終り》
・・】
このように私達夫婦は、東京都の一部である都心から遥か彼方の小笠原諸島の父島の旅をしてきたが、
これまで幾たびか島めぐりの旅を重ねてきた私共は、
限りなく素朴さの秘めたまぎれない美しい島であった。
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