私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の66歳の身であるが、
定年退職の2004(平成16)年の後、まもなく『ブログ』の世界を知り、
殆ど毎日、ブログの投稿文をしている。
そして確か2007(平成19)年の頃から、
急激に普及した『ツイッター』に関しては、私は発信できないでいる。
『ツイッター』は短い綴りで、つぶやくような文章と私は解釈しているので、
短い言葉で私の今の心情を発露するようなことは、無念ながら私には筆力がないので、
利用したことがないのである。
しかしながら、ある程度の長い文章の綴りであるならば、
つたない私なりに『ブログ』の投稿文として、
日常の思い、或いは思索したいることなどを心の発露として綴ったりし、
ここ6年ばかり投稿している。
昨今の日本の社会に於いて、『ツイッター』の利用される方の一部で、
少し心の礼節を失くした方の発信文が問題となっている、と風の噂で聞いたりしている。
昨夕、読売新聞の夕刊(2011年1月24日)に於いても、この問題の記事が掲載されている。
《・・
ツイッターに詳しい武田徹・恵泉女学園大学園教授(メディア論)は、
「ブログに比べて、ツイッターは公私の差があいまい」
と指摘する。
つぶやきは通常、自分の書き込みをチェックしている人(フォロワー)に向けられているため、
友人や家族に話す感覚に近くなる。
実際には自分のフォロワーの先には、さらにフォロワーがいて、
大きな波及力があることが忘れられがちだ。
ツイッターを使いやすくするスマートフォン用ソフトも出ており、
見たことをその場で書き込んでしまうことも、軽率なつぶやきを生みやすい。
武田教授は、
「書き込んだ本人が特定されれば、損害賠償を求められる可能性もある」
と注意する。
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私はこの記事から、『ツイッター』の世界を多々学び、
『フォロワー』という言葉も初めて教示され、スマートフォンも使えないひとりであり、
この社会の流れに困ったなぁ、とため息を重ねたりした。
日中のひととき、いつものように、近くに流れる野川の川沿いの遊歩道を散策した。
陽だまりの良い処で、白梅の純白の花が七分咲きとなり、
私は立ち止まり、見惚(みと)れたりしている。
こうした時、脳裏から『ツイッター』こそは、
まぎれなく日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』などに最適だ、
と思ったりしたのである・・。
短歌は、もとより五・七・五・七・七の三十一〔みそひと〕文字の世界であり、
万葉の時代から日本の人々に愛されてきた叙情詩であり、
この内容も恋の歌・日常生活の描写・社会問題・子供の成長・物語や幻想まで、
どんなテーマでも自在である、と受け継がれている。
俳句は、五・七・五の三句十七音から成る定型詩であり、
「季語」さえ含めば、内容も自在であり、江戸時代から多くの方に愛されてきている。
そして川柳は、五・七・五の十七音の定型で、
ユーモアに富んだ言葉使い、或いは世の中を風刺した作風で、
江戸時代に発生し、明治時代の頃から、多くの方たち慕われてきた。
このように私は思いながら、『ツイッター』を利用される方たちは、
短歌や俳句の一句を詠まれたり、或いは川柳の一句でも吐くことをされれば、
この上なく日本文化は隆盛し、何よりも当人は更に心が豊かになる、と確信を深めたりした。
尚、私は無念ながら短歌や俳句を詠む素養はなく、
『ブログ』の世界で散文のようなつたない綴りを殆ど毎日投稿をしている。
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定年退職の2004(平成16)年の後、まもなく『ブログ』の世界を知り、
殆ど毎日、ブログの投稿文をしている。
そして確か2007(平成19)年の頃から、
急激に普及した『ツイッター』に関しては、私は発信できないでいる。
『ツイッター』は短い綴りで、つぶやくような文章と私は解釈しているので、
短い言葉で私の今の心情を発露するようなことは、無念ながら私には筆力がないので、
利用したことがないのである。
しかしながら、ある程度の長い文章の綴りであるならば、
つたない私なりに『ブログ』の投稿文として、
日常の思い、或いは思索したいることなどを心の発露として綴ったりし、
ここ6年ばかり投稿している。
昨今の日本の社会に於いて、『ツイッター』の利用される方の一部で、
少し心の礼節を失くした方の発信文が問題となっている、と風の噂で聞いたりしている。
昨夕、読売新聞の夕刊(2011年1月24日)に於いても、この問題の記事が掲載されている。
《・・
ツイッターに詳しい武田徹・恵泉女学園大学園教授(メディア論)は、
「ブログに比べて、ツイッターは公私の差があいまい」
と指摘する。
つぶやきは通常、自分の書き込みをチェックしている人(フォロワー)に向けられているため、
友人や家族に話す感覚に近くなる。
実際には自分のフォロワーの先には、さらにフォロワーがいて、
大きな波及力があることが忘れられがちだ。
ツイッターを使いやすくするスマートフォン用ソフトも出ており、
見たことをその場で書き込んでしまうことも、軽率なつぶやきを生みやすい。
武田教授は、
「書き込んだ本人が特定されれば、損害賠償を求められる可能性もある」
と注意する。
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私はこの記事から、『ツイッター』の世界を多々学び、
『フォロワー』という言葉も初めて教示され、スマートフォンも使えないひとりであり、
この社会の流れに困ったなぁ、とため息を重ねたりした。
日中のひととき、いつものように、近くに流れる野川の川沿いの遊歩道を散策した。
陽だまりの良い処で、白梅の純白の花が七分咲きとなり、
私は立ち止まり、見惚(みと)れたりしている。
こうした時、脳裏から『ツイッター』こそは、
まぎれなく日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』などに最適だ、
と思ったりしたのである・・。
短歌は、もとより五・七・五・七・七の三十一〔みそひと〕文字の世界であり、
万葉の時代から日本の人々に愛されてきた叙情詩であり、
この内容も恋の歌・日常生活の描写・社会問題・子供の成長・物語や幻想まで、
どんなテーマでも自在である、と受け継がれている。
俳句は、五・七・五の三句十七音から成る定型詩であり、
「季語」さえ含めば、内容も自在であり、江戸時代から多くの方に愛されてきている。
そして川柳は、五・七・五の十七音の定型で、
ユーモアに富んだ言葉使い、或いは世の中を風刺した作風で、
江戸時代に発生し、明治時代の頃から、多くの方たち慕われてきた。
このように私は思いながら、『ツイッター』を利用される方たちは、
短歌や俳句の一句を詠まれたり、或いは川柳の一句でも吐くことをされれば、
この上なく日本文化は隆盛し、何よりも当人は更に心が豊かになる、と確信を深めたりした。
尚、私は無念ながら短歌や俳句を詠む素養はなく、
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