私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝、何気なしにカレンダーを見たら、『七草』と明記されていて、思わず微苦笑したりした。
私にとっては、昭和天皇が崩御された朝だった日なので、
私の心情としては遥かに深く愛惜を秘めたりしている・・。
私は朝の七時過ぎに、主庭のテラスに下り立ち、
まばゆい朝の陽射しに向い、思わず両手を合わし、しばらく黙祷をしたのであった。
私の昭和天皇に関しての思いは、このサイトに数多く投稿してきた。
たとえば、一昨年の2009年1月7日のこの日には、
【 昭和天皇が崩御された日を想いだし・・。】
と題して、投稿している。
【・・
私は早朝の薄暗い中、玄関の軒下で煙草を喫っていると、確か昭和天皇が崩御された日だった、と思った・・。
私は1944(昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
天皇家には、何かと敬(うやま)う空気の中で家庭で育ち、
昭和天皇に関しては、私の40代かばまで自己形成、歴史観などで、多大な影響を受けていた。
私は1989(昭和64)年1月7日の朝、昭和天皇が87歳のご高齢で崩御された、
私は出勤の前のNHKのテレビのニュースで視聴した・・。
前年から病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれて、危篤などと報じられていたので、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。
私はいつものように会社に出勤した後、
朝礼の時、上司のひと言で、皇居の方面に向かい、黙祷をしたのである。
私はこの当時、あるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
そして翌日には『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
年号に関して『昭和』から『平成』に変更を要したので、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したりし、慌ただしい日々となっていた。
私は何かしら平成元年といわれるより、昭和64年といった方が心身の波長が合うので、
何かしら戸惑ったのは事実である。
そして昭和に別れを告げ、そして平成の時代を迎えた日本人のひとりとして、
素直に心情を、この後に綴る。
昭和天皇に関しては、多くの日本人と同じように複雑な思いで、
何かと敗戦後から今日まで、つたない身であるが、注視してきた。
私もこのサイトに於いて、昭和天皇に関し、数多く投稿してきた。
【 私なりの『マッカーサー元帥』の想いは・・。 】
と題し、一昨年の2009(平成21)年10月19日に於いて、
敗戦の一年近くの頃の昭和天皇に関して、ふれている。
【・・
小学校の高学年になると、1葉の写真を見た時は、その夜は子供ながら、浅い眠りとなった。
この写真は、天皇陛下の横で悠然とたたずむマッカーサー元帥の姿であった。
そして私の生を受けた9月27日の1年後であったので、
なおさら印象深く、私の心に残った。
読売新聞の『編集手帳』に綴られていたこともあるので、無断であるが引用させて頂く。
《・・
昭和天皇が東京・赤坂の米国大使館にマッカーサー元帥を訪問したのは、
1945年(昭和20年)9月27日であった。
2日後に新聞各紙に写真が残った。
モーニング姿で直立する陛下の隣で、開襟シャツの元帥が腰に両の手を当てて悠然とたたずむ。
勝者と敗者の違いを伝えて、余すところがない。
・・》
私は小学生の頃から、アメリカに対して複雑な思いで1975(昭和50)年を迎えた。
この頃までは、敗戦の間際にソ連が北海道占領プランがあった、
とおぼろげながら何かの本で読んだりしていた。
そして昭和50年のなかば、一冊の本に出会った。
『ドキュメント昭和史』(平凡社・発行)の全8巻を購入し、読み耽っていた。
この中で、第6巻目に《占領時代》を読み、この敗戦直後の状況を教示してくれた。
《・・
日本分割占領案が歴然と存在していた。
各国の国益をかけた外交が行なわれ、最終的にはアメリカのトルーマン大統領の国益の基に、
アメリカ人の連合国司令官の下で統治された。
・・》
この書物のお陰で、アメリカを静観した形で、アメリカを見ることが出来た。
あの敗戦の1年後に近い9月27日は、
陛下と元帥の写真を蘇るたびに、勝者から観た歴史の背景を知り、より一層鮮明な日の想いとなった。
このことと同時に敗戦後の日本の状況が鮮明に、私なりに理解できたのである。
日本の敗戦の1945(昭和20年)年8月15日は、もとより『敗戦記念日』であるが、
国土の大半は戦禍にまみれ、食料、衣料、住宅が国民の大半は困窮していた。
日本は国連軍の名の基にアメリカ軍隊の下で、占領された。
そして、占領軍は連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指令に基づいて、
現行公布されている日本国憲法をはじめ、
農地改革、財閥の解体、要人の追放、言論の弾圧などが実施された。
そして、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の最高責任者はマッカーサー元帥である。
このような占領軍の最高責任者ともなれば、
アメリカ大統領の意向、そしてアメリカ議会の状況、アメリカ国民の世論さえ配慮すれば、
敗戦国の日本などは自在に裁量できる帝王のような存在である。
こうした日本の中の動乱期の折、
米ソの冷戦、中華人民共和国の建国、そして朝鮮戦争の勃発、と各国の怜悧な国益に基づき、歴史は動いた。
このした中で、『対日講和条約』により占領下から独立でき、
朝鮮戦争の特需も含め日本の経済躍動のはじまりが、『対日講和条約』と私は思っている。
『対日講和条約』に関しては、知識人の藤野邦夫氏の言葉を借りれば、
《・・
第二次大戦の末期、日本が降伏勧告の宣言である『ポツダム宣言』を受け入れたのは、
1945(昭和20年)年8月14日。
これによって戦争は終結したが、この宣言には、幾つかの条件と共に、
日本が民主的で平和な政府が出来れば、
直(ただ)ちに占領軍は引き上げるという条項が明記された。
しかしそのあと、アメリカと旧・ソヴィエト連邦の対立が激しくなり、
またアメリカ国内にも、軍事的な目的から占領状態の継続を望む国防省のような勢力があって、
対日講和は進展しなかった。
ところが、1950(昭和25年)年6月に『朝鮮戦争』が勃発。
アメリカは日本を西側の陣営の一員として再建する為、講和条約を早く結ぶ方針の転換した。
こうして1951(昭和26年)年9月8日、
サンフランシスコで、連合国と日本の間の戦争状態の終結を意味する『講和条約』に署名が行われ、
翌年の1952(昭和27年)年4月28日に発効した。
この時の当事国は、45ヶ国。
幾つかの国とは、個別に講和条約が結ばれた。
これは結局、西側諸国を中心とした講和条約であり、
また連合国との協定によってアメリカ軍が駐留を続けたので、
その後の日本の国際的位置が決定づけられた。
・・》
このような日本が激動する中、朝鮮半島は冷戦の大国の怜悧な国益に基づき、
過酷で悲惨な朝鮮戦争が行われていた。
私は高校生の時から好きで、教科書、雑誌、歴史書などで学び、
同じ民族の北朝鮮と韓国がお互いの半島地域を戦場を大国のもくろみで、
ローラーように南進したり、北進したりする戦争状況を余りにも過酷過ぎると思ったりしていたのである。
もとより韓国の強い背景となったのは、国連軍と称したアメリカ軍であり、
最高司令官に任命されたのはマッカーサーである。
そして中華人民共和国の大軍が半島になだれ込み、
結果として劣勢になったマッカーサーは中華人民共和国の本土に原子爆弾を落とす決意をするのであるが、
時のアメリカ大統領からマッカーサーは解任される。
こうしたことは高校生で学んだのであるが、
私は何よりも太平洋戦争のフィリンピンの統治下で日本軍の襲来で撤退、
そして日本の敗戦後の占領軍として、その後の朝鮮戦争の原子爆弾を落とす決意など含め、
マッカーサー自身の軌跡、思い、周辺の状況を知りたくて、
数多くの本を読んだりして、今日に至っている。
・・】
そして、かの大戦で敗戦となり、これらの私なりの心情を、
【 64回目の『敗戦記念日』に際して・・。 】
と題して、投稿している。
【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の64歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは早朝の5時過ぎであった。
私は昭和19年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
敗戦となった8月15日からは、ほぼ一年前になるが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そしてこの8月15日は、
たった一枚の赤紙と称せられた召集令状で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方達、
そして戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
そして、私はここ3年に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌を重ねたりしている。
国のため いのちささげし
人々の ことを思えば 胸せまりくる
昭和天皇
戦なき 世を歩みきて
思ひ出づ かの難き日を 生きし人々
平成天皇
私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代の歳月に思いを馳せ、鎮魂曲のような感じている。
この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、詠まれた伝えられている。
平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、
と報じられていた。
そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17)年の9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と何かの新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを馳せたりしているのである。
私は毎年、『全国戦没者追悼式』が執り行われている中、
私はテレビを見ていて『黙祷・・!』の声を聴くと、
思わず襟を正し、黙祷をした後、しばらくするとこのふたつの歌を思い重ねている。
尚、私は8月15日は、『終戦記念日』と、どなたが名付けたかは無知であるが、
国際間の怜悧な視線からは、まぎれなく敗戦である。
都合よく『終戦』と命名された方たちは、
国際各国から観た場合は、国家としての信義にかかわることであるので、
命名された方たちは、余りにも恥知らずと思ったりしながら、
私は無念ながら『敗戦記念日』と思っているひとりである。
・・】
このように私なりのささやかな昭和天皇に関しての思いなどがある。
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