私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の66歳の身であるが、
先ほど、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
《 新潟・妙高市で唐辛子の雪さらし、児童も体験 》
と題された記事を読みながら、掲載されている写真を眺めたりした・・。
無断であるが、この記事を転載させて頂く。
《・・
新潟県妙高市で、特産の香辛料「かんずり」造りのため、
原料の唐辛子を雪の上にさらす作業が本格化し、26日は地元の小学生も助っ人に加わった。
塩漬けにした唐辛子を3、4日雪上にさらすことで軟らかくなり、アクが抜けるという。
細かく砕いてこうじとユズ、塩を加え、3年間熟成させてまろやかな辛みに仕上げる。
地元では鍋ものや焼き鳥などに定番の薬味となっている。
この日は地場産業を学ぶため、同市立新井小学校の3年生約60人が作業を体験。
児童たちは、製造会社の指導を受けながら、唐辛子を丁寧にまいた。
井田理子さん(9)は
「初めてだったが、楽しかった」と話した。
作業は3月初旬まで続く。
(2011年1月26日17時25分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090128-945713/news/20110126-OYT1T00500.htm
☆【YOMIURI ONLINE】《新潟・妙高市で唐辛子の雪さらし、児童も体験》☆
私は東京郊外の調布市で農家の三男坊として1944(昭和19)年に生を受け、
この時節、幼年期には雪が降ることが多かった。
この当時は駅前から少し外れると、田畑が圧倒的に広がり、雑木林、竹林などがあり、
その中の一角に宅地があり、人々の生活が営(いと)まれてきた・・。
祖父、父も健在であったので、程々広さのある田畑を耕して、
多忙期には小作人の手伝いを受けながらも農家をしていた。
この頃の時代は、冬の時節はよく雪が降ったりした。
多分、30センチ、厳しい時は50センチぐらいであった、と想いだしている。
今回、新潟県の妙高地域の『唐辛子の雪さらし』情景を拝見したが、
私の住む地域では、幼児の頃を思い馳せても記憶はないが、
唐辛子を現世で表現すると、
使い捨てのカイロのホカロンのように使用していたことが思い出された・・。
私が1952(昭和27)年は、小学1年の三学期であったが、
私は雪が降ると、いつものように木綿の薄い靴下であり、登校の時にはゴムの長靴を穿き、
靴の中に、冬の時節に限り稲藁(イネワラ)を敷いていたのであるが、
父の妹の叔母が、寒いからねぇ、と赤い唐辛子を三つぐらい入れくた。
そして番傘を差して登校した。
何時もの村道を避けて、真っ白になった畑の中を直進して、
徒歩15分程を歩いたりした。
ある時は風が吹き、雪にまみれながら登校し、学校に何とか着いた時は、
学友達の校門の付近でお互いの健闘をたたえながら、
『よく・・来られたなぁ・・』
とふざけあったりした。
こうした時、番傘は少し破れて、帰宅後、母、叔母たちに怒られたりした。
その後、小学校を卒業した1956(昭和32)年頃になると、
この地域は雪が降りそそいでも15センチぐらいとなり、降る回数も少なくなり、
ゴムの長靴の中は、藁(ワラ)を敷かなくなり、唐辛子も入れなくなった。
その代わりに、厚手の靴下などに変貌したのである。
恥ずかしながら、私は唐辛子は調味料よりも、
雪が降る寒いときのゴム長靴の中で、何故かしら暖かくなる不思議なものとして、
愛用していた記憶が鮮明なのである・・。
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《 新潟・妙高市で唐辛子の雪さらし、児童も体験 》
と題された記事を読みながら、掲載されている写真を眺めたりした・・。
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《・・
新潟県妙高市で、特産の香辛料「かんずり」造りのため、
原料の唐辛子を雪の上にさらす作業が本格化し、26日は地元の小学生も助っ人に加わった。
塩漬けにした唐辛子を3、4日雪上にさらすことで軟らかくなり、アクが抜けるという。
細かく砕いてこうじとユズ、塩を加え、3年間熟成させてまろやかな辛みに仕上げる。
地元では鍋ものや焼き鳥などに定番の薬味となっている。
この日は地場産業を学ぶため、同市立新井小学校の3年生約60人が作業を体験。
児童たちは、製造会社の指導を受けながら、唐辛子を丁寧にまいた。
井田理子さん(9)は
「初めてだったが、楽しかった」と話した。
作業は3月初旬まで続く。
(2011年1月26日17時25分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090128-945713/news/20110126-OYT1T00500.htm
☆【YOMIURI ONLINE】《新潟・妙高市で唐辛子の雪さらし、児童も体験》☆
私は東京郊外の調布市で農家の三男坊として1944(昭和19)年に生を受け、
この時節、幼年期には雪が降ることが多かった。
この当時は駅前から少し外れると、田畑が圧倒的に広がり、雑木林、竹林などがあり、
その中の一角に宅地があり、人々の生活が営(いと)まれてきた・・。
祖父、父も健在であったので、程々広さのある田畑を耕して、
多忙期には小作人の手伝いを受けながらも農家をしていた。
この頃の時代は、冬の時節はよく雪が降ったりした。
多分、30センチ、厳しい時は50センチぐらいであった、と想いだしている。
今回、新潟県の妙高地域の『唐辛子の雪さらし』情景を拝見したが、
私の住む地域では、幼児の頃を思い馳せても記憶はないが、
唐辛子を現世で表現すると、
使い捨てのカイロのホカロンのように使用していたことが思い出された・・。
私が1952(昭和27)年は、小学1年の三学期であったが、
私は雪が降ると、いつものように木綿の薄い靴下であり、登校の時にはゴムの長靴を穿き、
靴の中に、冬の時節に限り稲藁(イネワラ)を敷いていたのであるが、
父の妹の叔母が、寒いからねぇ、と赤い唐辛子を三つぐらい入れくた。
そして番傘を差して登校した。
何時もの村道を避けて、真っ白になった畑の中を直進して、
徒歩15分程を歩いたりした。
ある時は風が吹き、雪にまみれながら登校し、学校に何とか着いた時は、
学友達の校門の付近でお互いの健闘をたたえながら、
『よく・・来られたなぁ・・』
とふざけあったりした。
こうした時、番傘は少し破れて、帰宅後、母、叔母たちに怒られたりした。
その後、小学校を卒業した1956(昭和32)年頃になると、
この地域は雪が降りそそいでも15センチぐらいとなり、降る回数も少なくなり、
ゴムの長靴の中は、藁(ワラ)を敷かなくなり、唐辛子も入れなくなった。
その代わりに、厚手の靴下などに変貌したのである。
恥ずかしながら、私は唐辛子は調味料よりも、
雪が降る寒いときのゴム長靴の中で、何故かしら暖かくなる不思議なものとして、
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