私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接している調布市の片隅に住み、
年金生活の66歳の身であるが、結婚した5年間前後を除き、60年ばかり住んでいることになる。
私は1944(昭和19)年の秋に農家の三男坊として生を受け、
地元の小学校に入学したのは1951(昭和26)年の春であった。
この当時の情景は、京王腺の各駅の最寄には商店街はあったが、
5分ぐらい歩けば、
圧倒的に畑が広がり、そして田んぼも多く、竹林、雑木林が見られる情景であった。
ケヤキ、コナラ、クヌギをはじめ、イチョウ、ウメ、サクラ、モミジなど樹木が多く、
緑豊かな里の地であった。
そして、1955(昭和30)年の頃になると、都心のベットタウンに変貌しはじめて、
田畑、竹林、雑木林などが激減し、急速に住宅街となり、大きな団地も幾重にも完成し、住民も急増した。
このように急激に移り変わる状況に、ときおり私は戸惑ったりしていた。
私が定年退職後に散策したりしていると、
小学、中学校の通学路、駅の周辺などは、50年過ぎても、原風景を見いだすこともでき、
懐かしさの余り、あちらこちら歩き廻ったりしてきた。
しかし、脇道を歩き廻ると、新たなる最新の一戸建てが並ぶ住宅街、
或いは、大きなマンションに行き当たったりした。
そして、ときには小、中学時代の交友の少なかった同級生の実家が見えたりし、
ここだったのか、と私は微苦笑させられたりした。
私の少年期の1955(昭和30)年、調布町と神代町が合併して調布市となったのは、
もとより知っていて、通学した小、中学校の管轄下だった旧・神代町だった地域は、
殆ど知っているつもりであったが、
このような旅先の未知の世界を学ぶように、旧・神代町の街並みを歩き廻りながら、
知らなかったょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、散策することもある。
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この当時の情景は、京王腺の各駅の最寄には商店街はあったが、
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圧倒的に畑が広がり、そして田んぼも多く、竹林、雑木林が見られる情景であった。
ケヤキ、コナラ、クヌギをはじめ、イチョウ、ウメ、サクラ、モミジなど樹木が多く、
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そして、1955(昭和30)年の頃になると、都心のベットタウンに変貌しはじめて、
田畑、竹林、雑木林などが激減し、急速に住宅街となり、大きな団地も幾重にも完成し、住民も急増した。
このように急激に移り変わる状況に、ときおり私は戸惑ったりしていた。
私が定年退職後に散策したりしていると、
小学、中学校の通学路、駅の周辺などは、50年過ぎても、原風景を見いだすこともでき、
懐かしさの余り、あちらこちら歩き廻ったりしてきた。
しかし、脇道を歩き廻ると、新たなる最新の一戸建てが並ぶ住宅街、
或いは、大きなマンションに行き当たったりした。
そして、ときには小、中学時代の交友の少なかった同級生の実家が見えたりし、
ここだったのか、と私は微苦笑させられたりした。
私の少年期の1955(昭和30)年、調布町と神代町が合併して調布市となったのは、
もとより知っていて、通学した小、中学校の管轄下だった旧・神代町だった地域は、
殆ど知っているつもりであったが、
このような旅先の未知の世界を学ぶように、旧・神代町の街並みを歩き廻りながら、
知らなかったょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、散策することもある。
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