私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の66歳の身であるが、
過日の朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んだりしていた・・。
特集のひとつとして、【本よみうり堂】があり、
この中のひとつとして、【ポケットに1冊】と題された小さな記事があり、
最近に発刊された文庫本から一冊を選定し、書評のようなコラム記事が掲載されている。
今回、取り上げられていた文庫本は、
昨年の大晦日に逝去が公表された亡き高峰秀子・著の『わたしの渡世日記』の文庫本であった。
この記事と同一が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
掲載されて折、
無断ながら、転載させて頂く。
《・・
『わたしの渡世日記』 高峰秀子著
先頃亡くなった名女優が、波乱の半生をからりとつづった日本エッセイスト・クラブ賞受賞作である。
これが実に面白い。
実父との離別、養母との確執、養父・東海林太郎との別れ……。
華やかな銀幕の世界とはうらはらの苦しい胸の内も赤裸々に語られているが、とにかく前向きなのである。
初潮を見て、「お尻がやぶれた!」と叫んだ少女時代、
青年・黒澤明との初恋、
子役の仕事で忙しく、小学校にすらまともに通わなかった自分が「二十四の瞳」で先生役をする際、化けきれるか、
ずっと不安だったという思いなどが、あっけらかんとつづられていく。
〈名優だ、大スターだといわれたところで、しょせんは一つの作品を作るための一個の道具〉。
冷めた目で映画黄金時代の表裏をつづった内容も実に興味深い。
何より文章がいい。
巨匠・小津安二郎の風貌をこう描く。
〈私の皮膚を突き破って内臓まで見通すような、脳ミソの重さまで計るような、奥深い目〉。
達意といってよい。
(文春文庫、上下各762円)(飼)
(2011年1月19日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
http://www.yomiuri.co.jp/book/column/pocket/20110118-OYT8T00666.htm
☆【YOMIURI ONLINE】==>【本よみうり堂】==>【ポケットに1冊】 『わたしの渡世日記』 高峰秀子著 ☆
私は高峰秀子さまの映画に出演された多彩な多くの作品を観賞してきて、
そして数多く綴られた随筆の本も愛読してきたが、何故かしら肝要の『わたしの渡世日記』は、
見逃し、未読となっていた。
今回、この記事を読みながら、
《・・
子役の仕事で忙しく、小学校にすらまともに通わなかった自分が「二十四の瞳」で先生役をする際、化けきれるか、
ずっと不安だったという思い・・》
このような高峰秀子さまが心の発露をされた、
と知ると、私は読みたくなった・・。
この後、私は駅前の本屋に寄ったりして、この文庫本を探したが、
品切れであり、あちらこちらの本屋をめぐり、19日の夕暮れに買い求めることができたのである。
そして、私は読みはじめたあるが、綴られた内容に映画に出演された作品に思いを重ねたり、
行間から高峰秀子さまの深淵の思いを感じにながら、読んだりしていると、
中々次のページに進まないのが本音である。
これまでの私の高峰秀子さまの思いは、このサイトに於いても、多く投稿しているが、
最新の投稿文をあえて、再掲載をする。
【 高峰秀子さまの逝去に関して、玄人(くろうと)のプロの綴り、そして素人(しろうと)の綴り・・。】
と題して、1月6日に投稿している。
【・・
昨夜、読売新聞の夕刊を見て、やはり文章を綴られる玄人のプロの綴りに感心させられたのである。
昨年の12月28日に高峰秀子さまの逝去され、公表されたのは31日の大晦日の夜の6時過ぎであり、
この件に関して、一面の左下段にある【よみうり寸評】で採り上げられていた・・。
この記事と同一に読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されているので、
無断ながら転載させて頂く。
《・・
1月5日付 よみうり寸評
〈女優・高峰秀子さんが三ヶ月ほど前に死去していたことが判明した〉――「私の死亡記事」(文芸春秋刊)で高峰さん自身が書いている
〈生前「葬式は無用、戒名も不要。人知れずひっそりと逝きたい」と言っていた。
その想いを見事に実践したようだ〉と続く
その訃報が現実になったのが悲しい。
雪で越年したところの多かった元日の朝刊でそれは報じられた。
さすがに「三ヶ月ほど前」ではなく12月28日の死去だったが、昭和を代表する名女優の死と降る雪に昭和も遠くなりにけりと思った
1924年、北海道函館市に生まれ、5歳で松竹映画「母」で子役デビュー。
戦前の「馬」「綴方(つづりかた)教室」、戦後の映画黄金期に「二十四の瞳」「浮雲」……
激動の昭和とともに子役から名女優への道を歩んで86歳。
「葬式無用。生者は死者の為に煩わさるべからず」は親交の深かった梅原龍三郎画伯に学んだようだ
才気あふれるエッセーで「夫・ドッコイ」と表現した夫君松山善三氏の悲しみ寂しさは察するに余りある。
(2011年1月5日13時50分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
この記事を読み終わった時、私はやられた、と感じたのである。
綴られた切り口に『私の死亡記事』(2000年12月発刊、文芸春秋)であり、
各界の著名人が自らの「死亡記事」を執筆される異色な本で、
この中のひとつとして高峰秀子さまも綴られていたのを採り上げられていたのである。
この当時、私も愛読したひとりであり、今回の訃報後、私は唖然としたり、動顚していたので、
すっかり忘れていたのが、本音である。
私は若き日に於いて、大学を中退して、映画、文学青年の真似事をしたこともあるので、
今回の高峰秀子さまの逝去に際して、
公表された31日の大晦日の夜の6時過ぎの翌日の元旦の午後のひととき、
涙ぐみながら、このサイトに投稿文を綴ったのである。
【・・
高峰秀子さまの訃報に接し、私は呆然としながら、ただ御冥福を祈りながら・・。
2011-01-01 16:49:52
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
昨日の昼下り、古本屋、本屋に寄り6冊の本を抱えながら、川沿いの遊歩道を歩いた。
冬晴れの陽射しの中、人影も少ないのどかな遊歩道を歩き、
梅園だった片隅に残された三本の白梅は、昼下りの陽射しを受けて、たわわな莟(つぼみ)の中に、
ひっそりと10数輪咲いて折、私は思わず立ち止まり、しばらく眺めたりした・・。
帰宅後、買い求めた中の一冊の文藝春秋SPECIAL『この国で死ぬということ』(平成23年季刊冬号)を読んだりし、
夜の6時半過ぎに、ネットでニュースを見ようと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、
高峰秀子さん死去、ニュースに私は呆然とした・・。
私は昨年の2010(平成22)年の4月初旬、
斎藤明美・著の『高峰秀子の流儀』(新潮社)を読みながら、
やはり斎藤明美・著の『高峰秀子の捨てられない荷物』(文春文庫)も読んでいたので、
高峰秀子さまは心身ご健在と安堵したひとりであった。
私は高峰秀子さんを敬愛するひとりであり、
映画の作品はもとより、高峰秀子さんご自身が綴られた随筆を数多く愛読してきた。
こうした思いもあり、私は幾たびか高峰秀子さんに関して、投稿文を重ねている。
今回、私は呆然としているばかりなので、
あるサイトに2008年1月2日に於いて、
【 愛(いと)しき人は、初夢でお逢いし・・♪ 】と題して投稿しているので、
ご冥福を祈りながら、あえて掲載する。
【・・
私は齢を重ねた63歳の身であるが、
日頃から、心に残った時は夢の中でも見ることのできるひとりである。
ときには、思いが強ければ強いほど、
映画の3本立てなどのように夢の続きを見る時もある。
大晦日のひととき、高峰秀子・著の『おいしい人間』(文春文庫)を読み始め、
昨夜の9時過ぎに布団にもぐり、続きを読んだりしたが、
途中で眠ってしまった。
深夜の12時半過ぎに目覚めて、
本を開いて、2時半過ぎに読了したのである。
この間に寝付いている時、著作者の高峰秀子が遠い縁の叔母のように、
夢の中で出て、私なりに少し困惑し、
そして嬉しげに私は逢い、言葉を交わしたりした・・。
私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催時であったが、
映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。
戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの昭和の20年までの名作を観ることが出来たのである。
この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子の存在を実感させられた。
私はこの当時の1964年に於いては、
少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、
木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。
そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。
私は女優の高峰秀子の存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。
子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、
私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。
その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三には、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていたのである。
高峰秀子が第一線の映画界を引退された頃は、
私は中小企業のサラリーマンに身を投じて、家庭を持ち、気負いながら世間の空気を吸ったりしていた。
いつの日が忘れてしまったが、本屋の店頭で、
このお方の本にめぐり逢い、数冊の随筆集を購入した・・。
多分、『わたしの渡世日記』、『台所のオーケスラ』、『にんげんのおへそ』と思われる単行本であったが、
殆ど本の読まない今は亡き家内の父は、高峰秀子のファンのひとりとして知り、
松竹の蒲田時代のエピソードを教えて頂いたので、
この単行本を差し上げたのである。
このような形でこのお方の随筆集が発刊されるたびに購入し、
そして現代に至っている。
深夜のひとときは、おかしな夢であった。
なぜか私の近くにある程度の高級マンション20数棟があり、
広大な敷地内の庭園が拡がっている・・。
この中の一角の300坪前後にテーブルが10数卓あり、
コックの3人を陣頭指揮をされているのが、
50歳前後の容姿をされている高峰秀子・女史であった。
どうして女史がこの庭園にと思いながら、私は近づいたのである・・。
『あぁ・・あなた・・今、招待した人達のお料理の真っ最中なの・・
うちの旦那・・あちらにいるから・・
手持ちぶたさなので、話相手になってょ・・』
と女史は私に云った。
私は庭の外れの大きな樹木の下で、
退屈そうに椅子に座っている松山善三の姿が判ったが、
私と同年輩の容姿に私は驚いた・・。
テーブルに古伊万里の徳利があり、
備前のぐい呑みのちぐはぐな取り合わせで呑まれていたが、
『あぁ・・よかったょ・・
XXちゃん、こんどのシナリオ・・構成が弱くて・・聞いてくれる?・・』
と私に話し込むであった。
私は戸惑いながら、椅子に座った・・。
このような夢であった・・。
私は若き映画青年の真似事した時代、
東宝の撮影所に幾たびか通い、ある日宣伝部の方と話し合っていた時、
たまたま高峰秀子がこちらに向かって来た時があった。
宣伝部の方が飛び出て、
『この青年・・大学を中退し、この世界に・・』
と話されていた・・。
『こんにちは・・でも・・もったいないわ・・大学をお辞(や)めになるなんて・・
でもねぇ・・大変ょ・・この世界は・・』
と大女優は私に云った。
私はこの大女優であった高峰秀子とは、
初めてお逢いでき、これ以降、40数年お逢いしたことがなく、
多分、今後も逢えることがないと思われる。
古人から一期一会、と名言があるが、
私のこのお方とのさりげない出会いを、今でも人生のひとこまとしながらも、
天上の女神のひとりとして、大切に心に留めている。
・・】
このように投稿しているが、高峰秀子さんの圧倒的な存在感は、
昭和4(1929)年に子役として出演された後、
昭和のそれぞれの時代を代表する映画作品で私達の映画ファンを感動させ、
昭和54(1979)年に惜まれながら、いさぎよく引退されたことである。
そして女優さん出身として、たぐい稀なエッセイの数々を綴られ、私達の読書ファンに感銘させ、
たんたんと人生の晩期を過ごされたことである。
私は高峰秀子さんの人生の軌跡を学ぶたびに、敬愛させられ、
今回、訃報に接し、
長年に於いて私達を数多く教示して下さり・・お疲れさまでした、
と私は思わず黙祷をしている。
・・】
そして新聞、テレビのニュースで三が日に報じられたが、
私は購読している読売新聞、ネットで毎日新聞などを見た限りの数多くの記事に関して、
文章を綴られる玄人のプロの綴りにしては、高峰秀子さんへの思いは浅く、浮ついた発言や、
愛惜感ある深淵の発露が不足している、と私は苦笑していたのである。
今回の【よみうり寸評】に関しては、5日の夕刊に掲載されていたので、
5日の午前中までに綴られた記事と思え、後追いは有利とされるが、
この分を差引いて、やはり文章を綴られる玄人の綴りと私は感心させられたのである。
・・】
このように私の思いを綴っている。
今回の『わたしの渡世日記』の初出は、『週刊朝日』に於いて、
1975(昭和50)年5月23日号~11月14日号に掲載された随筆の作品であり、
昭和4(1929)年に子役として出演された後、
昭和のそれぞれの時代を代表する映画作品で私達の映画ファンを感動させ、
昭和54(1979)年に惜まれながら、いさぎよく引退された後の随筆であるので、
もとより心情が深く発露されている、と私は感じながら、ただいま読書中である。
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過日の朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んだりしていた・・。
特集のひとつとして、【本よみうり堂】があり、
この中のひとつとして、【ポケットに1冊】と題された小さな記事があり、
最近に発刊された文庫本から一冊を選定し、書評のようなコラム記事が掲載されている。
今回、取り上げられていた文庫本は、
昨年の大晦日に逝去が公表された亡き高峰秀子・著の『わたしの渡世日記』の文庫本であった。
この記事と同一が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
掲載されて折、
無断ながら、転載させて頂く。
《・・
『わたしの渡世日記』 高峰秀子著
先頃亡くなった名女優が、波乱の半生をからりとつづった日本エッセイスト・クラブ賞受賞作である。
これが実に面白い。
実父との離別、養母との確執、養父・東海林太郎との別れ……。
華やかな銀幕の世界とはうらはらの苦しい胸の内も赤裸々に語られているが、とにかく前向きなのである。
初潮を見て、「お尻がやぶれた!」と叫んだ少女時代、
青年・黒澤明との初恋、
子役の仕事で忙しく、小学校にすらまともに通わなかった自分が「二十四の瞳」で先生役をする際、化けきれるか、
ずっと不安だったという思いなどが、あっけらかんとつづられていく。
〈名優だ、大スターだといわれたところで、しょせんは一つの作品を作るための一個の道具〉。
冷めた目で映画黄金時代の表裏をつづった内容も実に興味深い。
何より文章がいい。
巨匠・小津安二郎の風貌をこう描く。
〈私の皮膚を突き破って内臓まで見通すような、脳ミソの重さまで計るような、奥深い目〉。
達意といってよい。
(文春文庫、上下各762円)(飼)
(2011年1月19日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
http://www.yomiuri.co.jp/book/column/pocket/20110118-OYT8T00666.htm
☆【YOMIURI ONLINE】==>【本よみうり堂】==>【ポケットに1冊】 『わたしの渡世日記』 高峰秀子著 ☆
私は高峰秀子さまの映画に出演された多彩な多くの作品を観賞してきて、
そして数多く綴られた随筆の本も愛読してきたが、何故かしら肝要の『わたしの渡世日記』は、
見逃し、未読となっていた。
今回、この記事を読みながら、
《・・
子役の仕事で忙しく、小学校にすらまともに通わなかった自分が「二十四の瞳」で先生役をする際、化けきれるか、
ずっと不安だったという思い・・》
このような高峰秀子さまが心の発露をされた、
と知ると、私は読みたくなった・・。
この後、私は駅前の本屋に寄ったりして、この文庫本を探したが、
品切れであり、あちらこちらの本屋をめぐり、19日の夕暮れに買い求めることができたのである。
そして、私は読みはじめたあるが、綴られた内容に映画に出演された作品に思いを重ねたり、
行間から高峰秀子さまの深淵の思いを感じにながら、読んだりしていると、
中々次のページに進まないのが本音である。
これまでの私の高峰秀子さまの思いは、このサイトに於いても、多く投稿しているが、
最新の投稿文をあえて、再掲載をする。
【 高峰秀子さまの逝去に関して、玄人(くろうと)のプロの綴り、そして素人(しろうと)の綴り・・。】
と題して、1月6日に投稿している。
【・・
昨夜、読売新聞の夕刊を見て、やはり文章を綴られる玄人のプロの綴りに感心させられたのである。
昨年の12月28日に高峰秀子さまの逝去され、公表されたのは31日の大晦日の夜の6時過ぎであり、
この件に関して、一面の左下段にある【よみうり寸評】で採り上げられていた・・。
この記事と同一に読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されているので、
無断ながら転載させて頂く。
《・・
1月5日付 よみうり寸評
〈女優・高峰秀子さんが三ヶ月ほど前に死去していたことが判明した〉――「私の死亡記事」(文芸春秋刊)で高峰さん自身が書いている
〈生前「葬式は無用、戒名も不要。人知れずひっそりと逝きたい」と言っていた。
その想いを見事に実践したようだ〉と続く
その訃報が現実になったのが悲しい。
雪で越年したところの多かった元日の朝刊でそれは報じられた。
さすがに「三ヶ月ほど前」ではなく12月28日の死去だったが、昭和を代表する名女優の死と降る雪に昭和も遠くなりにけりと思った
1924年、北海道函館市に生まれ、5歳で松竹映画「母」で子役デビュー。
戦前の「馬」「綴方(つづりかた)教室」、戦後の映画黄金期に「二十四の瞳」「浮雲」……
激動の昭和とともに子役から名女優への道を歩んで86歳。
「葬式無用。生者は死者の為に煩わさるべからず」は親交の深かった梅原龍三郎画伯に学んだようだ
才気あふれるエッセーで「夫・ドッコイ」と表現した夫君松山善三氏の悲しみ寂しさは察するに余りある。
(2011年1月5日13時50分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
この記事を読み終わった時、私はやられた、と感じたのである。
綴られた切り口に『私の死亡記事』(2000年12月発刊、文芸春秋)であり、
各界の著名人が自らの「死亡記事」を執筆される異色な本で、
この中のひとつとして高峰秀子さまも綴られていたのを採り上げられていたのである。
この当時、私も愛読したひとりであり、今回の訃報後、私は唖然としたり、動顚していたので、
すっかり忘れていたのが、本音である。
私は若き日に於いて、大学を中退して、映画、文学青年の真似事をしたこともあるので、
今回の高峰秀子さまの逝去に際して、
公表された31日の大晦日の夜の6時過ぎの翌日の元旦の午後のひととき、
涙ぐみながら、このサイトに投稿文を綴ったのである。
【・・
高峰秀子さまの訃報に接し、私は呆然としながら、ただ御冥福を祈りながら・・。
2011-01-01 16:49:52
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
昨日の昼下り、古本屋、本屋に寄り6冊の本を抱えながら、川沿いの遊歩道を歩いた。
冬晴れの陽射しの中、人影も少ないのどかな遊歩道を歩き、
梅園だった片隅に残された三本の白梅は、昼下りの陽射しを受けて、たわわな莟(つぼみ)の中に、
ひっそりと10数輪咲いて折、私は思わず立ち止まり、しばらく眺めたりした・・。
帰宅後、買い求めた中の一冊の文藝春秋SPECIAL『この国で死ぬということ』(平成23年季刊冬号)を読んだりし、
夜の6時半過ぎに、ネットでニュースを見ようと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、
高峰秀子さん死去、ニュースに私は呆然とした・・。
私は昨年の2010(平成22)年の4月初旬、
斎藤明美・著の『高峰秀子の流儀』(新潮社)を読みながら、
やはり斎藤明美・著の『高峰秀子の捨てられない荷物』(文春文庫)も読んでいたので、
高峰秀子さまは心身ご健在と安堵したひとりであった。
私は高峰秀子さんを敬愛するひとりであり、
映画の作品はもとより、高峰秀子さんご自身が綴られた随筆を数多く愛読してきた。
こうした思いもあり、私は幾たびか高峰秀子さんに関して、投稿文を重ねている。
今回、私は呆然としているばかりなので、
あるサイトに2008年1月2日に於いて、
【 愛(いと)しき人は、初夢でお逢いし・・♪ 】と題して投稿しているので、
ご冥福を祈りながら、あえて掲載する。
【・・
私は齢を重ねた63歳の身であるが、
日頃から、心に残った時は夢の中でも見ることのできるひとりである。
ときには、思いが強ければ強いほど、
映画の3本立てなどのように夢の続きを見る時もある。
大晦日のひととき、高峰秀子・著の『おいしい人間』(文春文庫)を読み始め、
昨夜の9時過ぎに布団にもぐり、続きを読んだりしたが、
途中で眠ってしまった。
深夜の12時半過ぎに目覚めて、
本を開いて、2時半過ぎに読了したのである。
この間に寝付いている時、著作者の高峰秀子が遠い縁の叔母のように、
夢の中で出て、私なりに少し困惑し、
そして嬉しげに私は逢い、言葉を交わしたりした・・。
私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催時であったが、
映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。
戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの昭和の20年までの名作を観ることが出来たのである。
この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子の存在を実感させられた。
私はこの当時の1964年に於いては、
少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、
木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。
そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。
私は女優の高峰秀子の存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。
子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、
私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。
その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三には、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていたのである。
高峰秀子が第一線の映画界を引退された頃は、
私は中小企業のサラリーマンに身を投じて、家庭を持ち、気負いながら世間の空気を吸ったりしていた。
いつの日が忘れてしまったが、本屋の店頭で、
このお方の本にめぐり逢い、数冊の随筆集を購入した・・。
多分、『わたしの渡世日記』、『台所のオーケスラ』、『にんげんのおへそ』と思われる単行本であったが、
殆ど本の読まない今は亡き家内の父は、高峰秀子のファンのひとりとして知り、
松竹の蒲田時代のエピソードを教えて頂いたので、
この単行本を差し上げたのである。
このような形でこのお方の随筆集が発刊されるたびに購入し、
そして現代に至っている。
深夜のひとときは、おかしな夢であった。
なぜか私の近くにある程度の高級マンション20数棟があり、
広大な敷地内の庭園が拡がっている・・。
この中の一角の300坪前後にテーブルが10数卓あり、
コックの3人を陣頭指揮をされているのが、
50歳前後の容姿をされている高峰秀子・女史であった。
どうして女史がこの庭園にと思いながら、私は近づいたのである・・。
『あぁ・・あなた・・今、招待した人達のお料理の真っ最中なの・・
うちの旦那・・あちらにいるから・・
手持ちぶたさなので、話相手になってょ・・』
と女史は私に云った。
私は庭の外れの大きな樹木の下で、
退屈そうに椅子に座っている松山善三の姿が判ったが、
私と同年輩の容姿に私は驚いた・・。
テーブルに古伊万里の徳利があり、
備前のぐい呑みのちぐはぐな取り合わせで呑まれていたが、
『あぁ・・よかったょ・・
XXちゃん、こんどのシナリオ・・構成が弱くて・・聞いてくれる?・・』
と私に話し込むであった。
私は戸惑いながら、椅子に座った・・。
このような夢であった・・。
私は若き映画青年の真似事した時代、
東宝の撮影所に幾たびか通い、ある日宣伝部の方と話し合っていた時、
たまたま高峰秀子がこちらに向かって来た時があった。
宣伝部の方が飛び出て、
『この青年・・大学を中退し、この世界に・・』
と話されていた・・。
『こんにちは・・でも・・もったいないわ・・大学をお辞(や)めになるなんて・・
でもねぇ・・大変ょ・・この世界は・・』
と大女優は私に云った。
私はこの大女優であった高峰秀子とは、
初めてお逢いでき、これ以降、40数年お逢いしたことがなく、
多分、今後も逢えることがないと思われる。
古人から一期一会、と名言があるが、
私のこのお方とのさりげない出会いを、今でも人生のひとこまとしながらも、
天上の女神のひとりとして、大切に心に留めている。
・・】
このように投稿しているが、高峰秀子さんの圧倒的な存在感は、
昭和4(1929)年に子役として出演された後、
昭和のそれぞれの時代を代表する映画作品で私達の映画ファンを感動させ、
昭和54(1979)年に惜まれながら、いさぎよく引退されたことである。
そして女優さん出身として、たぐい稀なエッセイの数々を綴られ、私達の読書ファンに感銘させ、
たんたんと人生の晩期を過ごされたことである。
私は高峰秀子さんの人生の軌跡を学ぶたびに、敬愛させられ、
今回、訃報に接し、
長年に於いて私達を数多く教示して下さり・・お疲れさまでした、
と私は思わず黙祷をしている。
・・】
そして新聞、テレビのニュースで三が日に報じられたが、
私は購読している読売新聞、ネットで毎日新聞などを見た限りの数多くの記事に関して、
文章を綴られる玄人のプロの綴りにしては、高峰秀子さんへの思いは浅く、浮ついた発言や、
愛惜感ある深淵の発露が不足している、と私は苦笑していたのである。
今回の【よみうり寸評】に関しては、5日の夕刊に掲載されていたので、
5日の午前中までに綴られた記事と思え、後追いは有利とされるが、
この分を差引いて、やはり文章を綴られる玄人の綴りと私は感心させられたのである。
・・】
このように私の思いを綴っている。
今回の『わたしの渡世日記』の初出は、『週刊朝日』に於いて、
1975(昭和50)年5月23日号~11月14日号に掲載された随筆の作品であり、
昭和4(1929)年に子役として出演された後、
昭和のそれぞれの時代を代表する映画作品で私達の映画ファンを感動させ、
昭和54(1979)年に惜まれながら、いさぎよく引退された後の随筆であるので、
もとより心情が深く発露されている、と私は感じながら、ただいま読書中である。
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