夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

避難には様々な形があり、もっと気軽に避難しよう、高齢者の私は学び、やがて私たち夫婦の避難体験を思い馳せ・・。

2019-10-12 01:43:22 | ささやかな古稀からの思い

昨夜パソコンを立ち上げて、ヤフー・ジャパンのライフ記事を見ている中、
『 避難勧告・指示は「避難所に行け」という意味ではない(台風19号に備えて)
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市の片隅みに住んでいる年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、 程ほど貯金を取り崩しながらささやかに過ごしている。

こうした中、天気情報が大型で猛烈な台風19号は、非常に強い勢力を保ったまま、
12日(土)の午後に関東から東海にかなり接近、上陸する可能性が高くなってきました、
と11日の夕方に報じられていた。

何かと愚図の私でも、懐中電灯など入った我が家の避難袋の中身を確認したりした。
そして台風が過ぎ去った後は、各地で少し強めの雨が降りました、
このような事態を懇願したりした。

このような心情を秘めている私は、《・・避難勧告・指示は「避難所に行け」という意味ではない・・》、
そして副題には《・・避難には、様々な形がある。もっと気軽に避難しよう。・・》と記載されていたので、
どのようなことなの・・と思いながら、記事を読んでしまった。

この記事は、新潟青陵大学大学院教授(社会心理学)で、スクールカウンセラーもされている碓井真史さんの寄稿文で、
ご自身のオフィシャルサイト『こころの散歩道』に2019年10月11日に配信され、
無断であるが記事の殆どを転載させて頂く。

《・・避難勧告・指示は「避難所に行け」という意味ではない(台風19号に備えて)

<避難には、様々な形がある。もっと気軽に避難しよう。>

                  

■大型台風19号接近

強くて大きな台風が来ています。
各テレビ番組は、長い時間をかけて報道しています。
鉄道各社も計画運休を次々と発表しています。
ホームセンターでは、防災グッツを買う人々の列が長く続いています。

近年の台風の頻発、つい先日の台風15号の被害。
緊張感のある報道。多くの人々が、災害に備えようとしています。
それでもなお、難しいのが、「避難」です。

防災グッズを買う行為は、しやすいのですが、避難所に行くのは、敷居が高いでしょう。

水害はなぜ逃げにくい:様々な避難そして避難場所と避難所の違い

「避難命令」が一番強い避難情報ではありません。>(「避難指示」が一番)

                 

■水害の避難とは

先日、ある報道で流れていました。
夜中に大雨が降っている状態で、自治体が「避難勧告」を出そうとしたが、
大雨の夜中に避難することの危険性を考えて、あえて自治体は避難勧告を出さなかったと。

これは、ちょっと違いと思います。
水害避難には、様々な形があります。

情報を出す側も受け取る側も、情報の正しい意味を理解しないと、気象衛星も膨大な報道も、宝の持ち腐れです。

大きな地域全体に避難勧告避難指示が出ることもありますが、
実際の危険性や、取るべき行動は、それぞれの家庭によって異なるはずです。


1近距離避難、避難所避難

自宅は1階建なので、ご近所の2階建の家に避難することもできます。
土砂災害の期間の中、自宅は木造家屋なので、ご近所の鉄筋の家に避難することもできます。

避難所に避難するのは、不便な生活とか、プライバシーがないとか、色々心配になります。
この心配が、避難所避難行動へのブレーキになります。

けれども、台風から命を守るための避難なら、
避難所生活は一日か二日でしょう(家が住めない状況になれば別ですが)。
一日花二日なら、不便な生活もなんとかなりそうです。


2垂直避難

自宅の2階以上に避難するのが、垂直避難です。
自宅の中でも、危険性が高い場所と低い場所がありますね。


3遠距離避難

暴風雨になる前なら、遠くの親戚の家に避難することもできるでしょう。
避難というと大袈裟な感じがしますが、遊びにいく、この機会に訪問するということでいかがでしょうか。

風水害の危険性がない地域に旅行に行くのも、遠距離避難の一つです(新幹線や飛行機が止まる前の話ですが)。

                


■避難への心のブレーキを外す

タイタニック号が沈む時、最初はみんな救命ボートに乗ろうとはしませんでした。
明るく、暖かく、音楽とご馳走がある豪華客船から離れて、
寒く暗い海に小さな救命ボートで出て行く。

これは、確かに嫌なことです。

けれども、タイタニック号が大きく傾き始めた時には、今度は救命ボートに乗るためのパニックが起きてしまいました。

私たちは、昔と比べれば、ずっと豊かでプライバシーが守られる生活をしています。
その現代人が、「避難」することは、大変なことです。

だから、避難することを、もう少し気軽に考えても良いのかもしれません。

いち早く学校などに避難してくるご年配の方々を見ていると、
それほど緊迫感のある様子ではなく、ちょっとおでかけぐらいの雰囲気で来られる方々がいます。

地元の小学校に来て、顔見知りの人々がいて、お茶を飲みながらおしゃべりをして、
しばらくして大丈夫だとなれば、挨拶をしながら笑顔で帰って行く。
そんな感じです。

もちろん、本当に大災害が発生すれば、こうはいきませんが、
慣れている学校に慣れている人々と共に、安全なうちに避難する姿勢は見習いたいものです。

避難に際して、高齢者は体力面の不安がブレーキになります。
だからこそ、安全で明るいうちに、ゆっくり歩いて避難です。

若い人は、避難所避難に関しては、プライバシーの問題がブレーキになりがちです。
避難所以外の避難も考えたいところですし、一泊二日ぐらいなら大丈夫と思いましょう。

赤ん坊のいる家族や、障害を持った人がいる家族は、周囲の迷惑を気にする人もいます。
でも、こんな時に助け合わなくて、どうするのでしょう。
文句をいう人もいるかもしれませんが、協力的な人も必ずいるはずです。

それでもいろいろご心配はあるでしょうから、様々な形の避難の形も考えましょう。

                

■台風と私たちの一体感

大都会では、他人のことに関わらないのが、一種の生活のルールです。
ところが、台風の時などに、不思議な一体感が生まれることがあります。

駅で立ち往生している時などは、経済力も地位も関係なく、同じ立場になります。
共感し合えます。
不安な時、人は人を求めます。

台風には、逆らえませんが、地震とは異なり、予測し備えることができます。
災害発生時こそ、私たちの知恵と力の見せ所です。
様々な被害が出るかもしれませんが、まずは命を、守りましょう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。   

                                

私は記事を読みながら、多々教示させられたりした・・。

たとえば《・・避難することを、もう少し気軽に考えても良いのかもしれません。

いち早く学校などに避難してくるご年配の方々を見ていると、
それほど緊迫感のある様子ではなく、ちょっとおでかけぐらいの雰囲気で来られる方々がいます。

地元の小学校に来て、顔見知りの人々がいて、お茶を飲みながらおしゃべりをして、
しばらくして大丈夫だとなれば、挨拶をしながら笑顔で帰って行く。 そんな感じです。

もちろん、本当に大災害が発生すれば、こうはいきませんが、
慣れている学校に慣れている人々と共に、安全なうちに避難する姿勢は見習いたいものです。・・》

そして何よりも学んだことは《・・台風には、逆らえませんが、地震とは異なり、予測し備えることができます。
台風の時などに、不思議な一体感が生まれることがあります。

駅で立ち往生している時などは、経済力も地位も関係なく、同じ立場になります。
共感し合えます。 不安な時、人は人を求めます。

災害発生時こそ、私たちの知恵と力の見せ所です・・》。

                  

この後、 私たち夫婦が初めて小笠原諸島の父島に訪れ、
この旅路の中で、たまたま津波の避難勧告を受けた日が思いだされた・・。
               

私は2009年(平成21年)の秋に、家内が海上にクジラが遊泳する情景を観たい、と念願していたので、
翌年の2010(平成22)年の2月24日から3月7日の11泊12日間で、
小笠原諸島のひとつの父島に私達夫婦は旅行をした。

私たち夫婦は国内旅行は共通の趣味のひとつであるが、海外旅行は苦手であり、
クジラを観るのは小笠原諸島にしょうとした上で、
最も観られる確立の高い2月前後が最適かしら、と思ったりした。

そして小笠原諸島の父島は、東京から南下し、遥か彼方の1000キロぐらいの時点にあり、
この遥か西方には、同じような緯度で沖縄本島にあり、少しばかり驚いたりした。

小笠原諸島は父島のある父島列島、母島のある母島列島をはじめ、 東方には日本の最東端の南鳥島、
南下にはかの戦争で過酷な激戦地となった硫黄島のある硫黄列島、
西南方には日本の最南端として有名な沖ノ島が海上にある。

もとより小笠原諸島の父島は、同じような緯度にある沖縄本島とは、
人口、面積、そして託されている肝要の状況も全く違い、
人口の最も多い父島さえ、 東京都小笠原村と明示されている。

このような状況下などで、通常の交通期間としては、
沖縄本島の那覇空港には、羽田空港からは頻繁に3時間ばかりの航空路であるが、
父島は東京の竹芝桟橋から週に2回だけ客船で25時間半で、何とか接岸する地となっている。

この時の旅路は家内の草案で、2月24日から3月7日の11泊12日間であったが、
船旅で往復路にそれぞれ1泊し、現地のリゾートホテルに9泊となり、
都心より南下すること1000キロの客船の航路だけが交通手段であり、25時間半の船中泊で、
はじめて小笠原の父島に入港できる稀(まれ)な旅路となったのである。

そして、この定期の客船はトップ・シーズン以外は、6日サイクルで運行されるので、
遥かなる南の島と私は称し、旅の中で、ドリーム・アイランドと私は秘かに命名したりした・・。
 
               

この父島に滞在している中で、家内の念願である『ホエール・ウォッチング』は、
2月27日、3月2日、そして3月4日と3回に及び一日ツアーに加入した。

いずれもこの時節は、ザドウクジラが父島の周辺で子育ち期間で、
親子の遊泳するのが多い、と知られている通り、 家内は幾度も歓声を上げながら、楽しんだりしたいた。

この時に周辺の兄島に上陸したり、神秘の島として名高い南島に上陸し、散策したりした。

或いは父島の中で、ガイドさんに導かれて、
父島の最北部にある三日月山の展望台より180度は超える広い海原を眺めたり、
山道を自動車で走破し、長崎展望台、初寝展望台から切立った崖を眺めたり、父島の東岸の洋上を観たり、
いずれも道路から数百メートルを歩いた見晴らし良い展望台からの美景であった。

この間、壮大な国立天文台VERAの小笠原観測局を観たりし、
この後は旧海軍の食料の防空壕、施設跡を歩き廻り、西岸の穏やかなコペペ海岸にたたずんだりした。

そして落陽の光景を観たい、と私達の要望で、
ガイドさんは、二見湾に射しこむ夕陽を境浦、そして三日月山の展望台に戻り、
私たちは洋上に壮麗な夕陽から落陽の光景を長らく見つめたりした。

そして夜のとばりの時に、ガイドさんにまといつきながら、『ナイト・ツアー』に参加し、夜の情景を眺めたりした。

こうした旅のあいだの2月28日の朝、
私はシーサイド・ホテルの『ホライズン』で早朝に目覚めた。

昨日、私達夫婦は初めて『ホエール・ウォッチング』の遊覧船に日中の大半を乗り、
少し疲れを感じていたので、のんびりと日中は過ごそうとしていた。
 
                

薄日の射す穏やかな海の色合いを眺めた後、 私はNHKのニュースを視聴しょうと、
部屋に戻りテレビをぼんやりと見たりしていた。

そして、南米のチリで巨大地震が発生し、この周辺一帯は甚大な災害を受けた、と知ったのである。
この後、やがて日本の海岸にも津波が押し寄せる、と報じていた。

私はチリの震災に遭われた方は、大変にお気の毒で被害が少なければよいが、
と思いながら家内と話したりしていた。

レストランで朝食を頂いた後、4人グループの男性とロビーで談笑し、
本日の父島の二見港の午後2時発の船便で、明日の午後3時半に東京・竹芝桟橋に下船した後、
東京の赤坂にあるホテルで1泊した後、お住まいの愛媛県に帰られる、 と聞いたりした。

私達夫婦は、ここ2日ばかり4人グループのひとりの方と談笑を重ねてきたので、
まもなくお別れだなぁ、と名残り欲しく感じたりしていた・・。

そして、女性のふたり連れの方とは、挨拶をする程度に話したり、
あとは30歳前後のビジネスマン風と男性と目礼をする程度であったが、
閑散期のホテルの客は、私達夫婦を含めても9人だけであった。

いずも私達夫婦以外は、本日の船便で帰京されるので、少し寂しくなる感じていたのである・・。

まもなく9時35分過ぎに、村役場のアナウンスがホテル前の拡声器から聴こえ、
『浜辺にいる方は、高台に避難して下さい・・』
と津波警報が報じられたのである。

この後、11時過ぎにホテルからは、 ホテルから
荷物を全て持ち、避難場所に退避する準備をして下さい、と連絡があり、
私達夫婦は3階の部屋で海面からは少なくとも17メートル以上あるから、
手持ちバックだけにしょう、と話し合ったりした。

               

そして私は、いつものように紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
バックの中身は、財布、メモ・ノート、ポールペン、ハンドタオル2枚、ハンカチ2枚、 煙草、ライターなどを入れ、
すぐに戻れると思い、コンバクト・デジカメは部屋に置いて、 家内もハンドバックだけを手に提げて、退室した。

この後、一階のロビーに私たちはいると、 まもなくホテルの方が、
私たち一同をホテルから付近の避難場所の『扇浦 交流センター』に、
自動車で5分ぐらい走った高台に誘導して下さった。

そして『扇浦 交流センター』の入り口に入り、退避人名表に私たちも記載した後、
地元の扇浦地区にお住まい方、私達のような外来者、そして警察官の3人、村役場の職員か青年支援者で、
総数50名前後であり、時刻は12時過ぎであった。

私達夫婦は、津波などを含めても避難は、戦時の末期の昭和19年9月に生を受けた私は、
乳児で母、叔母に連れられて生家の防空壕に入った、と後年に教えられたが、
もとより確かな自身の記憶がないので、今回の生まれて初めての体験となった。

そして私たち夫婦は戸惑いながらも、客船が接岸する近くの街中の人々の避難場所は、
指定された小・中学校の体育館などの大多数よりも、
この豪壮なログ・ハウスの『扇浦 交流センター』が水の確保、トイレだけでも配慮した場合、
少人数でよかったかしら、と小声で話したりした。

まもなくホテルのご好意により、私達の客一同はお弁当とペットボトルの煎茶を頂き、 昼食とした。

この後、村役場の公報が、 津波の第一波は、
午後一時は10センチが観測されました、報じられていた。

そして、午後2時過ぎに津波の第二波は、午後2時は20センチ、
午後3時過ぎに津波の第三波は、午後3時は30センチ、と報じられていた。

この間、船舶への注意報がされて、午後2時発の東京・竹芝桟橋行きの『おがさわら丸』も順延となり、
『おがさわら丸』は停泊していた二見港の岸壁から、こうした中で二見湾の中心に移動され、停止していた。  

                                 

この時、私はカメラを持参していなかったので、後日に撮った情景である。

私達夫婦は、何時になったならば避難の解除が発令されるか、と思ったりしたが、
私達よりも本日乗船する予定の方たち、そして村民の方たちの方が遥かに心配される立場であるので、
私は無言のまま『扇浦 交流センター』の外で煙草を喫ったり、 家内と共に付近の里山沿いの道を散策したりした。

そして時折、交流センターの広間の待合室となっているテーブル付近で、
解除を待ちわびている地元の人たちのひとりが、 50年前のチリ地震に伴う父島での津波の災害、
台風時の災害などを話されていたのを聞いたりしていた。

やがて夕暮れの6時頃に、災害救助用の食料品が置かれて、
私は生まれて初めて『災害救助用 クラッカー』をひとつ頂いた。

この袋には、88グラム(26枚入)、納入年月:平成20年8月、賞味期限:平成25年8月と明記されて折、
私は口に含み、そして噛み砕いたが、味の薄く、やはり保存食だ、と苦笑したりした。

この後、私は疲れを感じ、部屋の角にある災害救助用の毛布が残っていたので、
一枚をお借りして床に敷いて、私のフィールド・ジャケットを身体にかけて、横たわった。
やがて、ホテルからのご好意の夕食のお弁当を頂いたりしていた。

夜の8時が過ぎた頃、避難解除が発令されて、
私達一同はやっと解放された、 とお互いに複雑な表情を浮かべたりした。

ホテルの方が私達夫婦だけをホテル前まで、
別の車で本日に乗船する予定の4人グループ、女性のふたり、そして30歳前後のビジネスマン風と男性を
港まで送迎して下さることとなった。

そして私達夫婦は『扇浦 交流センター』の駐車場で、
4人グループの男性の方たちに、 お気を付けて下さい、と慌ただしく別れを告げた。                     

その後、私達はホテルの指定された部屋に戻ると、
ときおりバルコニーから夜景の二見港の『おがさわら丸』を注視していた。

『おがさわら丸』が出航する時は、父島の近くの母島より『ははじま丸』が連絡して折、
平常時には母島港を午前10時30分発で父島に12時40分に入港した後、
父島発午後2時の『おがさわら丸』に人々は合流して、 一路『おがさわら丸』は東京の竹芝桟橋をめざし、
翌日の午後3時半に着岸するのが定例であった。

しかし今回の津波の避難の非常事態で、母島が津波警報の解除が父島と同様に行われていたとしても、
『ははじま丸』が母島港をたとえ夜の9時に出航しても、父島に入港できるのは夜の11時過ぎであり、
この後の『おがさわら丸』が出航できるのは、夜の12時過ぎとなるのである・・。
このような思いで、父島の二見港の夜景を見つめていたのである。

しかし11時少し前に過ぎ『ははじま丸』らしき船は見えず、
私は疲れを感じて、 部屋に戻り、ベットにもぐり寝込んでしまった・・。

                    
 
翌日、ホテルの方のひとりの方より、未明時に『おがさわら丸』が出航でき、
東京の竹芝桟橋に接岸できるのは、翌日の深夜であり、この時間帯になると公共の交通機関はなく、
結果的には二晩船中で過ごされる、と私は聞いたりした。

そしてNHKのニュースで津波の実態報告によれば、
小笠原の父島は、昨日の午後4時21分に42センチが観測されました、と報じていた。           

2月28日の津波の襲来で避難した翌日の3月1日、
滞在しているシーサイド・ホテルの『ホライズン』のレストランで朝食を頂いたが、
私達夫婦以外の客はいなく、少し戸惑いを感じたりした。

私達は国内旅行が共通の趣味であり、新婚時代から四季折々各地を旅行してきたが、
リゾート・ホテル、シティ・ホテル、ビジネス・ホテル、観光ホテル、旅館、民宿などを宿泊してきたが、
私達夫婦だけの宿泊客となったのは初めての体験であった。

このことは小笠原諸島の『父島』、『母島』の交通の便が大きく左右されているのが、 主因と思われる。
この『父島』にしても、東京の竹芝桟橋と父島の二見港を小笠原海運に寄る『おがさわら丸』の客船が、
定期航路として随一あるだけである。

定期船が運航するのは、年末年始、5月の連休、7月下旬~8月中旬の夏季期間を除けば、
6日毎のサイクルで順行する。

たとえば3月8日(月曜日)の午前10時に『おがさわら丸』は東京の竹芝桟橋を出航した場合、
翌日の9日(火曜日)の午前11時半に父島の二見港に入港する。
そして10日(水曜日)、11日(木曜日)は停泊し、12日(金曜日)の午後2時に父島の二見港を出港し、
翌日の13日(土曜日)の午後3時半に東京の竹芝桟橋に入港する。

このようなパターンであると、9日(火曜日)の午後より12日(金曜日)の午前中まで、
島内で滞在することとなり、自在に周遊できる。

数多くの旅行客は、船中泊の2泊、島内で3泊の5泊6日の日程が多く、
父島にしても『おがさわら丸』が停泊していない期間は、旅行客は大幅に減少するのである。

私達のような退職後のリタイアした60、70代の人たち、
或いはマリン・スポーツなどで熱意ある人たちのリピータの一部が、
この間に滞在しているのが多く見られたのである。

このような状況なので、シーズン・オフの今、たまたまホテル『ホライズン』さえも、
私達夫婦だけとなってしまったのである。

そして、2月28日(日曜日)の夜から3月3日(水曜日)の『おがさわら丸』が入港するまで、
私達夫婦はたった一組の客となり、レストランで朝食、夕食を頂いても、
何かと落ち着かない日々を過ごしたのが本音であった。

尚、私たちが避難した豪壮なログ・ハウスの『扇浦 交流センター』は、
小笠原村の管轄下となっているが、 私は豪壮なログ・ハウスの由来を地元のおひとりから、
待機していた時に秘かに教えられたが、 このサイトで匿名の私でも、身の危険を感じて記載できないことを付記する。
 
このように私たち夫婦は、これまで避難した体験が一度だけあり、今としては貴重な思いでとなっている。
コメント (2)
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