夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

太陽の恵みこそ、人誰しもが享受している、と微笑みを重ねて・・。

2015-04-15 13:11:57 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
ここ一週間は、小雨が降る日が多く、菜種梅雨かしら、と戸惑ってきた。

今朝、雲ひとつない青空の快晴を迎えて、私はベランダに降り立ち、
陽射しに向かって両手を合わせたりした。

遥か5000年前の古代エジプトでは、ナイル川の氾濫で上流より土壌の栄養分が運ばれて、
太陽の恵みにより、ナイル川の両岸地域では、小麦など農作物が収穫できたりしてきた。

やがて地中海沿岸などでは、オリーブ、ブドウなど果物なども収穫できたりしてきた。

日本も米など中核とした農作物、果物なども収穫でき、人々は生かされてきた。

このようなことを何かと単細胞の私は思案し、一年に10数回ぐらい陽射しに感謝している。

もとより私たち人間も、地上に生きし動物、植物なども、
太陽の恩恵を受けて生かされている。
          

とりとめなく陽射しに感謝した後、居間で地元の天気情報を見たりすると、
午後より風も伴い本降りの雨となります、と報じていた。

そして平素の買物専任者の私は、家内から本日の買い求める品を聞いて、
午前中のひととき、駅前のスーパー、そして本屋に片道20分ばかりの歩道を往還したりした。

陽射しは心地よく、ときおり吹く風も甘く、
午後より天候は急激に悪くなることは、信じられない空模様であったので、
昨今は天上の気候の神々は、ご機嫌が悪いかしら、と思いながら足早に歩き、帰宅した。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いつの日にか『おひとりさま』になった時、理想的な住まい所、と思案させられて・・。

2015-04-14 13:39:20 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私としては、家内より先にあの世に行くと思っているので、
私の葬儀、お墓、そして家内の独りの老後で程ほどに生活できそうな状況のことも、
話し合ったりしている。

こうした思いのある私は、過ぎし年の2004年(平成16年)秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めて、まもなく公正証書の作成できる処に出向き、
残された家内の生活が困苦しないように、私の遺言書を作成したりした。

そして自宅を処分して、2DKのマンションを購入して、残された人生を過ごされれば、
と私は家内に言ったりしている。
  
しかしながら、こうしたことは天上の神々の采配に寄るものであり、
家内に先立たれることもあり、私が独りぽっちとなることも、一年に数回ぐらいは、
おひとりさまの生活を思いめぐらすこともある。
          

こうした心情を秘めている私は、ネットで愛読しているビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の公式サイトを
読んでいる中、【平均年齢69.8歳、半数以上が独身! 「郊外型コミュニティ」の魅力】
と見出しを見て、どういうことなの、と思いながらクリックした。

そして『親も子も嬉しい「家の新常識」【3】高齢者住宅』の連載記事であり、
『プレジデント』誌に 2013年10月14日号に掲載された寄稿文と解った。

無断であるが、転載させて頂く。

《・・「老後」といえば、介護の不安が頭をよぎるが、実際に生活が困難になるのは、ずっと先の話だ。
生命保険文化センターのまとめによると「要支援・要介護」の認定者は、
75~79歳でも13.5%。80~84歳は28.4%、85歳以上では58.4%にまで高くなるが、
80歳未満では7割以上の人が元気に暮らしている。

それではリタイア後にどこで楽しく過ごせばいいか。
60代から老人ホームというわけにもいかない。特に独身や子なし世帯には切実な問題だ。
千葉県稲毛市にそんな「アクティブシニア」を集めた新しい形の住宅がある。


2010年に開所した「スマートコミュニティ稲毛」では現在約400人が暮らしている。
平均年齢は69.8歳。入居者の半数以上は単身者で、全体の男女比は4対6。
昨今入居ペースが上がっていて、2日に1人の割合で入居者が増えている。

運営するスマートコミュニティの宮本雅史会長は、
ゲームソフト『ファイナルファンタジー』を制作したスクウェア(現スクウェア・エニックス)の創業者で、
投資家としてこの事業を立ち上げた。

宮本会長は「高齢者の生活コストを半分に下げることが事業の出発点だった」と話す。

「『月20万円分の生活を10万円で提供する』というのがポリシーです。
厚生年金の受給額は平均で月16万円程度。将来の切り下げを見越せば、10万円程度に抑えたい。
さまざまなサービスを『共同購入』すればコストは下げられます。

稲毛では1000人規模とする予定です。
将来的にはこうした暮らし方を当たり前のものにして、高齢者の生活コストを引き下げ、
次世代の負担を減らしたいと思っています」
          

入居条件は50歳以上で、健康的に自立した生活が送れ、コミュニティに参加する意欲があること。
住居は分譲形式をとっており、単身者向けの33平方メートルの1Kは1360万円から、
2人向けの70平方メートルの1LDKは2750万円から。

このほかに入居時には入会金が52万5000円(2人目は半額)と施設利用権利金として147万円(同)が必要だ。
初期費用コストは単身者で1560万円、夫婦なら3050万円程度となる。

月々の費用は前述の通り、1人につき約10万円が目安となる。
内訳はコミュニティサービス費が4万5000円、朝夕の食費が4万4000円、住居の管理費や修繕積立金が1万3000円程度。
このほか住居の水道・光熱費などが自己負担になる。

住居は分譲形式のため所有者の資産となり、売却もできる。
高齢者住宅には「終身利用権付き」の施設も多いが、それらは利用権のため、死亡・退去時には無効となり、資産にはならない。

東京歯科大学教授の中村光博さん(62歳)は、2011年2月に入居した。
単身のため、栄養管理を受けられる点に魅力を感じたと話す。

「住んでいたマンションを売却して、移り住みました。それまで食事は外食やコンビニ弁当がほとんど。
ここでは『なだ万』の料理が、きちんとした陶器でサービスされるので、それがありがたいですね。
私はゴルフが趣味なのですが、ここでは毎月コンペがあります。友達もできました。
65歳の定年までは働くつもりですが、ゴルフ三昧の老後が楽しみですね」

「この施設の要はコミュニティ。ゴルフや釣り、音楽、陶芸、麻雀、ヨガなど、20以上のサークルが立ち上がっています。
都市部の住まいは忙しい若い人たちに譲って、引退後は郊外でセカンドライフを生き生きと楽しむ。
それがシニアにも、日本にもプラスだと思うんですよ」(宮本会長)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は過ぎし年の2010年(平成22)年の夏に、楡周平(にれ・しゅうへい)・著作の『衆愚の時代』(新潮新書)を見かけて、
私は氏の作品を初めて読んだが、 確かな視線のある作家と感じて、好感したりした。

その後、今年の4月30日に於いて、氏の『「いいね!」が社会を破壊する』(新潮新書)の書評を読み、
つたない私の感性が換気させられて、購読して、圧倒的に感銘を受けたりした・・。

やがて遅ればせながら氏が2008年(平成20年)7月に上梓した『プラチナタウン』を
昨年の夏に祥伝社文庫で発刊されていたで、購読して、感銘させられた。
             

そして定年退職を過ぎ、年金生活をしている団塊世代を中核とした人たちにとって、
確かな桃源郷のひとつ、と心の中で呟きながら、確信を深めたりした・・。

この小説の概要の紹介した記事は、ネットで数多く紹介されている中、、
的確に表現した記事を転載させて頂く。
そして氏のこの作品の思いも掲載されている。
http://www.nikkeibp.co.jp/aging/article/innovator/20121003/01/01.html
☆【AGING Web】==>『AGING INNOVATOR 超高齢社会対応の先駆者たち 』
              ==>『小説『プラチナタウン』が示すもの 第1回』☆

そして補足として、主人公は団塊世代であり、若き20代の頃に三菱商事と推定される商事会社に奮闘され、
この当時の頃からの社会状況も克明に描き、やかて50代の自身の置かれた心情をくまなく表現され、
やがて上司の辛辣な采配で、やむなく退社されて、過疎の町長に就任して、
債務超過のような町を、高齢者の定住型テーマパーク街を立案して、やがて実施して、盛況となる。

楡周平(にれ・しゅうへい)氏は団塊世代の主人公に仮託させて、
《・・老後の新しいライフスタイル」として、
「日本人にとって、楽しい人生とは何なのか。

仕事を終えたら燃え尽きて終わりだなんて、そんな人生つまらない。
人生の最後に、本当にしたいことができなければ、それまで懸命に働いてきた意味がない。
これからは、老後を楽しむという方向へ価値観を変え、
老後を最高の人生と思えるシステムや社会を創らなければならない」。・・》

このような本書であるので、もとより団塊世代、そして少し齢上の世代、
あのような風潮もあったよねぇ、と過ぎし年に愛惜を重ねたり、
いざ年金生活となっている人たちに、自身が秘めている理想と思われる桃源郷のひとつに、
限りなく共感させられ、夢想てきる本書でもある。

このように思いを私は熱く感じたりした・・。
          

今回、『プレジデント』の公式サイトで【平均年齢69.8歳、半数以上が独身! 「郊外型コミュニティ」の魅力】を読んだ後、
作家・楡周平(にれ・しゅうへい)氏が小説として『プラチナタウン』のような概要目的と同じようだ、
と微笑んだりしてしまった。

しかしながらこうことを実現させたスクウェア(現スクウェア・エニックス)の創業者・宮本雅史さんに、
団塊世代を中核した人たちの第二の人生の桃源郷のひとつ、と思い深めたりした。

私は数多く中小業で長らく奮戦してきたが、私か家内が『おひとりさま』になった時、
都心にある高価なマンション風の老人ホームには、無念ながら高価すぎて入居できない。

そして今回のクラスだったら、安楽な『おひとりさま』が過ごせる、
と私は思案を深めながら、候補のひとつだ、と微笑んだりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝まどろむ時、この世で最も贅沢なひととき、と私は微苦笑して・・。

2015-04-13 13:43:18 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
『働らなくても何とか生活ができるので助かるわ・・』、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、
『そうだよねぇ・・』
私は苦笑しながら応じたりしている。
          

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

私も定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして過ぎ去った60代の10年間の年金生活の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
                 

2004年(平成16年)の秋、年金生活の当初は、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。


私たち先輩、そして私たち同世代、少し若い団塊世代のサラリーマンの多くは、
もとより職務、そして家計の責務で、睡眠時間を削り奮戦してきた。

私も職務を果たす為に、奮闘して、平日は睡眠時間を削ることが多く、
休日のひとときに昼寝などをした補(おぎな)ってきた。

或いは若き40歳前後は、コンピュータ自社導入のシステム開発、運営業務などで、
徹夜も幾たびもして、今働くなくていつ働くょ、と自身を叱咤激励したりしてきた。

やがて最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となったりし、
従来の都心勤務地より、遠方となり、朝の4時45分に起床して、帰宅できたのは午後9時前後が多く、
不馴れな物流センターで、自分の敵は自分だ、と奮(ふる)い立たせたりした。
          

やがて年金生活の当初は、朝布団(ふとん)の中で目覚めた後、
もう会社に行かなくてよいんだ、と無念と安堵感に微睡(まどろみ)ながら微笑んだりした。

そして二度寝などを甘享したりすると、夢の中で職務上の成功体験の出来事より、失態した出来事が多く、
目覚めた後、独り苦笑したりしてきた。


やがて数年後はサラリーマン時代の夢は激減し、
朝まどろむ時、夢と現(うつつ)の世界を往還するように、今日はどこを散策しょうか、
駅前の本屋に行き、あの本を買い求めようか、などを思い馳せたりしてきた。

或いは家内と国内旅行に行き、旅先のロビー、食事処で隣席して談笑した人たちを思い浮かび、
たとえ一期一会でも、人生の微笑みひとときを過ごせた、と走馬灯ように感じたりしてきた。
          

そして昨年の秋に古稀と称される70歳の階段に昇格すると、
布団の中でまどろむ時間が多くなってきた・・。

まるで航空機の機内に着席して、そして航空機が滑走路を走り、やがて離陸し、
上空で安定飛行するまでのように、身をまかせて長い時間となっている。

過ぎし日の出来事とか、これからのささやかな願いの数々が、
夢と現(うつつ)の世界を彷徨(さまよ)うようなひとときが多くなっている。

そしてボンヤリとして正気には程遠く、
やがて起床してボンヤリとして煎茶を飲んだりして、正気になり微苦笑することが多くなっている。

このように朝のひととき、まどろむ時が多くなっている今、
貧富に関係なく、この世で最も贅沢なひととき、と私は微苦笑したりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『越後獅子の唄』、私の少年期の限りなく愛惜を秘めた歌のひとつとなり・・。

2015-04-12 10:54:02 | 懐かしき心に秘めた歌
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

そして私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954年(昭和29年)の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたりの叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。

そして私たち子供は母と叔母に支(ささ)えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。
          

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償の時代であった。

祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡された・・。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で言っていた。

そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏していても・・PTAの会費・・払おうよ・・』
と次兄は怒りような声で母に言ったりした。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない我が家の畑で農作物を採り、
程近くに広い敷地にある国際電電公社(現・KDDI)の数多くの社宅に売りに行ったりした。
このお陰で、何とか人並みにPTAの会費を支払うことができた。

長兄は旧家の跡取りであったので、亡き父の願い、祖父の遺言もあり、国立大学付属の中学校を通学する中、
たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。
               
このした中で、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。

そして学校に行くのが苦手な児となった・・。
          

この当時、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

この当時は学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。

私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。
やがてかぼそい声で何とか唄い、結果として通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは独りで家の留守番をしている時は、
ラジオから盛んに流れていた『越後獅子の唄』の歌に魅了されていた。

♪笛にうかれて 逆立ちすれば・・・わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし・・、
【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】
とかぼそい声で唄ったりしていた。

そして唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
                              

やがて私が小学校の高学年になると、母に百円を懇願して、独りで映画館にたびたび通った。
この当時は、電車賃は子どもで往復10円、映画館の入場料は殆ど三本立ちであったが子どもは40円で、
帰路にラーメン屋に寄り35円で、あとの15円は映画館の中にある売店で都こんぶ等を買い求めていた。

こうした中で、映画の『ビルマの竪琴』を観て、『埴生の宿』の歌を知り、
或いは映画の『二等兵物語』を観たりして、『ふるさと』の歌を学び、
これこそ私が待ち望んだ音楽だ、と少年心に感動しなから、深く感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。

何かと平素は無口の癖、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島は、幾10数年ごとに爆発する活火山の由来だった。
          
         
やがて小学6年生の頃になると、突然に人前でおしゃべりをすることが大好きと変貌して、
見知らぬ小父さん、小母さんと私の方から話すようになり、
母、兄妹、そして叔母も驚いていた・・。

これ以来、私はお調子者のひとりとなって、学生時代、社会人のサラリーマンの中、
ときにはトンボのように自由にふるまったり、おだてられると高揚しながら奮闘したりしてきた。


後年、この歌の『越後獅子の唄』は、1951年(昭和26年)に松竹映画『とんぼ返り道中』の主題歌として、
越後獅子の少年を美空ひばりが演じていた、と解かった懐かしい映画のひとつとなった。

何よりも私が身勝手に孤独感を感じ、屈折した幼年期を過ごしたが、
この歌は心を癒(いや)して、慰めてくれた貴重な心の歌となっている。
          

やがて私は年金生活をしている2009年(平成21年)の3月下旬に、
筒井清忠・著の『西條八十』(中公文庫)を読んだりし、
西條八十氏がこの歌の作詞された発想が描かれていて、私は驚きながら、多々教示された・・。

《・・昭和25年の春、西條八十が『山のかなたに』の打ち合わせるのため、
新東宝の撮影所を訪れると、柳谷金語楼・主演の『続・向う三軒両隣り』のセツトがあり、
小憩中で、誰もいない中に一人の女の子がぼんやりと立っていた。

西條八十が元気づけようと、
「君も金語楼劇団に入っているの? 小さいのに感心だね」
と話しかけると、
少女は笑って、
「いやだわ先生、私コロムビアの専属歌手なのよ。先生と同じ会社ですよ」と言った。

これが西條八十と美空ひばりの出逢いだと、森一和は著している。
西條八十は美空ひばりを知らなかったが、美空ひばりは西條八十を知っていたのである。
          

それ以来、西條八十は美空ひばりを興味をもって眺めていたのだが、
天才少女への世間の眼は冷たいものがあり、新聞で「ゲテモノ!と叩かれたりしていた。


こうした中で、西條八十は会社から美空ひばりの正月用の作品を頼まれたのである。
西條八十は戦前に住んでいた柏木あたりに、
正月になると越後獅子が来ていたのであるが、
その子供達が芸をしながら、いつも怖い目つきの親方を恐れいた痛々しい様子を思い出し、
この曲を作ったという。

つまり、『越後獅子』とは当時、社会的に冷たい目で見られ、
大人の歌手の間で肩身の狭い思いをしていた美空ひばり自身のことなのであった。

この歌のテスト盤を聞いた斎藤寅次郎・監督が、
この歌を主題歌とした美空ひばりの主演映画『とんぼ返り道中』を企画、
昭和26年の正月映画として大ヒットした。

浅草六区の直営館では、満員の客をさばくためにフィルムを適宜カットし、上映回数を一回多くしたが、
美空ひばりの出る場面、歌う場面は残したので、客は満足して帰ったという。

しかし、この『越後獅子』が、美空ひばり自身を象徴していたことを
当時の観客の何人が察知していただろうか。・・(略)・・》
注)本書の原文(425・6ページ)より、あえて改行など多くした。
          

このように作詞家としての西條八十氏の『越後獅子の唄』の発想としての秘話、
その後の斎藤寅次郎・監督の英知で『とんぼ返り道中』が上映されたのは、私は無知であった。

私はラジオから聴こえたのを幼年心なりに覚え、
数年過ぎた頃、独りで三流の映画館で観ながら、涙を流したのである。

こうした創作の秘話などを読んだりし、具体的に教示されたのであるが、
こうしたことは本書のような本を読まない限り、
たとえネットの世界が広まり安易に知識が得られる今日でも、不明と思われ、
改めて読書は限りなく奥深く、思索させられる根幹かしら、と確信させられたりした。

尚、余談であるが、《・・美空ひばりの歌った『越後獅子の唄』・・
後の名歌手・島倉千代子は少女の頃、この歌を聞いて歌手になりたいと思ったという・・》
と本書の原文の中(423ページ)に明記されていたで、私は涙があふれながら独り微苦笑したりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『長崎の鐘』の歌、私が生まれて初めて感動させられた歌となり・・。

2015-04-11 15:55:41 | 懐かしき心に秘めた歌
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
ときおりラジオを聴いたり、テレビの歌番組を視聴したりすると、
それぞれの歌の中には、つたない人生航路を歩んできた私でも、懐かしく聴き入ってしまうことがある。

やがて歌を聴きながら、過ぎし年の生活状況とか自分のふるまい、思っていたことなどが、
走馬灯のように浮かび、過ぎし年の自分に逢えた、と独り微苦笑したりすることが多い。

こうした私にとっては、懐かしき歌の数々を発露致したく、ときおり今後に於き、
投稿文で認(したた)めるので、『懐かしき心に秘めた歌』と題して、カテゴリーを新設した。

どなたか発言されたか不明であるが、歌は世につれて・・、と銘言があり、
私も確かに、そうですよね・・、と瞬時に同意したりしたひとりである。
          

第一回は、『長崎の鐘』(作詞・サトウハチロー、作曲・古関祐而、唄・藤山一郎)

私は1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として、生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵(くら)、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

そして幾たびか悪戯(いたずら)をしたりするたびに、
私は父から叱咤され、土蔵に叩き込まれ閉じ込まれたり、
夕食のさなか、妹と同じようなスプーンである匙(さじ)をくれ、と私は言ったりすると、
母屋から放りだされ、私は泣きながら母屋の暗い周囲を廻ったりした。

やがて母が裏木戸を開けてくれて、私は母屋に入れた。
          

この当時の母は、農家の嫁の立場であったので多忙をきわめていた・・。
もとより田畑を手伝い、食事、洗濯、掃除の責務があり、
昨今の共稼ぎの若き夫婦で幼児を育てられる方たちより、遥かに過酷だった。

食事を作る時は竈(かまど)に枝葉、薪(まき)を燃やして、ご飯を炊いていたし、
洗濯も盥(たらい)に井戸水を入れて、洗濯用の石鹸を付けて洗濯板でゴシゴシと洗い清めていた。

掃除は各部屋の埃(ほこり)をはたきで落とした後、部屋専用の箒(ほうき)で畳を掃(は)き清めていた。
そして風呂も井戸水から運び入れて、やがて薪(まき)を燃やして、沸(わ)かしていた。

この当時の主婦の大半は、ガス、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、瞬間湯沸かし器などはなく、
労苦の多い時代であった。
そして電話、テレビもない時代であった。

こうした中、1950年(昭和25年)の頃に、生家のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。

こうした時、私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。

そして、♪なぐさめ はげまし 長崎の・・、
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
          

確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この当時は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、このような催しが行われた時代でもあった。

私は母に連れられて、近くの寺院の境内で上映されたのは、
映画の『長崎の鐘』(松竹、昭和25年、監督・大庭秀雄)であった。

この時の私が何よりも嬉しかったのは、兄妹のいる中で、母と2人だけ外出したことは、
私の記憶では初めてことであった・・。

やがて帰路、母の手を握りながら、生家に向かう中、満天の星空が圧倒的に綺麗だった、
このような情景が今でも心の片隅に残っている。

無念ながら映画のストリーは忘れてしまったけれど、こうした母恋きの心情を秘めた思い出も重なり、
私は幾つになっても、亡き藤山一郎さんの歌声を聴くと、私は涙ぐむ時が多い。
          

私は後年になると、作詞はサトウハチロー氏、作曲は古関祐而(こせき・ゆうじ)氏と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は、恥ずかしながら無知であった。

その後、私は永井隆(ながい・たかし)氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で1962年(昭和37年)であった。
そして、このお方の少しばかりであったが人生経路を初めて知り、涙で曇った。

やがて6年前に長崎を訪れて、初めて長崎の『原爆資料館』、『長崎市 永井隆記念館』に訪れ、
慟哭し、涙があふれた・・。

私は、ときおり今でも永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された『長崎の鐘』、『この子を残して』などを、
読み改めたり、そして稀な言動に圧倒的に感銘させられている・・。

せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を、
ときおり心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりすることもある・・。
             
     
私は永井隆(ながい・たかし)・著作の『長崎の鐘』は、
随筆の分野に於いて、近代文学史上の突出した優れた作品と評価している。

もとよりこの作品は、1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲によりすぐには出版の許可が下りず、
GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、
1949年1月に日比谷出版社から出版されたことは、周知の通りである。

そして当時は紙不足の中でも、当時としては空前のベストセラーとなり、
同書をモチーフとした歌謡曲はヒットしたり、或いは松竹により映画化され、版を重ねることになった、
と伝えられている。
          

『長崎の鐘』の歌の作詞は、サトウ・ハチロー氏であるが、
氏は作詞を依頼された当初は辞退された、と私は何かの本で読んだりした。
私は後年になって、サトウ・ハチロー氏の弟さんが広島の原爆の犠牲者となっていた、と学び、
こうした氏の思いから、当初は辞退された、と私は推測したりした。

それにしてもサトウ・ハチロー氏の優れた詩心は、
単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌である上、
打ちひしがれた人々のために再起を願った格調高い詞であり、
ここ67年近く、数多くの方に感動、そして感銘させている詞である。


年金生活の中で、私は8月9日の朝は、襟を正して、西の空に向かい黙祷してきた。
やがてぼんやりとしながらも、『長崎の鐘』の歌を心の中で唄ったりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台所で食器洗いを男性の私がしていた時、過ぎし年のささやかな想いで馳せて・・。

2015-04-10 15:21:14 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
年に4回ぐらい家内は、独り住まいの家内の母宅に行っている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
独り住まいの生活をされて、早や11年目となっている・・。
       
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っている。
                    
        
たまたま今回、家内は過ぎし4日より家内の母宅に8泊9日で行っている。
もとより家内は、家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の独りぼっちの生活となっている。

こうした時の私の心構えは、何かとプラス思考の多い私は、
万一、いつの日にか私を残して家内に先立たれた場合、
私は『おひとりさま』となってしまうので、特別演習かしら、と思いながら過ごすこともある。
               
こうした根底のひとつとしては、過ぎし6年前に知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

そして私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に、心痛な思いで深く学んだりした。
                            

平素の私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っている。

こうした中で、私は台所で2日に1回ぐらいのペースで、
午後のひととき、食器洗いをしたりしている・・。

私は家内から借りた可愛らしいエプロンを着て、腕まくりをした後、
スポンジにファミリー・フレッシュなどの食器専用の洗剤をつけて、こすったりし、
この後は水洗いを丁寧にしている。

昨日の昼下り、台所で奮戦していた時、どうした心境が解からないが、
♪嵐も吹けば 雨も降る・・と鼻歌を唄ったりしていた。

やがて5分ぐらい過ぎた時、なんで古い歌謡曲を唄ってしまったの、と独苦笑をしたりした。

その後、確か5年前頃も、こうした食器洗いをしていた時、
大津美子さんの『ここに幸あり』の歌を、かぼそい声で唄っていたことを想いだりした。
          

あの時は私は家内から借りた前掛けをして、腕まくりをして食器洗いをしている中、
♪・・女の道よ なぜ険(けわ)し  君をたよりに わたしは生きる・・
と唄ったりした。

しかしながら家内や私の妹も団塊世代の人であり、専業主婦が多く、
妻が専守防衛長官ように家庭内を維持管理していたので、もとより発言力も増し、
まして平成の時代になると、共稼せきが多い時代に変貌してきたので、
この歌の内容は、死語だょねぇ、と苦笑したりしていた。

そして私は微苦笑しながら、確か1956年(昭和31年)の私が小学5年生の時に、
ラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない・・、と思ったりした。

私はカラオケは苦手であるが、現役時代のサラリーマンの時は、
おつきあい程度に唄ったしてきたが、
この『ここに幸あり』の歌に関しては、とても恥ずかしく唄ったこともないのである。

私の少年期に聴いた曲が、心の片隅にあったのかしら、と少し照れたりし、戸惑ったりした・・。
          


この一年前の4月下旬の時は、今でも心の片隅に残った出来事を秘めている。

やはり前掛けをして、腕まくりをした後、春の外気を取り入れる為、
台所のひとつの戸を開けたりした・・。

そしてCDラジカセを台所の片隅に持ち込んで、一枚のCDをセットした・・。

恥ずかしながら少し山積みとなった皿、丼ぶり、小鉢などを水道水を盛大に出しながら
スポンジでこすり洗ったした。
そして私は心の中は、さぁ~いくぞ・・という心境であった。

♪紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない・・
このようなハードロック・バンドのX JAPANの『紅』の歌を唄いながら、
食器洗い専用の洗剤で皿などをこすった後は、水洗いを盛大にしたりした・・。

この歌を私はかぼそい声であったが、ボーカルのTOSHIに負けじと唄い続けた・・。

この名曲は過ぎし時代には、高校野球の応援歌で、演奏されたりしていた・・。

私は水洗いをしながら、この歌を『一曲繰り返し』セットし、唄い続けたのであるが、
不思議ながら合致するのである。

もとより余りバラードであると、聴き込んでしまうので、
程々のハード・ロックが心身の波長に合うと、小綺麗になった台所で、独り微苦笑したのである。

この後、台所の戸を開けていたので、春の陽射しを受けて、ぼんやりとしていた時、
何故かしら、玄関のチャイムが、
『コッキラ・・コ~ン!・・』と鳴りだした・・。

私は玄関が見える洗面所の窓から、そぉ~と見たら、
30前後の綺麗な奥様が幼児の女の子を伴い、立っていた。
          

この奥様は、私の周辺の住宅街で、突出した美人と私は秘かに思い込んでいる人で、
たまたま自治会の役員をされていた。

そして今回の来宅は、共同募金の収集でお見えになったのだ、と解かったが、
しかしながら前掛けと腕まくりの60代の小父さんとしては、少しあわてたのである。

そして、私は『はぁ~い』と明るく大声で云いながら、
前掛けを取り、玄関で応対したりした・・。

この後、私は15分ほど早かったら、
X JAPANの歌と共に、かぼそい声で唄っていたのであるから、
見せられる格好でなく、今であってよかったよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。


余談であるが、ハードロック・バンドの『X JAPAN』を知ったのは、
遅ればせながら53歳頃からであった。

この後の数年間は、物狂いのように熱愛し、殆ど毎晩CDで聴いたり、
ビデオテープ、DVDの映像作品を視聴したりした。
そして定年後の年金生活の今でも、ときおり聴いたりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログは私にとっては、定年後の年金生活の中、心の中のお友達と確信を深めて・・。

2015-04-09 15:40:29 | ささやかな古稀からの思い
私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めたひとりである。

私が初めてブログの世界を知ったのは、定年後のまもない時であった。
          
我が家に於いてインターネットを開設したのは、私が定年退職する数ヶ月前であった。
この当時の私は、数多くの同世代の人たちと同様に、多忙の現役サラリーマン時期であり、
自宅のパソコンにインターネットを開設したならば、友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、
退職後からすればよいと思いがあったりした。
         
私はサラリーマン時代は情報畑に20数年ばかり従事し、1990年(平成2年)の初めの頃までは、
ある程度は専門畑のひとりとしてコンピュータの世界の動向は解かっていたが、
その後は人事異動して利用者側の間接部門となったので、
先端技術は解からず、ただ社内のパソコンを活用し、業務に従事していたぐらいであった。

このような体験があったが、いざ自宅でパソコンにインターネットを連動させた時、
パソコンなどを取り巻くネットの進化にただ驚き、ため息をつくことが多かったりした。
          

こうした思いの中、私は定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文を綴り、
公開しょうと思案したりしていた。        

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢えた。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであり、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
        
そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、私なりの思いを発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入を決意した。
  
やがて幾つかのブログサイトを彷徨(さまよ)いながらも、
パソコンの故障、国内旅行をしている以外は、毎日一通はつたない投稿文を重ねてきたりしている。
       
そして私が現在加入している【gooブログ】であり、
一時は他のブログサイトに加入して投稿を中止したことがあったが、早や11年生となっている。
                    

私は年金生活をしていると、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどが心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。


そして人誰しも、この人生を歩み中は光と影を有しているので、つたない私でも光と影があり、
特に暗く影のことも、私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しも、
このサイトにためらいながら、マイナスと称される影も私は描写してきた。

たとえば、私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。
或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、私たち五人の子供は成人したこと。

又は三男坊の私が若き34歳の時、自営業をしていた次兄は資金繰りが破綻して、
自殺と称せられる薬物を飲み自裁して、自室で亡くなったこと。

そして私自身の場合は、大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、やがて敗退したことや、
定年の5年前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

このように私はこれまでの人生の歩みの中、心のわだかまりを吐露(とろ)しなければ、
この先の人生を生きて行くことはできない、と思いで発露したりしてきた。

こうした私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきたが、
小心者の私としては匿名であることで、初めて発露できたことである。
                   
       
このような心のうめきごとは、リアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、目の前の人は受け止めることに困り果てることもある、と感じたりしてきた。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションとして読者は受け止めることができるので、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いに於いては同じかしら、と思ったりする時もある。

このような理由も重ねて、私はここ8年、発信名は『風と光』から『夢逢人』と改称したりした。

私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したりした。

         
しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまうことが多く、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、ときおり読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することもある。
                                                                                       

こうした中で、ブログの投稿文を重ねてきた中に於いて、
数多くのブログの投稿文がある世界の中で、たまたま私が投稿文を読ませて頂く中、
瞬時に魅了される諸兄諸姉の投稿文があったりした。

日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて読ませて頂き、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓、苦楽などを学びながら、年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊(ことだま)を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
                                

私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
このお方が投稿するたびに、必ず私が愛読してきたサイトである。

そして諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
熱意ある隠れキリシタンのように私は、秘かに愛読者のひとりとなっている。

こうした中で、投稿されたお方の投稿文を長年読ませて頂くと、お逢いしたこともないのに、
私にとっては心の中のお友達だ、と感じ深めたりしている・・。


もとより私は年金生活をしている中で、サラリーマン時代にめぐり逢えた方、
地元の中学時代、都心の高校時代の学友には、ときおり交流したりしている。

或いはご近所の方たちと、私の亡き母の遺伝を受けたらしく、男の癖におしゃべり大好きなタイプで、
お逢いすれば談笑をしたりしている。

そして国内旅行で、たまたまロビー、食事処で隣席になった人も、
たとえ一期一会でも、談笑を重ねたりしてきた。

しかしながらブログの投稿文を殆ど毎日、愛読させて頂くと、
このようにお過ごしされた、或いはこのような思いが根底にあった・・などを多々学び、
何かしら私にとっては、心の中のお友達だ、と感じ確信を深めたりしている。
                          
            
私はブログを書き始めて、丸10年が過ぎて、早や11年生であるが、
何よりもこの広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、私が投稿文を継続できていることも確かな事であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝している。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金目減り到来の時代、高齢夫婦の年金生活の我が家、微苦笑を重ねて・・。

2015-04-08 14:00:20 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市にに隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
このように国民健康保険、介護保険も支払う高齢夫婦無職の世帯となっている。

この4月の新年度より、公的年金を受給する人の年金が目減りさせる『マクロ経済スライド』が実施された。
          

私は今年の初めの頃『マクロ経済スライド』という言葉に理解できなかったが、
この後の1月30日の『読売新聞』の夕刊に、『マクロ経済スライド』について掲載されていた。

無念ながら少しボケてきた為か、直ぐに理解できず、私なりに新聞記事を再整理して、何とか解ったりした。
そして読売新聞の原文を私なりに再整理したのは、下記の通りとなった。
        
①年金額は毎年度改定され、賃金・物価の変動率に応じて増減する。
 15年度の年金は、過去の賃金上昇率が平均2・3%増だったことをそのまま反映させれば、2・3%増となる。

②しかし、現在の年金額は0・5%分「払い過ぎ」の状態だ。
 「払い過ぎ」は、1999年から2001年にかけて物価が下落したにもかかわらず、
 当時の自公政権が年金額を引き下げなかったことが原因で、今回も適用されるが、
 2015年度で解消され、来年度は無し。

③払い過ぎ解消後の本来の伸びは1・8%で、マクロ経済スライドの0・9%を差し引けば、全体で0・9%の伸び率となる。

④支払われる年金額(モデルの月額)

   2014年   
    国民年金・・・6万4400円
    厚生年金・・21万9066円

   2015年
    賃金上昇分・・・2・3%
      差し引要素・・「払い過ぎ」0・5%
              マクロ経済スライド0・9%
    結果の増加分・・・・0・9%     
       国民年金・・・608円
       厚生年金・・2441円
 
   この結果、4月から、自営業者らの国民年金(満額)は月6万5008円(前年度比608円増)、
   会社員らの厚生年金は、夫婦2人の標準的な世帯で月22万1507円(同2441円増)となる。

   年金は4、5月の2か月分が、6月にまとめて支払われる。

⑤今回、30日に公表した厚生労働省の2015年度の公的年金の支給額は、
 年金抑制策「マクロ経済スライド」の初適用で伸び率が0・9%抑制され、本来の伸びの半分にとどまった。
 年金額は賃金や物価ほど伸びないことになり、4月分から額は増えても、実質的には目減りする。
          

そして私は『マクロ経済スライド』は、高齢者の増加率や平均寿命の延びで、
自動的に決まる抑制率(調整率)分で、
年金の伸びを強制的に低く抑え、高齢化が進んでも年金を破綻させない制度であることを、
新聞などで学んだりしてきた。

もとより国民年金、厚生年金、公務員の共済年金などの約4000万人の受給者が適用されて、
2004年に制度ができて、今回初めて適用された。

私は個人的には、「払い過ぎ」とマクロ経済スライドにより、
厚生年金の表面上の絶対支給額は、マイナスになるだろう、と思ったりしてきた。

やがて賃金上昇分が2・3%と知り、表面上は2441円増加と解ったりしたが、
実質的には目減りとなり、微苦笑させられたりした。

その上、総務省が1月30日に公表した2014年の物価は、前年に比べ2・6%上昇して、
伸び率としては、バブル経済末期の1991年(2・9%)以来、23年ぶりの高水準、と学んだりした。

このように表面上の絶対支給額は確かに増えたけれど、物価の上昇により、
実質は減少してしまった、苦笑したりした。
          


昨今は年金改革の中に於いて、高齢者の年金を具体的に引き下げられてきた・・。

私としては、感情的になれば、敗戦後の荒廃した日本は、
敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、誰しも貧乏な時代を体験してきた。

食べるものに困窮したり、衣服も着替えられる余裕も少なく、まして住む家屋は困苦し、
衣食住に困惑した時代であった。

こうした当時、私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の主要国の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であるので、
私は学ぶえば学ぶほど、殆どの先代の諸兄諸姉に、敬愛ざせられてきた。

そして後続する私たちの世代は秘かに学びながら奮戦し、やがて団塊の世代も奮闘してきた。

こうした成果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。
         
その上、経済地域の大都市と地方の格差はあるが、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、 医療の充実もあり、
主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。

このように日本が経済大国になれたのは、少なくとも高齢者が奮闘した成果であり、
一部の政治家、官僚の舵取りが誤って、失われた20年となり、
借金に頼らず税収で賄える国と地方の基礎的財政収支が悪化したので、
今頃になって高齢者の年金を引き下げるなんて、とんでもない、と私は感じる時もある。
                         

しかしながら心を静めて理性的になると、日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実がある。

そして年金も現役世代が払う保険料で
高齢者に年金を支給する「世代間扶養」の仕組みを取っているので、
団塊の世代が65歳を過ぎた現在、社会保障を長らく支えてきた団塊の世代が、
「支えられる世代」となって、若い世代に重い負担を強いることになってしまった現状である。

そして周知の通り、失われた15年での中、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化し、
ここ10年は特に、たえず短期に成果を問われる勤務となり、
たとえ大企業の正社員であっても、常時リストラ時代と称せられ、安住できない時代となってきた・・。

こうした過酷の中で働いて下さる現役世代の諸兄諸姉の人たちは、
このように熾烈な状況の中で奮戦している。
          
       
そして過酷な現実として、年金、医療、介護なとで、毎年一兆円が増加している。

こうした状況が放置すれば、現役世代の諸兄諸姉からすれば、高齢者は過重負担する人たち、
と思いながら険悪し、粗末にする風潮も予測できる。


この後、2014年度の年金給付総額は56兆円となる中、
公的保険料から35・4兆円、国から補助12・4兆円、積立金の運営収入など8・2兆円、
と実態を改めて知ると、私は少なくとも年金の実質減額は、やむえないなぁ、と私は微苦笑したりした。
          

しかしながら世の中の公的年金を受給されている方たちに関して、
厚生労働省のモデルケースは、あくまで平均値であり、
樹を見て森を知らずのように、私も知人、友人たちの多くから、それぞれの実態を学んてきた・・。

たとえば民間企業に勤められた方でも、日本は長年、大手企業と中小企業の企業間格差について『7・5・3』があり、
大手企業に対し中小企業は、月給が7割、賞与5割、退職金は3割、と一般的にそれぐらいの差がある、
と伝えられきた・・。

そして大手企業数は1%で、中小企業数は99%の実態の中で、
たとえば大手企業から取引傘下などの中小企業に対して、コスト削減要求などもが厳しく、
たえず多く面に冷遇されている実態がある。

私の場合は、民間会社の大手企業に中途入社し、まもなく新会社が設立され、私は転属させられて、
この中小業の会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
          

民間会社に勤められた多く人の公的年金は、1階が基礎の国民年金があり、
2階には厚生年金があり、更に大手企業などが自主的な積み上げられた企業年金がある。

私の知人のひとりが、工業高校を卒業して、大手企業の技術畑に42年勤められた人で、
定年後の企業年金の額をたまたま私は教えられ、そんなに頂いていることに、私は驚ろいた時もあったりした。

或いは友人のひとりが、中小業に勤められ、リストラ烈風の中、50歳で退職を余儀なくされて、
その後18年、やむなくタクシーの運転手で奮闘されていた。

そして私の中学時代の学友のひとりは、駅前の商店街で和菓子屋を父から引き継いで長年し、
昨今はご子息に代を譲り、日中は7時間手伝っている、と私は聞いたりした。

何かしら10年前に付近におしゃれな和菓子屋が出来しまい、売り上げは激減している、
と聞きながら、俺は国民年金だけだから、お前さんは厚生年金があるからいいよなぁ、と私は言われたりした。

やがて私は学友と別れた後、学友はバブル経済の頃に乗用車の高級車を乗り、頻繁にゴルフ場に通っいるよ、
とクラス会の時に、さりげなく私は言われて、
この当時の私は、睡眠時間を削り勤務に奮闘しながら住宅ローンなどを返済していたので、生活に余裕もなく
この学友に羨望したりしていた。
          

このような公的年金を受給されている人は、それぞれの歩んできた人生航路があり、複雑な思いでいる。
せめて我が家は、これからも大病もせずに明るく過ごせれば・・、と私は家内に言ったりする時もある。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜花の花衣(はなごろも)の中を歩き、やがて年々歳々と心の中で思い重ねて・・。

2015-04-07 14:55:22 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身である。

私の住む地域は、平年は3月20日前後から染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が最初に咲き始めると、
その後に山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲くが、
今年の冬は三寒四温が激しく、桜が咲くは遅いかしらと感じたりしてきた。

私は桜花(さくらばな)に関しては、ここ10数年は三分咲きに心を寄せたりした後、
やがて満開の情景にも愛(めでた)りしてきた。
          
或いは自宅の近くに流れる野川の桜並木の遊歩道を歩いたりすると、
花びらが散乱して、歩道の脇には絨毯のように花びらが重なったりする。

こうした情景を観ると、 私は立ち止まり、数多くの桜花を見たりすると大半は小枝に残っているが、
ときおり微風が吹くと、花びらが小枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
やがて地上に落下する。

古来より、桜の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきたことに、
思いを重ねたりした・・。

私は桜花に関しては、3分咲きに魅了されるひとりであるが、
やはり花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散る光景に、確かな美を感じてきた。

このような情景に私は見惚(みと)れてたりしてきたが、
遥か1000年前の人たちも、私のように感じる人が多いかしら、と思わず微笑んだりしてきた。
       

そして私は桜花を観る時、齢ばかり重ねた身であるが、
今年も大病もせず、天上の神々の采配で生かしてもらっている、と思いが強く、
毎年、花衣(はなごろも)の情景を眺めていると、過ぎし日々に愛惜を重ねることが多い。

或いは野川の水の流れを見たりしていると、
川面は陽春の陽射しを受け、光を帯びながら清き流れとなっていた・・。

そして川辺に枯れた薄(すすき)の群生に、桜花が重なっていて、
やがて水の流れに巻き込まれ、花筏(はないかだ)のように下流に向かい、ゆっくと流れていた。

このような桜花のうつろう情景に心を寄せてきた。
          

こうした中で、自宅の周辺の雑木林を歩き廻ったりしていると、
このようなところに桜があったことは知らなかったよ、と教示されることもある。

そして私は山桜を見かけると、 私が若き34歳の時、
自営業をしていた次兄が、資金繰りが破綻して、突然に自裁されたので、
私はこの山桜に心を託して、山桜の咲く時になると、次兄の言葉、しぐさを思い浮かべたりし、
何かとお世話になった次兄を思い馳せたりし、36年過ぎている。
          


こうした桜花に思いを秘めている私は、昨日の淡き陽射しの中、
自宅の付近に流れている野川の遊歩道を散策した・・。

過ぎし3日には強い風が吹いたので、満開だった染井吉野(ソメイヨシノ)、山桜(ヤマザクラ)も、
あえなく散ってしまっただろう、と思いながら桜並木をめざして歩いたりした。

やがて桜並木の下を歩いたが、ときおり風もなく、花びらが舞い降りたりし、
路の片隅には吹き寄せのように桜花が散乱していた。
       

しかしながら川面を眺めても、無念ながら花筏(はないかだ)の情景には、めぐり逢えなかった。
       

やむえなく近くにある小さな庭園風の池を眺め、桜花が水面に浮いている情景を眺めたりした。
       

やがて再び歩きだして、ときおり見上げると、残り花に見惚れたりした。
       

そしてボンヤリと歩きながら、不意に『年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・』、
漢詩のひとつをが脳裏に占めた。

もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の作品から学んだひとつの詩である。

歳月は過ぎ去ってしまえば、実に早いと感じたりし、
毎年この季節は同じように、桜花が巡って来ているように思われるが、
この桜花を観賞できる人は変っている・・。

私はこのように解釈しながら、人生のはかなさ、哀歓を若き二十歳の時に、
この詩を学びだし、早くも50年の歳月が流れてしまった。
       

私は古稀と称せられる70歳となってしまったが、年金生活を10年過ごしてきた中で、
同世代の英知のある知人や友人に5人も死去され、
つたない私がこうして生きている・・。

たまたま今回、桜花を眺めたりすると、このような思いになってしまったのである。

やがて痛切感を振り払うように、プラス思考に転じて、
日常の日々こそ、何よりも肝要であり、惰性に過ごすことなく、
残こされた人生の日々を大切に過ごそう、と帰宅に向かって歩き出した。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ときには『おひとりさま』の特別演習の中、相変らず指差し点検に、独り微苦笑して・・。

2015-04-06 15:02:10 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
独り住まいの生活をされて、早や11年目となっている・・。
       
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で年に4回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。
       
              
        
たまたま今回、家内は過ぎし4日より家内の母宅に8泊9日で行っている。
もとより家内は、家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の独りぼっちの生活となっている。

こうした時の私の心構えは、何かとプラス思考の多い私は、
万一、いつの日にか私を残して家内に先立たれた場合、
私は『おひとりさま』となってしまうので、特別演習かしら、と思いながら過ごすこともある。
               
こうした根底のひとつとしては、過ぎし6年前に知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

そして私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に、心痛な思いで深く学んだりした。
                  

平素の私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っているが、
いつも感じさせられることは、主婦の人はさりげない知恵と体力で日々の家事全般の責務を果たしている、
と幾たびか実感を深めたりしてきた・・。
          
こうした中で、今回も独りぼっちになってしまい、何かと愚図でノロマの私でも、
朝一番に行うことは、台所にある調布市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の指定日を確認して、
これに対応して、調布市から指定された道路に面した門扉に置いたりした。

そして、最優先として一合ばかりのお米を洗い、五穀米を加えて電気炊飯器に10分後にセットした。
この後は読売新聞の朝刊を読みながら、煎茶とゴールトブレンドと明記されたインスタントコーヒーを飲んだりした。

朝食は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』の真似事をしている。

私は何かと単細胞の為か、キャベツとニンジンの千切りした盛り合わせを前菜とした後、
五穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
そしてコブの佃煮、ラッキョ、福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
日々貫徹のように食べたりしてきた。

しかしながら、ご飯の一合は多すぎるので、半分はラップに包んで、
こっそりと冷蔵庫の片隅に保存し、翌朝に電子レンジで温めて、頂いている。
従って二日に一回だけ、お米を洗いのが実態となっている。
       

昼食は煎茶とインスタントコーヒーを飲みながら、
つぶあん、こしあんのアンパンを食べたりしてきた。

夕食は2日に1回、スーパーで買い物をし、野菜コーナー、肉類コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、
適度に選定し、煎茶を飲みながら食べたりしてきた。

しかしながら独りだと話し相手がいなく寂しいので、缶ビール500mlを2本だけ呑んだり、
或いはウィスキーをオンザロックして数杯を呑みながら、テレビのニュースを視聴したりした。
         
          
洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機で、洗いから乾燥までしてくれるオール自動セットに頼り、
パジャマ、肌着、タオルなど2日に1回まとめて、
あとはお願いねぇ、と洗濯機に向って呟(つぶや)くことが多かった。

日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたりしているが、
本音を発露すれば、埃が多少あっても生死に影響はない、と3日1回ぐらいとなっている。

こうした中で、家内から借りたエプロンを着て、台所で皿洗いをしたりしているが、
現役時代のサラリーマンだった業務よりも、ただちに成果が感じられて小奇麗になるので、
水遊びを兼ねて楽しんだりしている。

こうした時は、なぜかしら古き良き時代の歌謡曲をかぼそい声で幾度も唄いながら、
皿洗いをしたりした。
    

この間、平素のように本を読んだり、居間でビデオ棚から映画の作品を観たり、
或いは音楽棚から聴きたいCDを取りだして聴いたりしてきた。

このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、もとより家内のいる平素の日常生活から落第生となっている。
       

平素の我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私であり、
夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりしている。

こうしたことは年金生活を数年過ぎた頃、現役サラリーマン時代の緊張感が薄れてきた上、
ボケてはいけないと思い、せめて家内への返事とか戸締りの点検なとで言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりしている。

独りぼっちの昨今でも、万一不手際で火災とか盗難に遭遇すると困窮するので、
相変わらず指差し点検を行い、何故かしらかぼそい声で言ったりしている。

しかしながら報告する相棒がいなく、独り微苦笑したりしている。

何よりも私の母からの血筋を受けた私は、恥ずかしながら男の癖におしゃべりの為、
話し相手がいなく寂しいが本音となっている。
       

余談であるが、年金生活を始めた2004年(平成16年)の当初の頃に、
作家の曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言を学び、
今回も私は叱咤激励されながら過ごしているが、手抜きが多いので『おひとりさま』の劣等生かしら、
と苦笑したりしている。
       
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

       
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春爛漫の後、天上の気候の神々の悪しき采配に、東京の片隅に住む私は戸惑い・・。

2015-04-05 13:20:08 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
結婚前後の5年を除き、65年ばかりこの地域に住んでいる。

過ぎし3月28日の土曜日には、急速に4月中旬のような陽気となり、
都心の各所で桜花が満開、と報じられてきた。

そして私の住む地域でも、翌日に満開となり、私は自宅の周辺を歩き廻ったり、
自宅の近くに流れている野川の遊歩道を散策し、桜並木の多い中を歩きながら愛(め)でたりしてきた。
       

或いはベンチに腰かけて、見上げたりしながら見惚(みと)れたりしてきた・・。
       

こうした中で。こうした中で、欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジ、ツツジなど雑木は、
木の芽時(このめどき)と称せられる芽吹きに、めぐり逢えたりした。

私は幼年期に農家の児として育った為か、
木の芽時(このめどき)から幼いあまたの葉を広げて、萌黄(もえぎ)色に染められる、
こうした季節のうつろいを眺めるのが、この世で最も好きな情景のひとつとなっている。
       

       

或いは我が家の小庭の情景を眺めたりしてきた。
       

そして私は素足で下駄を履いて小庭を歩き、ときおり微風を受けても、
風は甘く感じられ、身も心も心地よかった。
       

       

こうした情景を見ていた私は、春爛漫だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
      

やがて一昨日の3日は午前中は快晴、午後より曇りとなる中、ときおり強く風が吹いたりした。
こうした中、地元の中学時代の友から電話を頂いた最後に、
あちらこちらの桜が散っているよ、と私は教えられたりした。

この後、ぼんやりと桜花が散る情景を思い浮かべて、
古来の人たちは、このような情景を花衣(はなごろも)と称してきた思い重ねたりした。


昨日は曇り時々小雨の降る日であったが、
朝の6時は13度、平年より暖かったが、昼下がりには12度、夜の6時は11度となり、
日中は3月の中旬のような寒さに戻ったりした。

そして私は春秋の長袖のスホーツシャツから、風邪は天敵だょ、
と思いながら冬用のスホーツシャツに着替えたりした。

今朝、ぼんやりと地元の天気情報を見ると、
朝の6時は8度、昼下がりには13度、夜の6時は12度となり、
小雨時々曇り、3月の中旬のような寒さ、と報じられていた。

この後、この先の一週間を見ても、
明日の6日は曇り一時晴れ、4月中旬のような陽気の後は、
晴れマークが5日連続がなく、雨マークが多いである。

特に8日には、最高気温は9度前後が予測され、
2月頃の寒さかしら、と思ったりした。

何かしら天上の気候の神々は、ご機嫌が悪く、このような采配にしたの、
と私は小雨降る空を見上げながら、戸惑ったりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死ぬよりも上手に老いることが難しい時代、この事項だけは回避したい願い・・。

2015-04-04 14:07:29 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年生の70歳の身である。

午前のひとときに小雨が降っていたので、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中で、
『老人たちの裏社会、余生は生き地獄になった』
と見出しを見て、副題として『死ぬよりも上手に老いることが難しい時代』と明記され、
どういうことなの、と思いながらクリックした。


この記事の根源は、新郷 由起 ・著の『老人たちの裏社会』(宝島者)の単行本として、
2015年2月10 日に発刊されたものである。

そして『東洋経済ONLINE』公式サイトに於いて、
『カルチャー』系の『今週のHONZ』の中で、《オススメ書評はこれだ!!》コーナーで、
担当者の栗下直也さんが2015年3月28日に書評された記事である。

無断ながら、この記事を転載させて頂く。

《・・65歳以上の高齢者の万引きの増加が話題になったのは20年ほど前だったか。
当時は全体に占める割合が1割に達したことで注目を集めていた。

本書『老人たちの裏社会』(宝島社)によると、
警察庁発表の犯罪統計では高齢者による万引きは2011年には未成年者の検挙数を追い抜き、
直近の公表値である2013年は32.7%を占め過去最高を記録したという。
万引き犯の3人にひとりが65歳以上という状況だ。
人口全体が高齢化していることを踏まえても異常な増え方だ。
       
  
万引きだけではない。
ストーカーも60代以上の2013年度の認知件数が10年前の約4倍に増え、
ほかの世代の1.7~2.6倍に比べて高い増加率を示す。

驚くべきなのは暴行の検挙数。
2013年には1994年比45倍超の3048人に急増している。
原因も「激情・憤怒」が60%以上を占め、次点の「飲酒による酩酊」の14%を大きく引き離す。

酔っぱらって、「何だ、この野郎!」と酒場で暴れる老人を想像しがちだが、
本当に凶暴なのはしらふなのに公共交通機関などで、些細なことにぶち切れまくる老人が大多数なのだ。

著者は投げかける。
       

“ほんの少し前まで、老人は-中略-社会的弱者としてとらえられていた。
ところが、今や街では万引きをしまくり、激高しては暴力に訴え、
勘違いを募らせてはシニアストーカーに転じ、「死ぬまでセックス」とばかりに色欲にハマるなど、
「若者のお手本となる先人」どころか、老害を撒き散らすだけの暴走ぶりが目立つ”

彼らに何が起きているのか。
統計データをなぞりながら、万引き、暴行、ストーカー、売春などに走る高齢者を取材し、
本書では異様な実態を明らかにする。

簡単に死ねない時代になった

「唯一の憂さ晴らし」と5年前に突如目覚めた万引きをやめられない86歳の女性。
毎日のように69歳の女性に自分が詠んだ句を添えて郵便ポストに手紙を差し入れる80歳男性。
68歳の女性は色目をつかって、孤独な男性たちの預貯金から3000万円以上を搾り取る。

寂しいから、社会から孤立してしまっているから。
犯罪白書は老人の犯罪を語る。

確かに孤立死も急増している。
80歳以上の自殺者数は年2500人を上回る。
なぜ寂しいのか。なぜ孤立してしまうのか。
簡単には死ねない時代になったからである。
       

“これまでは「やり残したことはないか」「命を燃焼し尽くして人生を生き切ったか」などと追及、
検証する間もなく先に寿命が来てしまっていた。
余計なことを考える間もなく、生活に追われ、生き続けるのに必死なうちに息絶えるのが当たり前だったのだ。 ”


“死ぬよりも、上手に老いることの方が難しい時代になってしまった。 ”

最終章の章題は「生き地獄化する余生」である。
悟りの境地に達した老人は、漫画の世界だけなのだろうか。

悶々としてしまうから、「生涯現役」と悪びれもせずにストーカーに走る。
自らが80歳を超えながら70歳の妻をDVする。
「女として輝こう」の謳い文句に釣られ、62歳でホテヘル嬢になる。

タイトルに「裏社会」とあるが、残念ながら、もはや「裏」とは言えない現象になってきている。
本書に広がる世界は、我々全員がこれから対峙しなければならない社会そのものである。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
       

昨年の「敬老の日」に合わせて、総務省は9月14日に於いて、15日現在の高齢者の人口推計を公表した。
65歳以上の高齢者人口が3296万人(総人口の25・9%)、
75歳以上が1590万人(同12・5%)となり、いずれも過去最高。
「団塊の世代」の1949年生まれが65歳になったのが一因で、4人に1人が高齢者、8人に1人が75歳以上となる。

男女別としては男性の高齢者が1421万人(男性人口の23・0%)、女性が1875万人(女性人口の28・7%)。
そして年齢別では、70歳以上が2383万人(総人口の18・7%)、80歳以上が964万人(同7・6%)。

また、5年ごとに行われる住宅・土地統計調査(2013年)によると、
高齢者のいる世帯は2086万で、初めて2千万世帯を超えた。うち高齢者の単身世帯は552万世帯に達した。

このような実態を70歳を迎える直前の私は、改めて超高齢化社会と実感させられた・・。
       

私は平素の買物専任者で、スーパーや専門店に往還する時、
狭い歩道を歩いたり、或いは街中で私より先代の諸兄諸姉とすれ違う時、
たとえ両手に重い荷物を持とうが、道を開けている。

或いは公園などでポッンとベンチに座っている方を見かけると、最低限として挨拶程度の言葉をかけたりしてきた。

こうしたことは、少なくとも先代の諸兄諸姉に対して、礼節と思っている。

昨今の65歳以上の高齢者の諸兄諸姉は、一部の方で病院に通院されながらも、
全般としては溌剌と生活されている、と付近の方たちを見て、感じたりしている。
     
しかしながら時折、困惑することもある。

たとえば、公共の場で恥知らずな言動をするグループを見かけると、老害と思っている。
特にご婦人の方に多いのは、女性にいつまでも憧憬(しょうけい)している私としては、
はなはだ残念と思ったりしている。

あなた方の持っていた羞恥心という美徳はどうされたのですか、人前でご迷惑を感じていないのですか、
そして、お孫さんに恥ずかしくないのですか、と私は憂(うれ)う時もある。

このような高齢者の社会実態をぼんやりと思ってきた私は、
今回の記事に動顛させられてしまった・・。
       

日頃のご不満を、《・・しらふなのに公共交通機関などで、些細なことにぶち切れまくる老人・・》、
《・・「唯一の憂さ晴らし」と5年前に突如目覚めた万引きをやめられない・・》、
《・・80歳を超えながら70歳の妻を暴力する・・》など、
少なくともこうした狂気の事柄は、私は回避したいと念願する。

人は誰しもときには理性を越えて、感情だけの言動になるが、殆どの人はそれぞれのストレスを、
それなりに解消している。

私の場合は、政治とか社会に不満があったなら、近代史の本を読めば、この世の不条理な実態を学ぶことができるし、
自身のつたなさを嘆き、やるせない時は、早めに風呂に入った後、早めに寝るとか、
読書か音楽を聴き、自身を叱咤激励したりしている。

或いは散策をして、四季のうつろう情景を眺めて解消する時もある。

しかしながら私が認知症になってしまった時は、理性もうつろとなり、どのような言動をとるか、
私の老後の最大の問題でもある。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定年後に年金生活を過ごしてきた私、70歳を過ごす中で初めて実感させられたことは・・。

2015-04-03 16:15:07 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

私も定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして過ぎ去った60代の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
       

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

2004年(平成16年)の秋、年金生活の当初は、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
       

そして私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
                 

定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、平素の買物専任者を自主宣言したのであった。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

こうした中で、私は66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて、何とか克服してきたので、
糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、ひたすら歩くことが多くなっている。
                 
      
この後の大半は居間で過ごしたりすることが多く、何かと随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。
定年後の年金生活の単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は買い求めたりしている。
或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。

新聞は『読売新聞』を40年近く購読しているが、気になり記事を更に深く知りたい時は、
総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】に縋(すが)り、
多々教示されている。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。


このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
       

こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。

私たち夫婦は、子供に恵まれなかった為か、新婚時代から幾たびか旅路を重ねてきた。

現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。

こうした中で私たちは観光ホテルなどに滞在して、周辺の山里、遊歩道、街並みの中をひたすら歩き、
その地の情景を観ながら風土、文化を教示されて、遊学したりしてきた。

そして観光ホテルなどに帰館すれば、心身共に解放感が満たされる露天風呂、大浴場に入り、
享受したりしてきた。

そして早朝、夕食前など時に広い露天風呂などで、たったひとり身を預けたりすると、
更に心も身も解放された上、四季折々の中のひととき景観を観ながら、圧倒的に充たされたりしてきた。
                 

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
       

こうした60代の中で、多くの退職された方たちも同様と思われるが、
過ぎ去る年の会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、孫の世話で・・自身の病院の治療、或いは親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっているのが、
私の周囲には多くなっている。
   
こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
       

やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、昨年の9月に古稀と称せられる70歳になり、
家内も12月に高齢者入門の65歳となり、お互いに介護保険を支払う無職高齢世帯となった。
       

昨今、同世代の知人たちと懇親会の中で、何かしら葬儀の話題が多くなっている。
たとえば現役時代だったら葬儀に多くの友人、知人に来て貰いたいが、
今や退職後の10年・・自分なりのささやかな家族葬で執り行って欲しいよ、
と私は聞いたりしている。

そして昨今の私は、布団の中で目覚めた後でもボンヤリとして正気には程遠く、
やがて起床してボンヤリとして煎茶を飲んだりして、
15分ぐらいの後に正気になり微苦笑することが多くなっている。

こうしたことは少なくとも60代には感じなかったことであり、
体力の衰えを増したのかしら、と苦笑してしている。

そして少しメタボの私は、痩せようと太ろうと元気であれば良いょ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

或いは亡き作家の渡辺淳一さんが、その歳になって見なければ解らない、
と確かこのような言葉を発露されていたので、
そうですよねぇ、と定年まで敗残者のような人生航路を歩んで私でも、同意したりしている。
       

いつの日にか私たち夫婦は、片割れとなり、残された方は『おひとりさま』となるが、
果たして・・と年に数回は思案したりしている。

しかしながら私は何とか60代を大病もせず卒業できたが、
不幸にも知人の病死、大病で入退院している友人を思い重ねれば、涙を浮かべたりしている。

そして現役サラリーマン時代でも、幾たびのリストラ烈風の中、
何とか障害レースを乗り越えて、敗残者のようなつたない私でも、
五体満足で生かされているのは、選ばれたひとりかしら、と微苦笑したりしている。

余談であるが、私は定年後まもない時にブログを知り、
60代から日々投稿を重ねてきたが、70代になると訪問者数が半減してしまい、
やはり70代でブログを投稿を続ける方は少ないのかしら、と微苦笑する時もある。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

薫風と風光る時節を迎え、最良の時かしら、と私は微笑みながら・・。

2015-04-02 14:31:03 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして家内は65歳となり、雑木の多い小庭に築後37年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、朝食前に居間の食卓テープルで、私は煎茶、家内はコーヒーを飲んでいた時、
『桜も満開となり、ここ一週間過ごしやすかったよねぇ・・』
と私は私に言ったりした。

『そうよねぇ・・』
と家内は私に応(おう)じたりした。

そして小庭は快晴の陽射しの中、モミジの幼き葉が広げ始めたりとている情景を私たちは眺めたりし、
『今の季節が・・一番綺麗よねぇ・・』
と家内は私に言ったりしたりした。
          

やがて私は小庭の片隅にあるテラスに下駄を履いて下り立ち、
素足でも寒さも感じず、ときおり微風を受けたりすると、心地よかった。
          

そしてぼんやりと、塀際の常緑樹のアカネモチは朱紅色の新芽が勢いよく伸ばして、
あのように毎年たんたんと元気よく新芽に、体力が衰えてきた私は羨望して、微苦笑したりした。
          

或いは紫木蓮(シモクレン)が咲いているのに、見惚(みと)れたりしていた。
          

この紫木蓮(シモクレン)は、2月下旬の頃に白梅が咲きはじめる頃、
落葉した枝葉の裸樹から、枝先に数多くの萌黄色の莟(つぼみ)が観られるようになる。

この頃になると、この莟(つぼみ)を小鳥が飛来して餌(えさ)の不足の早春時期に食べてしまい、
半分ぐらいを残してねぇ、と私は思ったりして毎年過ごしているが、
無念ながら大半を小鳥が食べてしまった後、この時節になると30数輪が咲いている。

私は農家の児として育った幼年期には、生家の庭の外れに大きな紫木蓮があった。
そして私は子供心に、品のある花だと思っていた。

やがて私が37年前頃、家を建てた時、ある程度の配置で植え込んだりした。
この花は平年ならば3月の下旬から4月の終わる頃まで、
次々と開花し、高貴な花の容姿と色合い、そして気品ある香りを彩(いろど)ってくれる。

そして花の盛りを過ぎると、花びらが周辺に散り、黒土の上に重ねはじめる・・。

その後、新梢が伸び花芽が付いたりする。
やがて幾重に伸びきった枝葉を入梅の頃に剪定すると、
入梅のひとときの晴れ間の日、再び花が咲き、花の少ない時期の私は喜んでいたりしている。

そして10月の中旬になると、黄葉し、やがて茶色に染められ後、落葉する。

このような移ろいを私は想い返して、陽春を受けている花を見詰めている。


わが家の小庭の片側の一面は道路に接して、この側面にマンションが建っている為、
陽当たりの少ない所にあり、今の時節は藪椿(ヤブ・ツバキ)の朱紅色、紅色、濃い紅色の花びらが、
彩(いろど)っている。
          

或いはここ7日前より、群生させた鈴蘭(スズラン)水仙が咲き始めている。
          

このような小庭にある情景を眺めたりすることが多い。


私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。


定年後に年金生活を始めた私は、平素の買物専任者となり、家内から依頼された買物の責務を終えた後、
自宅の周辺の3キロぐらいの範囲にある遊歩道、小公園などを歩き、四季折々のうつろいを享受している。

そして、こうした中で感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

日常の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりして過ごしている。
       

私の住む地域は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅であり、
私の生家にも近く、この地域には結婚前後の5年を除き、早や65年近く住んでいる・・。

そして最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
或いは私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。

しかしながら我が家の周辺は、それぞれ住宅が密集している住宅街となっている。


こうした中で、ときおり京王線の『仙川』駅前に買物、本屋に行ったりすると、
往復するたびに、付近にある都立の神代高校、或いは桐朋学園の高校生、大学生の人たちをよく見かける。


こうした時、過ぎし50数年前の高校生の頃は、
棉か絹のブラウスとスカートの容姿で、楽譜を抱きしめるように持ちながら、
真摯に音楽を学ぶ学生に、私は眩(まぶ)しく見え、好感したりしていた。

やがて私が27歳前後に、他の音楽専門大学を卒業した25歳の女性でピアニストをめざしている方に、
交際を重ねて、私の生家に来て頂いたり、
幾たびかこのお方のご自宅に行き、このお方の母親に私は可愛がれたりした。

まもなく私はプロポーズしたが、サラリーマンに相応(ふさ)しい奥さんには私はなれないの、
とこのような意味合いの言葉を私は言われてしまい、はかなくも私は失恋した、苦い体験もある。

こうしたささやかな体験がある私は、現代の桐朋学園の高校生、大学生の人たちを見かけると、
少しばかり複雑な心境で苦笑しながら、今・・頑張ばらなくて・・いつ学びのよ、
と心の中で声援したりしている。

私は恥ずかしながら楽譜も読めなく、どの楽器も弾けない拙(つたな)い身であるが、
ときたま音楽を聴くのは好きであり、その日に応じた感性を頼りに、音楽を聴いたりし、
ときおり何かと単細胞の私は、感動するあまりに、涙ぐむ時もある。


日頃の午前中のひとときは、私は自宅の周辺の3キロぐらいの範囲にある遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
この時節は、自宅の近くに流れている野川の両岸にある遊歩道を歩くことが多くなっている、

昨今、満開となった桜花に見惚(みと)れながら歩いたりしている。
       

或いは、欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジ、ツツジなど雑木は、
木の芽時(このめどき)と称せられる芽吹きに、めぐり逢え、長らく見惚(みと)れたりした。
       

私は幼年期に農家の児として育った為か、
木の芽時(このめどき)から幼いあまたの葉を広げて、萌黄(もえぎ)色に染められる、
こうした季節のうつろいを眺めるのが、この世で最も好きな情景のひとつとなっている。

この時節は寒さも感じず、暑さもなく、一年で一番過ごしやすい時節かしら、と微笑むことが多くなっている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月の桜月に愛惜を秘めて別れを告げて、新たな4月は清浄明潔の月を迎えて・・。

2015-04-01 14:02:26 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であり.
今朝ぼんやりと3月のカレンダーを切り剥がしながら、『弥生(やよい)』の3月と明記されていたが、
私の住む地域は 『桜月(さくらづき)』だった、と微笑んだりした。

古来より2月は梅の花が咲き、3月は桃、やがて桜の花が咲いてきたので、
3月は『桜月(さくらづき)』、『桃色(ももづき)』と称せられ、
寒い冬を耐えて過ごしてきて、暖かな春の訪(おとず)れに、
数多くの人々が悦(よろこ)び感じて過ごす時節である。
       

しかしながら私の住む地域では、昨年の12月頃から平年より寒く、
三寒四温が激しく、齢ばかり重ねた私でも、
天上の気候の神々の采配に戸惑い、どうしてなのょ、と空を見上げたりしてきた。

平年ならば1月には日本水仙の花は咲き、冬麗の美を感じ、
2月中旬には白梅は凛とした純白の色合い、紅梅は華やかな朱紅色の色あいを見せてくれるので、
早春の美だ、と思いながら毎年過ごしてきた・・。                         

過ぎし2月20日になって、玄関側の小庭にある白梅が、遅れてご免なさい、と言ったように、
恥じらいながら3輪ばかり咲いたりした。

やがて2月の月末に、澄み切った青空で陽射しは燦燦(さんさん)と、風もなく暖かい3月下旬のような陽気となり、
ベランダのある小庭の白梅は、数多くの莟〈つぼみ〉か大きく膨らんできた。

そして3月を迎えると、我が家の小庭は遅ればせながら日本水仙、白梅、紅梅が、
仲良し恋しと彩(いろど)ったりしてきた。

やがて突然に幾たびか4月の中旬のような陽気に恵まれて、遊歩道を歩いたり小公園に寄ったりした時、
白梅、花桃、そして平年より早くも桜花まで3月にめぐり逢えた。
              


こうした中で、欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジ、ツツジなど雑木は、
木の芽時(このめどき)と称せられる芽吹きに、めぐり逢えたりした。

私は幼年期に農家の児として育った為か、
木の芽時(このめどき)から幼いあまたの葉を広げて、萌黄(もえぎ)色に染められる、
こうした季節のうつろいを眺めるのが、この世で最も好きな情景のひとつとなっている。

そして私は、見惚(みと)れながらも、何よりも愛惜を感じながら、
ときおり天上の両親、祖父などを思い浮かべたりして、何かと励まされてきた。
       


過ぎ去りし3月は、初旬には日本中の女の子をそれぞれのご家庭で慶(よろこ)び祝う『桃の節句』、
下旬の初めには新たなる旅立つの『卒業式』などが祝賀され、
こうした中で働いて下さる新たなる社会人が不安と希望を秘めてスタートされる時節でもある。

そして社会の中核である働いて下さる諸兄諸姉も、再就職や人事異動などで、
新たなる職場に配属され、戸惑いながらも意欲充分な志(こころざし)で、勤務される時期でもある。

私はこうした時節は、定年後に多々の理由で年金生活を始めて、早や11年生になった今、
それぞれの人々の人生の門出に、微笑ましく感じて、
3月は『桜月(さくらづき)』だったと感じ深めていたのである。
         


新たな『卯月(うづき)』の4月のカレンダーを見ながら、
卯月と命名されたのは旧暦で、現在より40日ばかり遅い初夏に近い時節で、
里に多い落葉樹のウツギの樹から名付けられた、と古人から伝えられているので、
少しばかり私は戸惑っている。

4月は世の中は新年度の始まるが多い中、小学生の入学するピカピカの一年生、
新たに中学、高校、大学を入学されたり、或いは進級される方が数多い・・

そして企業に於いては、緊張感の中で新社会人となり、『入社式』が数多くの会社で実施されている。

私はこの4月の時節は、近くの公園、野川の遊歩道を散策したりとすると、
木の芽時(このめどき)と称せられる雑木のモミジ、コナラ、クヌギ、欅(ケヤキ)等の時節が終わり、
幼いあまたの葉を広げて、新緑に時節に向っている。
      
そして常緑樹も新芽を伸ばしている。
                 
こうした情景を思い馳せると、『清浄明潔』という言葉を重ねたりした・・。

古人からの伝えとして、樹木は芽吹き、幼い葉を広げて、草花は花を咲かせ、
春の明るい陽射しの光につつまれて、清らかに生きている万物に恵みの時、と私は解釈している・・。
       

こうした思いを深めると、4月は『清浄明潔』の月だ、と高齢者の私でも、
心の中で呟(つぶや)いたりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする