見ようによっては別の生物ですが…
出所は不明でありますが、西日本新聞の社説では「続・夕陽のガンマン」(1966年)で、若きクリント・イーストウッドの台詞にも出て来るとか?残念、『夕陽のガンマンシリーズ』は何本か観た記憶はあるけれど、その台詞は憶えていない。「勝ち組か負け組か」「支配する側か支配される側か」「出来る人か出来ない人か」と単純に二分してしまう言い回しではあるけれど、概ね前者に属したいというのが『人間の性』というものではないかと考える。
しかし、こと「イジメ」の世界においては、「イジメた側(強者?)」と「イジメられた側(弱者?)」が一瞬にして立場が逆転してしまうから、関係性が複雑である。傍から見れば「イジメた側」が、窮鼠猫を噛むの如く「イジメられた側」の逆襲に遭い、「イジメられた。」と言葉を発した途端に、先生方は右往左往しなければならなくなるなんてことが良くあるようでありますよ。昔ならば「喧嘩両成敗」で片付けられたような事案も、シロクロ付けなければならないから大変なようである。「雇用主と雇用者」「上司と部下」といったように、社会的、社内的な上下関係で割り切ったとしても、割り切れないのが世の常でありまして、上司の悪口を吐きながら、酒を呑んでウサを晴らすのも、リーマンの特権だったような気もしますが、今ではコロナ禍でお酒も自粛のご時世ですからねぇ^^;
誰しにも「棘」はあるけれどね^^;
「上級国民と一般国民」などという分類は、いつから始まったのでしょうか?最初の用例としては大正時代まで遡れるそうだ。(Wikipedia情報)また、最近では2015年、2019年に流行語大賞にノミネートされているそうだから、分断とか差別といった内容でネット上で使われ出したようである。
よくよく考えてみると、『おやじぃ』は「与党と野党」(自民党と社会党という「55年体制」)の中にどっぷりと浸かってきた年代であるから、こうした『二分論』には慣れっこになっている。しかしねぇ…労働組合の代表者も「花の東京(中央)」では、背広組として活動の中心にいた訳だし、『おらだの農協』だって、元来は農民の代弁者であるはずが、中央では圧力団体の代表として背広組化していった。そんな世界に嫌気が差して、支持政党なし(浮動票)の一員になっているような気もするが…。
上等な服を着て、上等な食べ物を鱈腹食べて、上等な家に住むetc.…所詮、『泡沫(うたかた)の夢』なんですけれどねぇ^^;
昨夜、またつまらない夢を見ました。ある女性から「この五百円の使い方に価値がありますか?」なんて聞かれましてね。「価値があるか無いかは、使い方次第。」なんて応えたところで目が覚めてしまいましたよ。『上級か?一般か?』なんていう『二分論』より、目先の五百円ですからねぇ…オラは小っちゃい奴だなぁ^^; 「いやいや五百円でも充分じゅうぶん…生き方次第だわ。」とやせ我慢(笑)