その日暮らし

田舎に暮らすこの虫は「カネ、カネ、カネ」と鳴くという。

雲と自由が棲むという里で百姓に成りきれるかな?

「幸せ」って何だっけ?

2021-09-21 08:58:42 | 転職

『お婆ちゃん』は幸せですか?

中学生時代の先輩(女性)のお葬式に参列してきました。お葬式は、このところ月2回のペースでありますよ。「お百姓さん」なんぞやっていると社会(お付き合いの範囲)が狭くなってしまう。勤め人時代は「義理」としてのお付き合い…同僚や部下たちの親世代の死に関する葬儀が大半であったから、お悔やみの言葉を述べても「本当に悲しいのか?」と本心を問われれば疑わしい。しかし、最近は直接お世話になった方や同級生の死に直面することが多くなり、お悔やみの言葉も自身の落ち込みも激しいのでありますよ。(とは言え、「死」というものは他人ごとである…。)
そうである。最近は「お別れ」する機会が増えてしまった…「出会いと別れは同じ数だけある。」と言われるけれど、「出会い」の数が極端に減っているから、今までの「出会い」という貯えをひとつ(ひとり)ずつ取り崩して(失って)しまっているのである。
故人の想い出を語っている内(人の心の中に残っている内)は、人はその人の中ではまだ死んでいないし、人の想い出さえ記憶する人が居なくなってしまうとき、初めて人は「成仏」出来るのかも知れないなぁ…「三十三回忌」が、「弔い上げ」などと言われるのも、人の想い出に起因するのではないかなんて考えるようになりましたよ^^;


犬も猫も良く眠る^^;

「猫は自らの死を感じると、目に見えない『恐怖(敵)』から逃げるために閉所に身を置く。」その結果、人にその遺骸を見せることが少ない…などという説もあるらしい。最近『親ガチャ』なる表現があって、「どういう境遇に生まれるかは全く運任せ」という意味合いらしく、自身の不遇を正当化するためにも用いられるとか…。どんなに努力したって報われないといった世の中への不満も大いにあるようだ。人一倍努力して、立身出世して、社会的な地位を得るなどという考え方は、昭和世代の遺物となりつつあるのかなぁ?与えられた衣服、与えられた食事、与えられた部屋(家)には、当然、差があるのだけれど、与えられる教育さえも貧富によって差が生じ、結果的には「裕福なご家庭のご子息は、裕福な結末を得られる。」…「貧乏暮らしは、将来像を描くどころか貧乏な暮らしが待っている。」それをすべて親のせいにされてもなぁ^^;
『昭和生まれのオジサンたち』は、だから「頑張れ、がんばれ」と言われ続け、「頑張らなかった結末が今の生活である。」なんて、自己責任論に結び付けられたような気もするが…。短距離走が得意なヤツ、長距離走が得意なヤツetc.色々あるはずなんだけれど、最初からスタートラインが違ったら、どんなに早く駆け抜けようとしても、ゴールの順位は思い通りにはならないということかい?基本的なスタートラインだけは一緒にしてあげないと…「子どもの福祉」を語るならそんな施策も欲しいところだわ。『おやじぃ』は同居犬、同居猫に問いかける…「どうよ、今は幸せかい?」
『おやじぃ』は、その寝顔を見ているだけで幸せを感じるのでありますが、死んで弔われる前に、まだまだしなければいけないことがあるような気がするゾイ(笑)


コメント
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