「あれれ、今日は何を出荷したっけ?」
残念!出荷と同時に納品伝票を切っているから、出荷品目を忘れるということはないのでありますよ^^;
このところ、「物の名前が直ぐに出て来ない。」などということは日常茶飯事であり、納品の途中で、包装資材を購入して、納品後、銀行に寄って記帳してからコンビニに寄ってetc.という一筆書きの行程さえ、何かひとつ抜けてしまう…そうそう、こういう重要なことはメモをして忘れないように、と準備したメモ書きをポケットに仕舞ったことさえ忘れている。(かなり残念な日常ではある^^;)
昨日なんて、納品後に帰宅して、お彼岸はまだ先なのに、玄関先の仏花を見て、大福をパックに入れているオッカーを見ながら「どうしたの?」(オッカーが変であると思い込んでいる^^;)との問い掛けに「はぁ?ジィちゃんの13回忌でしょうが!」と返された。コロナ禍で親類縁者も呼ばないことから、平日に家族だけの法要をお願いしていたことをすっかり忘れておりましたよ。(かなり重症でありますなぁ^^;)…そそくさと準備を済ませ、お経だけは上げていただきましたけれど。法要の日時さえ息子に忘れられてしまった親父も可哀そうではあるけれど、自ら予約した予定さえ忘れてしまう息子も可哀そうである^^; 「物忘れ」とは、古くは深い悲しみや苦痛を忘れることを言ったということらしく、「親父の死」も忘れ、我が家族は12年経過して平穏な日常を保っていると解釈することにいたしましょう。
そりゃ~色々とあったけれどね。
我が親父は、最期まで頭脳はスッキリしていたようである。(当然、物忘れや意固地になることはあったけれど…。)我がお袋は次第に認知症に蝕まれていった。だから、親父は、病室で自分の死を予想(予言)するような言動があったし、お袋の場合は、自分の死を認識することもなく旅立ったと思っている。人それぞれに死生観があるのだろうから、また死に方を選べないのだから致し方ないのだけれど。
お葬式がセレモニー化し、お寺(住職)と檀家とが疎遠になりつつあるとも思う。「本来ならば親類縁者を呼んで『お斎』の席で故人の想い出語りなどするところでしょうけれど…。」などと、住職とひと言ふた言会話を交わしながら、お布施を包んだところではあるけれど「最近は、コロナ禍を理由に法要を営まないご家庭もあるんですよ。」などという住職のひと言…まぁ、法要の日時を一時忘れたくらいは許されるかなんて開き直っておりますが^^;
「悲しみも苦痛もきれいさっぱり忘れ去ってしまう。」ということも、あながち悪いことでもなさそうだ。「目が見えなくなるのは、嫁の不始末に目をつむれという教えであり、耳が遠くなるのは、生意気な息子の雑言に耳を貸すなとの教えだよ。」なんてね、生意気な息子は、「衰え」を嘆く親父、お袋に意見しておりましたが、生意気な息子も「衰え」を嘆くお年頃になってしまいましてね、お袋のように「認知症」になったらどうしよう?自分の存在や死への恐怖さえ忘れてしまうことも、それはそれで幸せなのかもなんて考えるようになりましたよ。家族にはこれ以上、迷惑かけたくないけれど(笑)