天安門事件から30年目の今年。中国はどう変わったのか。
当時、天安門広場で警備を務めた魏さんが語る天安門事件の最大の「功績」について、大宅壮一賞を受賞したノンフィクションライターの安田峰俊氏が、2011年より足かけ8年を費やし完成させた『八九六四』から、事件の当事者の生々しい証言をもとに述べておられます。
もしも天安門が成功していたら――。共産党政権がなくなっていたら中国は大丈夫だっただろうか。
事件当時19歳、某警察系大学学生、取材当時44歳、投資会社幹部の魏陽樹(仮名)は、仮に当時の学生が天下を取っていたら、別の独裁政権ができただけだろうと思うと。
日本で(政権交代の風が吹かされ)民主党に政権を任せてみたら、国がグジャグジャになった。中国の場合はもっとひどいことになるんだと。
天安門事件から30年経った今。みんなが本当に欲しかったものは、当時の想像をずっと上回るレベルで実現されてしまった。だから、いまの中国では決して学生運動なんか起きないと、魏さん。
魏さんの基準に照らせば、中国における言論の自由や社会の自由度についても、往年に比べればずっと改善したという。
彼は政府が国民の不満を解消するためにこうした変化に積極的な姿勢をとるようになったことが、天安門事件の最大の「功績」だというのだと。
現代中国の社会は1980年代と比べれば相対的に「自由」なのかもしれないが、中国の言論統制の厳しさと社会監視の凄まじさは、取材した私が何よりも痛感していると安田氏。
胡錦濤時代までの中国の社会には、国民はなんでもやりたい放題といった一種の「自由」さがあったが、習近平が権力を握るやいなや一瞬で消し飛んだと。
鄧小平は改革開放政策を提唱した際に「豊かになれる者が先に豊かになって落伍した者を助ければよい」と呼びかけた(先富論)が、実際には極端な貧富の格差が発生しただけで、落伍した者は助かっていないとも。
トータルで見れば、中国の社会は1989年当時とは比較にならないほど豊かになったが、みんなが「平等」に近かった「八九六四」の時代と比べると、凄まじい格差によって中国の社会は深刻に分断されている。
格差問題も環境問題も、まともな民主主義国家ならばもっと効果的な解決の目途がついているのではと、西側の人間や、民主派の中国人たちはそう考えている。
しかし、中国の国内感覚に照らすならば、それほど説得力を持つものではないと安田氏。
つまり、魏さんが言うように、天安門事件がおきた当時に比べれば、当時の想像をずっと上回るレベルで実現されている現在は、政府が国民の不満を解消するためにこうした変化に積極的な姿勢をとるようになったとむしろ評価の認識があるのですね。
しかし、改革開放路線を鄧小平が産み出し、胡耀邦から胡錦濤まで共青団派によって引き継がれ、高度経済成長を続け、GDPが世界第二位にまで上り詰めた中国経済。
それが、習近平の登場で、国営企業重視、毛沢東時代の独裁政治への回帰が始まり、経済成長に陰りが見え始めたのが昨今。
高度成長では、格差がありながらもすべての層が成長の恩恵を受け目立たなかった格差が、成長が鈍化・低迷すると、格差の弊害が露呈するのは世の常。
加えて、米中の「新冷戦時代」への突入。
天安門事件当時よりよくなったとの実感を、中国人民の方々が持ち続けられるのはいつまでか。
毛沢東時代への回帰を進める習近平の専制政治体制強化もあいまって、黄色信号が点滅している様に見えるのは、遊爺だけではない様な!
# 冒頭の画像は、厳戒態勢が敷かれている天安門広場周辺に動員された警察官
この花の名前は、ハクサンハタザオ
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当時、天安門広場で警備を務めた魏さんが語る天安門事件の最大の「功績」について、大宅壮一賞を受賞したノンフィクションライターの安田峰俊氏が、2011年より足かけ8年を費やし完成させた『八九六四』から、事件の当事者の生々しい証言をもとに述べておられます。
民主主義に憧れた中国が「天安門」の果てに得たもの 現代中国のタブー、事件30年目に語られた「僕」の物語(後編) | JBpress(日本ビジネスプレス) 2019.6.4(火) 安田 峰俊
日本列島がバブル景気に沸いていた1989年4月。中華人民共和国では学生たちが「変革の夢」を胸に、天安門広場へと集まっていた。およそ1カ月半後、世界を震撼させる大弾圧の舞台になるとも知らずに――。事件から30年目の今年(2019年)、天安門事件に関わった60人以上を取材した大型ルポルタージュが話題を呼んでいる。この度、大宅壮一賞を受賞したノンフィクションライターの安田峰俊氏が、2011年より足かけ8年を費やし完成させた『八九六四』。同書から、事件の当事者の生々しい証言を2回に分けてお届けする。前回に続き登場するのは、当時、天安門広場で警備を務めた魏さん。魏さんが語る天安門事件の最大の「功績」とは?(JBpress)
(※)本稿は『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』(安田峰俊著、角川書店)の一部を抜粋・再編集したものです。
■もしも「天安門」が成功していたら
(前回)権力側にいた大学生「天安門警備は『野球』だった」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56557
魏陽樹(仮名) 事件当時19歳、某警察系大学学生、取材当時44歳、投資会社幹部
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国北京市郊外
取材地:中華人民共和国 北京市 亮馬橋付近のレストラン
取材日:2015年4月
「最近、北京で同年代の友達と、みんなでおしゃべりをする機会があった。弁護士だとか社長だとか、全員がいまの社会でそれなりに成功している人だ。でね、もしも天安門が成功していたら――。共産党政権がなくなっていたら中国は大丈夫だっただろうかって話になったんだ」
そこそこ知的な中国人のおっさんたちが、気が置けない仲間と集まれば決まって天安門の話題になる。いかなる思想や社会背景を持つ人でも、あの事件が青春の思い出であることに変わりはない。
「結論としては『大丈夫だった』と自信を持って言う人間は誰もいないって話になった。日本でも例があるでしょ? 試しに民主党に政権を任せてみたら、国がグジャグジャになったじゃないか。中国の場合はもっとひどいことになるんだ。仮に当時の学生が天下を取っていたら、別の独裁政権ができただけだろうと思う」
日本の民主党(当時)の話はさておき、中国についての話は説得力がある。過去の辛亥革命も国民革命軍の北伐も社会主義革命も、結果的には袁世凱(えんせいがい)や蒋介石(しょうかいせき)や毛沢東(もうたくとう)を新たな独裁者として台頭させる踏み台でしかなかったのだ。
「天安門事件の当時は改革開放政策がはじまったばかりで、西側の断片的な情報、つまりよいところしか見えていなかった。思い返せば学生の側だって、いまの人よりもずっと視野が狭かった」
魏陽樹(ウェイヤンシュー)は「例えば、同時代の日本の田舎の男子中学生よりもずっと世界が狭かったはずだよ」と自嘲的な表情を浮かべた。
「当時、政府は必死で情報を入れないようにしていた。でも、学生は中途半端に情報を仕入れて、中途半端な理解から、外国を天国なんだと考えた。だからあんなことになった。それが天安門事件の真実だと僕は思うんだよ」
それが彼の答えだった。
■タクシーに乗れる人間になりたかった
「・・・あのころ僕は、自動車の助手席に乗ってみたかった」
追加のビールが来て会話がしばらく中断した後、魏陽樹は独り言のようにつぶやいた。
「マイカーを買うのが夢だったんですか?」
「そうじゃない。自分の車を持って、ハンドルを握るなんてのは夢のまた向こうの話さ。あのころの僕は助手席に乗りたかった」
私が怪訝な顔をしていると「不思議に思うよね」と笑った。「中国では日本と違って、自動車のいちばんいい席は助手席なんだ。中国人はタクシーに乗るとき、後部座席よりも助手席に座りたがるだろう? 助手席は特別なんだ。自分がいまから進む先の一番いい景色を独占できる、偉い人が乗る席だという考えがあるのさ」
「八九六四」の時代、中国の庶民は平板車(ピンバンチェー)という三輪のリアカー付き自転車で移動していた。タクシーの運賃は非常に高価で、数も少ない。運転手は人々から「師傅(シーフ=先生)」と呼ばれ、若い女性が理想の結婚相手に求める職業のナンバーワンだった。そんな社会で自動車の助手席に乗れるのは、相当な権力か財力を持つ人間だけだった。
「大学1年のときの思い出がある。僕は市内の中央音楽学院に遊びに行って、帰りにバスを待っていた。そうしたら、中国人なのに外国人みたいな恰好をした垢抜けた人が、なんと手を挙げてタクシーを停めた。颯爽と乗り込む彼の姿がものすごくカッコよかったんだ。それで思ったんだよ。いつか僕もタクシーに乗れる人間になりたい、この人生で1回でもいいから乗ってみたいって。もちろん座るのは助手席だ。そんな想像をするだけで頭がクラクラした」
現代の中国で、タクシー運転手は低賃金労働者の職業になっている。垢抜けた都市住民はマナーや安全性への不安からあまりタクシーに乗りたがらず、スマホのアプリでシェアライドをしたり自家用車に乗ったり、さらに金持ちならば運転手付きの車で移動する。いまや投資会社の幹部におさまっている魏も、言うまでもなくそれに近い生活を送っている。
だが、四半世紀後の現在までその光景を詳細に記憶しているほど、若き日の彼にとってタクシーの助手席はあこがれの対象だった。魏は思い出を語り続けた。
たとえば1990年ごろ、近所にできたばかりのKFC(ケンタッキー・フライドチキン)に行った話だ。セットの価格は、数字の上では現在とほぼ変わらない20元強。ただし、当時の中国人にとってこの金額は大卒初任給の約3分の2ほどに相当した。
「先輩とKFCに食べに行くことになった前の夜は、楽しみでずっと眠れなかった。当日、僕はどきどきして、カウンターでフライドチキンふたつとビスケット1個と飲み物を注文した。何を頼んだか、今でも全部覚えているんだよ。僕が食べたビスケットはちいさな丸いパンみたいで、表面がサクサクで、中身はフワフワで。こんな不思議な食べ物がこの世にあるのかよって――」
現代の中国人ならば3歳の子どもでも食べ残す、ありふれたジャンクフードだ。
「中国は変わったということなのさ。天安門事件のときにみんなが本当に欲しかったものは、当時の想像をずっと上回るレベルで実現されてしまった。他にどこの国のどの政権が、たった25年間でこれだけの発展を導けると思う? だから、いまの中国では決して学生運動なんか起きない。それが僕の答えだ」
思い出話のなかで杯を重ねたビールに瞳をとろんとさせた魏の基準に照らせば、中国における言論の自由や社会の自由度についても、往年に比べればずっと改善したという。彼は政府が国民の不満を解消するためにこうした変化に積極的な姿勢をとるようになったことが、天安門事件の最大の「功績」だとも話した。この話題が締めくくりとなり、私の魏への取材の時間は終わった。
■大部分の中国人が叶えた「夢」の前では
もちろん、魏の話には反論の余地が数多くある。現代中国の社会は1980年代と比べれば相対的に「自由」なのかもしれないが、中国の言論統制の厳しさと社会監視の凄まじさは、取材した私が何よりも痛感している。
また、確かに胡錦濤(こきんとう)時代までの中国の社会には、権力基盤の弱い政権の下で国民はなんでもやりたい放題――、といった一種の「自由」さがあったが、それも習近平(しゅうきんぺい)が権力を握るやいなや一瞬で消し飛んだ。指導者が交代するだけで社会の風通しの良さが大幅に乱高下するのは、やはり中国の政治体制が専制的かつ強権的だからである。
魏が話す経済発展にしても、中国の成長にはひずみが多い。鄧小平は改革開放政策を提唱した際に「豊かになれる者が先に豊かになって落伍した者を助ければよい」と呼びかけた(先富論)が、実際には極端な貧富の格差が発生しただけで、落伍した者は助かっていない。
もちろんトータルで見れば、中国の社会は1989年当時とは比較にならないほど豊かになった。もはや自動車の助手席やKFCのビスケットは貧困層の人でも縁遠いものではないが、さりとて社会全体の幸福度が高いかと言えば疑問である。
みんなが「平等」に近かった「八九六四」の時代と比べると、凄まじい格差によって中国の社会は深刻に分断され、階層を異にする者同士の共通言語はほとんど消滅している。なにより、仮に風通しの良い体制の社会がもともと中国に存在していれば、経済発展はもっと早くにはじまっていたはずだろう(ちなみにKFCの日本初出店は1970年だ)。
現代の格差問題も環境問題も、まともな民主主義国家ならばもっと効果的な解決の目途がついているのではないか。少なくとも私たちのような西側の人間や、公盟メンバーのような民主派の中国人たちはそう考えている。
だが、こうした反論はかつての魏が目にした光景と、大部分の中国人が叶えたタクシーとフライドチキンの夢の前には――。つまり、中国の国内感覚に照らすならば、それほど説得力を持つものではない。
日本列島がバブル景気に沸いていた1989年4月。中華人民共和国では学生たちが「変革の夢」を胸に、天安門広場へと集まっていた。およそ1カ月半後、世界を震撼させる大弾圧の舞台になるとも知らずに――。事件から30年目の今年(2019年)、天安門事件に関わった60人以上を取材した大型ルポルタージュが話題を呼んでいる。この度、大宅壮一賞を受賞したノンフィクションライターの安田峰俊氏が、2011年より足かけ8年を費やし完成させた『八九六四』。同書から、事件の当事者の生々しい証言を2回に分けてお届けする。前回に続き登場するのは、当時、天安門広場で警備を務めた魏さん。魏さんが語る天安門事件の最大の「功績」とは?(JBpress)
(※)本稿は『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』(安田峰俊著、角川書店)の一部を抜粋・再編集したものです。
■もしも「天安門」が成功していたら
(前回)権力側にいた大学生「天安門警備は『野球』だった」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56557
魏陽樹(仮名) 事件当時19歳、某警察系大学学生、取材当時44歳、投資会社幹部
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国北京市郊外
取材地:中華人民共和国 北京市 亮馬橋付近のレストラン
取材日:2015年4月
「最近、北京で同年代の友達と、みんなでおしゃべりをする機会があった。弁護士だとか社長だとか、全員がいまの社会でそれなりに成功している人だ。でね、もしも天安門が成功していたら――。共産党政権がなくなっていたら中国は大丈夫だっただろうかって話になったんだ」
そこそこ知的な中国人のおっさんたちが、気が置けない仲間と集まれば決まって天安門の話題になる。いかなる思想や社会背景を持つ人でも、あの事件が青春の思い出であることに変わりはない。
「結論としては『大丈夫だった』と自信を持って言う人間は誰もいないって話になった。日本でも例があるでしょ? 試しに民主党に政権を任せてみたら、国がグジャグジャになったじゃないか。中国の場合はもっとひどいことになるんだ。仮に当時の学生が天下を取っていたら、別の独裁政権ができただけだろうと思う」
日本の民主党(当時)の話はさておき、中国についての話は説得力がある。過去の辛亥革命も国民革命軍の北伐も社会主義革命も、結果的には袁世凱(えんせいがい)や蒋介石(しょうかいせき)や毛沢東(もうたくとう)を新たな独裁者として台頭させる踏み台でしかなかったのだ。
「天安門事件の当時は改革開放政策がはじまったばかりで、西側の断片的な情報、つまりよいところしか見えていなかった。思い返せば学生の側だって、いまの人よりもずっと視野が狭かった」
魏陽樹(ウェイヤンシュー)は「例えば、同時代の日本の田舎の男子中学生よりもずっと世界が狭かったはずだよ」と自嘲的な表情を浮かべた。
「当時、政府は必死で情報を入れないようにしていた。でも、学生は中途半端に情報を仕入れて、中途半端な理解から、外国を天国なんだと考えた。だからあんなことになった。それが天安門事件の真実だと僕は思うんだよ」
それが彼の答えだった。
■タクシーに乗れる人間になりたかった
「・・・あのころ僕は、自動車の助手席に乗ってみたかった」
追加のビールが来て会話がしばらく中断した後、魏陽樹は独り言のようにつぶやいた。
「マイカーを買うのが夢だったんですか?」
「そうじゃない。自分の車を持って、ハンドルを握るなんてのは夢のまた向こうの話さ。あのころの僕は助手席に乗りたかった」
私が怪訝な顔をしていると「不思議に思うよね」と笑った。「中国では日本と違って、自動車のいちばんいい席は助手席なんだ。中国人はタクシーに乗るとき、後部座席よりも助手席に座りたがるだろう? 助手席は特別なんだ。自分がいまから進む先の一番いい景色を独占できる、偉い人が乗る席だという考えがあるのさ」
「八九六四」の時代、中国の庶民は平板車(ピンバンチェー)という三輪のリアカー付き自転車で移動していた。タクシーの運賃は非常に高価で、数も少ない。運転手は人々から「師傅(シーフ=先生)」と呼ばれ、若い女性が理想の結婚相手に求める職業のナンバーワンだった。そんな社会で自動車の助手席に乗れるのは、相当な権力か財力を持つ人間だけだった。
「大学1年のときの思い出がある。僕は市内の中央音楽学院に遊びに行って、帰りにバスを待っていた。そうしたら、中国人なのに外国人みたいな恰好をした垢抜けた人が、なんと手を挙げてタクシーを停めた。颯爽と乗り込む彼の姿がものすごくカッコよかったんだ。それで思ったんだよ。いつか僕もタクシーに乗れる人間になりたい、この人生で1回でもいいから乗ってみたいって。もちろん座るのは助手席だ。そんな想像をするだけで頭がクラクラした」
現代の中国で、タクシー運転手は低賃金労働者の職業になっている。垢抜けた都市住民はマナーや安全性への不安からあまりタクシーに乗りたがらず、スマホのアプリでシェアライドをしたり自家用車に乗ったり、さらに金持ちならば運転手付きの車で移動する。いまや投資会社の幹部におさまっている魏も、言うまでもなくそれに近い生活を送っている。
だが、四半世紀後の現在までその光景を詳細に記憶しているほど、若き日の彼にとってタクシーの助手席はあこがれの対象だった。魏は思い出を語り続けた。
たとえば1990年ごろ、近所にできたばかりのKFC(ケンタッキー・フライドチキン)に行った話だ。セットの価格は、数字の上では現在とほぼ変わらない20元強。ただし、当時の中国人にとってこの金額は大卒初任給の約3分の2ほどに相当した。
「先輩とKFCに食べに行くことになった前の夜は、楽しみでずっと眠れなかった。当日、僕はどきどきして、カウンターでフライドチキンふたつとビスケット1個と飲み物を注文した。何を頼んだか、今でも全部覚えているんだよ。僕が食べたビスケットはちいさな丸いパンみたいで、表面がサクサクで、中身はフワフワで。こんな不思議な食べ物がこの世にあるのかよって――」
現代の中国人ならば3歳の子どもでも食べ残す、ありふれたジャンクフードだ。
「中国は変わったということなのさ。天安門事件のときにみんなが本当に欲しかったものは、当時の想像をずっと上回るレベルで実現されてしまった。他にどこの国のどの政権が、たった25年間でこれだけの発展を導けると思う? だから、いまの中国では決して学生運動なんか起きない。それが僕の答えだ」
思い出話のなかで杯を重ねたビールに瞳をとろんとさせた魏の基準に照らせば、中国における言論の自由や社会の自由度についても、往年に比べればずっと改善したという。彼は政府が国民の不満を解消するためにこうした変化に積極的な姿勢をとるようになったことが、天安門事件の最大の「功績」だとも話した。この話題が締めくくりとなり、私の魏への取材の時間は終わった。
■大部分の中国人が叶えた「夢」の前では
もちろん、魏の話には反論の余地が数多くある。現代中国の社会は1980年代と比べれば相対的に「自由」なのかもしれないが、中国の言論統制の厳しさと社会監視の凄まじさは、取材した私が何よりも痛感している。
また、確かに胡錦濤(こきんとう)時代までの中国の社会には、権力基盤の弱い政権の下で国民はなんでもやりたい放題――、といった一種の「自由」さがあったが、それも習近平(しゅうきんぺい)が権力を握るやいなや一瞬で消し飛んだ。指導者が交代するだけで社会の風通しの良さが大幅に乱高下するのは、やはり中国の政治体制が専制的かつ強権的だからである。
魏が話す経済発展にしても、中国の成長にはひずみが多い。鄧小平は改革開放政策を提唱した際に「豊かになれる者が先に豊かになって落伍した者を助ければよい」と呼びかけた(先富論)が、実際には極端な貧富の格差が発生しただけで、落伍した者は助かっていない。
もちろんトータルで見れば、中国の社会は1989年当時とは比較にならないほど豊かになった。もはや自動車の助手席やKFCのビスケットは貧困層の人でも縁遠いものではないが、さりとて社会全体の幸福度が高いかと言えば疑問である。
みんなが「平等」に近かった「八九六四」の時代と比べると、凄まじい格差によって中国の社会は深刻に分断され、階層を異にする者同士の共通言語はほとんど消滅している。なにより、仮に風通しの良い体制の社会がもともと中国に存在していれば、経済発展はもっと早くにはじまっていたはずだろう(ちなみにKFCの日本初出店は1970年だ)。
現代の格差問題も環境問題も、まともな民主主義国家ならばもっと効果的な解決の目途がついているのではないか。少なくとも私たちのような西側の人間や、公盟メンバーのような民主派の中国人たちはそう考えている。
だが、こうした反論はかつての魏が目にした光景と、大部分の中国人が叶えたタクシーとフライドチキンの夢の前には――。つまり、中国の国内感覚に照らすならば、それほど説得力を持つものではない。
もしも天安門が成功していたら――。共産党政権がなくなっていたら中国は大丈夫だっただろうか。
事件当時19歳、某警察系大学学生、取材当時44歳、投資会社幹部の魏陽樹(仮名)は、仮に当時の学生が天下を取っていたら、別の独裁政権ができただけだろうと思うと。
日本で(政権交代の風が吹かされ)民主党に政権を任せてみたら、国がグジャグジャになった。中国の場合はもっとひどいことになるんだと。
天安門事件から30年経った今。みんなが本当に欲しかったものは、当時の想像をずっと上回るレベルで実現されてしまった。だから、いまの中国では決して学生運動なんか起きないと、魏さん。
魏さんの基準に照らせば、中国における言論の自由や社会の自由度についても、往年に比べればずっと改善したという。
彼は政府が国民の不満を解消するためにこうした変化に積極的な姿勢をとるようになったことが、天安門事件の最大の「功績」だというのだと。
現代中国の社会は1980年代と比べれば相対的に「自由」なのかもしれないが、中国の言論統制の厳しさと社会監視の凄まじさは、取材した私が何よりも痛感していると安田氏。
胡錦濤時代までの中国の社会には、国民はなんでもやりたい放題といった一種の「自由」さがあったが、習近平が権力を握るやいなや一瞬で消し飛んだと。
鄧小平は改革開放政策を提唱した際に「豊かになれる者が先に豊かになって落伍した者を助ければよい」と呼びかけた(先富論)が、実際には極端な貧富の格差が発生しただけで、落伍した者は助かっていないとも。
トータルで見れば、中国の社会は1989年当時とは比較にならないほど豊かになったが、みんなが「平等」に近かった「八九六四」の時代と比べると、凄まじい格差によって中国の社会は深刻に分断されている。
格差問題も環境問題も、まともな民主主義国家ならばもっと効果的な解決の目途がついているのではと、西側の人間や、民主派の中国人たちはそう考えている。
しかし、中国の国内感覚に照らすならば、それほど説得力を持つものではないと安田氏。
つまり、魏さんが言うように、天安門事件がおきた当時に比べれば、当時の想像をずっと上回るレベルで実現されている現在は、政府が国民の不満を解消するためにこうした変化に積極的な姿勢をとるようになったとむしろ評価の認識があるのですね。
しかし、改革開放路線を鄧小平が産み出し、胡耀邦から胡錦濤まで共青団派によって引き継がれ、高度経済成長を続け、GDPが世界第二位にまで上り詰めた中国経済。
それが、習近平の登場で、国営企業重視、毛沢東時代の独裁政治への回帰が始まり、経済成長に陰りが見え始めたのが昨今。
高度成長では、格差がありながらもすべての層が成長の恩恵を受け目立たなかった格差が、成長が鈍化・低迷すると、格差の弊害が露呈するのは世の常。
加えて、米中の「新冷戦時代」への突入。
天安門事件当時よりよくなったとの実感を、中国人民の方々が持ち続けられるのはいつまでか。
毛沢東時代への回帰を進める習近平の専制政治体制強化もあいまって、黄色信号が点滅している様に見えるのは、遊爺だけではない様な!
# 冒頭の画像は、厳戒態勢が敷かれている天安門広場周辺に動員された警察官
この花の名前は、ハクサンハタザオ
↓よろしかったら、お願いします。