夕方 ちょっとの間だったけど雨が降ったせいか、とても涼しい晩です。
お盆がずっと雨で、そのあと 昼間は相変わらずの夏空だけど、朝晩の空氣はもうほとんど秋そのもの。
毎年この時期、うだるような暑さの中に ちょっとした空氣の変化や日ざしの角度、影の濃淡などから ひと足早く秋の氣配をかぎ取るのがお楽しみのひとつだったので、今年はちょっぴり拍子抜け。。。かな
でも ま、いっか~☆
その分 この二つの季節の行き来をうんと楽しませてもらおうっと♪
深夜や早朝は熱々のホットコーヒー、昼間はひんやりわらび餅なんていうのもいいじゃないですか♪
昼間は存分に汗かいてデトックス、消耗した分 晩はぐっすり眠れるのもうれしいしね♪
ここしばらく 毎日のようにどこか一箇所は片付けものをしていたのも どうやら一段落したみたい。
すごいときは、朝起きぬけに寝床の中で「あれをこうしてああして」とひらめいて、そのまま起き出して 着替えも洗顔もせずにガタガタと物を動かし始めたりしてたけど(^^ゞ
棚や台の下、廊下の脇などに積まれていたものが減って 掃除がしやすくなり、押入れの中も奥のほうまですっきり見渡せるようになって、なかなかにいい氣分
片付けの最中にふと思い出したんだけど、私、子どもの頃から 物欲や所有欲が心の安らぎや充実と結びつかないことに ずっと違和感を感じていたんですよね。
いちばん古い記憶では まだ幼稚園に行くか行かないかぐらいの歳だったと思うんだけど、レンゲの花が敷き詰められたように咲いている田んぼの前に立っていて。
あまりの美しさに心が激しく揺れ動いて、それがなぜか「これ全部持って帰りたい」という欲望に向かうんです。
で、手当たり次第に花を摘んで 大きな花束をしっかり握り締めて どきどきわくわくしながら帰宅するのですが。。。
せっかくのレンゲは、子どもの手の熱でぐったりしおれ 生き生きしたつやをなくして、さっきの魅力がすっかり消えうせている。
母が水を入れたコップにさしてくれて いったんは元氣を取り戻すんだけど、それも束の間、一日二日のうちに 花びらがぽろぽろと落ちて 残った花もすっかり色あせてしまう。
こんなことを何度も繰り返すうちに、いくら花を自分のものにしても 心は満たされないんだということを 深く思い知らされました。
なのに、それでもなお「欲しい!」と突き上げるような氣持ちは消えてくれないんだよね。。。
もう少し大きくなると、今度はお店で売っているものに心魅かれることが多くなりました。
中でもよく覚えているのが、ちょくちょく行く手芸屋さんのショーウィンドウに飾られていた ガラス細工の三羽の白鳥と 前足を片方上げた黒い馬。
もう欲しくて欲しくて、しょっちゅう店に行ってはウィンドウを覗いて。
お小遣いを溜め、ついにそれらを自分の物にしたときは、まさに天にも昇るような心地だったのを覚えています。
が。
ごたごたした子ども部屋には それらをステキに飾るスペースがどうしても見つからなくて。
仕方なく、白鳥はスチール棚から下げた飾りかごの中に、黒馬は勉強机の上に置いたのですが、なぜか あのショーケースの中にあったときの魅力が感じられず、日が経つにつれて 自分のものにした喜びがどんどん薄れていって、置いてあるのを見てもなにも感じなくなり。。。
子ども心にも虚しさを覚えました。
あんなに夢中で欲しかったのに、願い叶って手に入れたとたんに なぜこんなに喜びを感じられなくなっちゃうんだろう?
それまでにも似たような思いは何度もしていたんだけど、あのときは有頂天氣分とそのあとの落差があまりにも激しかったので、ことさら記憶に残っているのだと思います。
結局、白鳥は かごが外れて落ちたときに一羽のつばさが折れてしまい、黒馬も うっかり机のすきまから落として脚が折れてしまって、もう見るのもいやになり、机の奥にしまいこんでしまいました。
それからウン十年、物で心を満たそうとする虚しさを どれだけ重ねてきたことか。
今ではよくわかります。
自分がほんとうに欲しかったのは、物そのものではなく、安堵や安らぎの思いだったのだと。
欲望を満たしたときの ほんのいっときの小さな小さな満足、それを 深い心の充足と取り違えてしまっていたんですね。
氣づくのに ずいぶんかかったものだねぇ(^_^;)
二、三年前 知り合いの子どもに文具やアクセサリーをプレゼントしたとき、物だけが喜ばれた感じがして それ以来贈り物をする氣をなくしてしまったことがありました。
そのときにも思い出したんだよね。。。ああ、自分もこんな子どもだったなぁ、って
いつも心のどこかにつきまとっていた不安をなんとか解消しようと(無意識にだけど)必死だった私には、物しか見えていなかった。
それを贈ってくれた人の優しい思いは届いていなかった。
贈り手の人は、そんな私に氣づいていただろうか。
がっかりさせてしまっただろうか。
不安がどれほど人の心を狂わせ、愛を出すことも受け取れることもできなくしてしまうものかを思い知らされ、幼い頃の自分や 今の自分がプレゼントしようとした子の心の内を思いやって なんともいえない氣持ちになりました。
今、あちこちすっきりした家の中をながめながら思います。
まずは 心の中の不安をとりのぞいて あたたかく満たすことが先なんだなって。
心の調和が実現して初めて 過不足ない物たちとの楽しいおつきあいが出来るようになるんでしょうね♪
それに、物を仲立ちにした 人どうしの素敵なおつきあいもね♪
半世紀の時を経て、私の心もやっと穏やかに平和になってきたのかな(^^)
お盆がずっと雨で、そのあと 昼間は相変わらずの夏空だけど、朝晩の空氣はもうほとんど秋そのもの。
毎年この時期、うだるような暑さの中に ちょっとした空氣の変化や日ざしの角度、影の濃淡などから ひと足早く秋の氣配をかぎ取るのがお楽しみのひとつだったので、今年はちょっぴり拍子抜け。。。かな
でも ま、いっか~☆
その分 この二つの季節の行き来をうんと楽しませてもらおうっと♪
深夜や早朝は熱々のホットコーヒー、昼間はひんやりわらび餅なんていうのもいいじゃないですか♪
昼間は存分に汗かいてデトックス、消耗した分 晩はぐっすり眠れるのもうれしいしね♪
ここしばらく 毎日のようにどこか一箇所は片付けものをしていたのも どうやら一段落したみたい。
すごいときは、朝起きぬけに寝床の中で「あれをこうしてああして」とひらめいて、そのまま起き出して 着替えも洗顔もせずにガタガタと物を動かし始めたりしてたけど(^^ゞ
棚や台の下、廊下の脇などに積まれていたものが減って 掃除がしやすくなり、押入れの中も奥のほうまですっきり見渡せるようになって、なかなかにいい氣分
片付けの最中にふと思い出したんだけど、私、子どもの頃から 物欲や所有欲が心の安らぎや充実と結びつかないことに ずっと違和感を感じていたんですよね。
いちばん古い記憶では まだ幼稚園に行くか行かないかぐらいの歳だったと思うんだけど、レンゲの花が敷き詰められたように咲いている田んぼの前に立っていて。
あまりの美しさに心が激しく揺れ動いて、それがなぜか「これ全部持って帰りたい」という欲望に向かうんです。
で、手当たり次第に花を摘んで 大きな花束をしっかり握り締めて どきどきわくわくしながら帰宅するのですが。。。
せっかくのレンゲは、子どもの手の熱でぐったりしおれ 生き生きしたつやをなくして、さっきの魅力がすっかり消えうせている。
母が水を入れたコップにさしてくれて いったんは元氣を取り戻すんだけど、それも束の間、一日二日のうちに 花びらがぽろぽろと落ちて 残った花もすっかり色あせてしまう。
こんなことを何度も繰り返すうちに、いくら花を自分のものにしても 心は満たされないんだということを 深く思い知らされました。
なのに、それでもなお「欲しい!」と突き上げるような氣持ちは消えてくれないんだよね。。。
もう少し大きくなると、今度はお店で売っているものに心魅かれることが多くなりました。
中でもよく覚えているのが、ちょくちょく行く手芸屋さんのショーウィンドウに飾られていた ガラス細工の三羽の白鳥と 前足を片方上げた黒い馬。
もう欲しくて欲しくて、しょっちゅう店に行ってはウィンドウを覗いて。
お小遣いを溜め、ついにそれらを自分の物にしたときは、まさに天にも昇るような心地だったのを覚えています。
が。
ごたごたした子ども部屋には それらをステキに飾るスペースがどうしても見つからなくて。
仕方なく、白鳥はスチール棚から下げた飾りかごの中に、黒馬は勉強机の上に置いたのですが、なぜか あのショーケースの中にあったときの魅力が感じられず、日が経つにつれて 自分のものにした喜びがどんどん薄れていって、置いてあるのを見てもなにも感じなくなり。。。
子ども心にも虚しさを覚えました。
あんなに夢中で欲しかったのに、願い叶って手に入れたとたんに なぜこんなに喜びを感じられなくなっちゃうんだろう?
それまでにも似たような思いは何度もしていたんだけど、あのときは有頂天氣分とそのあとの落差があまりにも激しかったので、ことさら記憶に残っているのだと思います。
結局、白鳥は かごが外れて落ちたときに一羽のつばさが折れてしまい、黒馬も うっかり机のすきまから落として脚が折れてしまって、もう見るのもいやになり、机の奥にしまいこんでしまいました。
それからウン十年、物で心を満たそうとする虚しさを どれだけ重ねてきたことか。
今ではよくわかります。
自分がほんとうに欲しかったのは、物そのものではなく、安堵や安らぎの思いだったのだと。
欲望を満たしたときの ほんのいっときの小さな小さな満足、それを 深い心の充足と取り違えてしまっていたんですね。
氣づくのに ずいぶんかかったものだねぇ(^_^;)
二、三年前 知り合いの子どもに文具やアクセサリーをプレゼントしたとき、物だけが喜ばれた感じがして それ以来贈り物をする氣をなくしてしまったことがありました。
そのときにも思い出したんだよね。。。ああ、自分もこんな子どもだったなぁ、って
いつも心のどこかにつきまとっていた不安をなんとか解消しようと(無意識にだけど)必死だった私には、物しか見えていなかった。
それを贈ってくれた人の優しい思いは届いていなかった。
贈り手の人は、そんな私に氣づいていただろうか。
がっかりさせてしまっただろうか。
不安がどれほど人の心を狂わせ、愛を出すことも受け取れることもできなくしてしまうものかを思い知らされ、幼い頃の自分や 今の自分がプレゼントしようとした子の心の内を思いやって なんともいえない氣持ちになりました。
今、あちこちすっきりした家の中をながめながら思います。
まずは 心の中の不安をとりのぞいて あたたかく満たすことが先なんだなって。
心の調和が実現して初めて 過不足ない物たちとの楽しいおつきあいが出来るようになるんでしょうね♪
それに、物を仲立ちにした 人どうしの素敵なおつきあいもね♪
半世紀の時を経て、私の心もやっと穏やかに平和になってきたのかな(^^)