毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

生きてる!きょうも生きてるよ

2012年08月29日 21時21分23秒 | ふと思うこと
きょうも一日中ほぼ曇り、午後はひとしきり激しく雨が降りました。

セミの声がほとんど聞こえない。。。セミさんたちどうしているんだろう?

入れ替わるように秋の虫の声がどんどん大きくなってきています。

昼間なんか悠然と家の中に入ってくるんだよね、コオロギとかバッタとかカマキリとか。

子どもの頃は平氣で素手で捕まえられたけど、今はちょっと。。。(^_^;)

ビニール袋にすくい取って 外に出してやる毎日です。





もうかれこれ10年近く前になるのかな?

とある栄養補助食品に関ったことがあって、そのとき「からだの働き」や「細胞」についていろんな本を読んで勉強したんですね。

昔から理系苦手の私には難しい話が多過ぎて、もうほとんどのことは忘れてしまったんですが(笑)、わずかに残ってるいくつかのこと、その中のひとつにこんなのがあります。

人間の始めの一歩、受精卵のお話。


たった1個の細胞から始まるこの受精卵、お母さんのお腹の中で分裂を繰り返しながら、やがて子宮の中を転がっていって内膜に着床し、どんどん成長して胎児の形になっていくというのです。

この「自力で転がって着床」というところが、なんかすごいと思っちゃった。

すべて受身でお世話してもらうがまま、じゃなくて、自分の力でここだ!っていう場所にたどり着く、っていうところが、ね。

私たちって、ほんの数個の細胞の塊のときから、そんなダイナミックな生命力を持っていたんだね。

そのちっちゃな細胞の塊が、さらに分裂・分化を繰り返して、やがて数十兆もになったのが、今の私たちのからだなんだ~。



。。。私の頭を通ると、せっかくの科学情報も 学者さんたちが「なんじゃそりゃ?」と思うような情緒的・物語的世界に変換されちゃうんですが(^◇^;)


でもね、私たちを作っている数十兆の細胞一個一個に あの「自発的に生きる力」が備わっているんだと思うと、それだけでなんだか無性に勇氣が湧いてくるんだなぁ♪






もうひとつ、これは心筋細胞のお話。

私たちの心臓がドックンドックン打っているのは、この心筋細胞の一個一個がドックンドックン(いや、一個だと小さいからピックンピックンかな?)打っているからなんだそうですが。

この心筋細胞を取り出してバラバラにして置いておくと、みんなてんでんバラバラなずれたリズムでピックンピックンやってるんだそうです。

でも、バラバラの細胞を寄せ集めてやると、だんだん連携して やがて一糸乱れずそろって あのドックンドックンが生まれるんですって。



心筋に限らず、私たちの数十兆の細胞たちは、みんな考えられないほど見事なチームワークで 互いに連携しあって働いて、私たちを生かし続けてくれている。

その調和が何らかの理由で乱れると 「あれ?ちょっと調子悪いかな?」になり、乱れが大きくなると 「病氣」ということになるのかもしれないね。




さらにもうちょっと考えてみる。

私たちの細胞をさまざまに働かせ、心臓をドックンドックン打たせ続けてくれている力って、いったい何なんだろう?

これが掃除機や扇風機なんかだったら、原動力は電氣で、コンセントを差し込んでスイッチ入れれば動き出すってわかってるんだけど。

でも、私たちを動かし 生かし続けている力っていうのは どんな力で どこから来てるんだろうね?

しかもこの力、私たちの意のままにはならない。

「きょうはスイッチ切ってしばらくお休みね」なんてわけにもいかないし、いったん止まると決まれば、いくら「もう少し動いていたいよ~」と思ったって、動かし続ける術はない。



この何かわからない不思議な力に、私たちはきょうも生かされ続けているんだね。




いま、日々いろいろなことが起こって、いろいろな課題にぶつかっては取り組んで、を繰り返す毎日。

また、私の大切な家族や友だちも、それぞれにいろいろなことを抱えては まっすぐ向き合い真摯に取り組んでいるようで。

さらに、もっと引いて見てみれば、世の中のあちこちでも いろいろなことが起きていて、そこでも無数の人たちがけんめいにそれを乗り越え、生きようとしている。

そんなふうに思えたとき、ふとこんな話をしてみたくなりました。

私たちには、生まれつきすごい力、生きる力が備わっているんだって。

心身の調和が乱れることがあっても、もう一度努力して整えて、健やかな力を取り戻すことができるんだって。

そして、心臓がドックンドックン打ち続けている限り、私たちを生かしている力は「生きなさい。思いっきり生きていいんだよ」って背中を押してくれているんだって。



自分自身と、そしてここを訪れて下さる縁ある方々への、ささやかなエール♪



そう、きょうもね、生きてるよ、生かされているんだよ















 

テーブルの同じ側

2012年08月29日 00時32分55秒 | ふと思うこと
台風15号の影響か、夕方から断続的に けっこうな雨が降りました。

おかげで今夜の涼しいことといったら。。。いや、涼しいどころか ノースリーブに素足では寒いぐらい。

コオロギさんたち秋の虫の鳴き交わす声を聞いていると、今が8月だということを忘れてしまいそう(^_^;)






ネットニュースで ずっと続いている原発やいじめの問題・さらには尖閣諸島の問題などを見るにつけ、「テーブルの同じ側に立つ」という言葉が頭をよぎります。

初めてこの言葉が浮かんだのは、かれこれもう7年ぐらい前になるでしょうか。

「テーブルを挟んで向き合っていて 問題の解決は図れない」ということです。

ちょうど地元に NTTがFOMA用の強力なアンテナを建てようとする件で揉めていたときのこと。

あのときは、せっかくこういうイメージを授かったというのに、まったく生かすことができなかった。

まだ怒りがたくさん溜まったままだったからね(^^ゞ




原発やいじめなどのように 人のいのちがかかっている問題では、まずはきっぱりと立ちはだかって「NO」を言うことも大事だと思います。

いのちを省みないほうへ突っ走ろうとする流れを確実に止めるために。

それで いっとき対立が生まれるのもやむを得ないことでしょう。

ただ。。。それはあくまでも「緊急避難的」というか「応急処置」というか、そんなようなものだと思うんです。

そのあとでじっくり根本から解決しようというときには、テーブルを挟んだ対立の構図を崩すところから始めないと、結果を出すことはできないんじゃないかなという氣がします。



こんなふうに考えられないかな?

立場や視点は違うけど、同じ問題の解決に携わる者どうし、同じゴールを目指して力を出し合う仲間どうし、って。

それが テーブルの同じ側に立つ、いや、いっそのことテーブルを取っ払ってしまうということになるんじゃないかな。


たしかに、圧倒的に力のある者から 自分たちの利益や満足のためには 他の人のいのちや心や暮らしがどうなろうと構わない、っていう姿勢を見せつけられれば、腹も立ちます、人間だもの。

でも。。。そこで対決姿勢を強めれば強めるほど、相手を大きくしてしまうんだよね。

北風が強く吹きつけるほど 旅人がコートをしっかり着込んで手放そうとしない、あのからくり。

ほんとうに問題をゼロに戻そうと思ったら、ここでしなければならないのは、相手をじっくり見つめ、相手の声にしっかり耳を傾けることなんじゃないかと思います。


言うのは簡単でも、実行するのは難しいんですけどね




以前にも書いた、ミヒャエル・エンデの「モモ」。

人々のいのちの時間を奪おうとする“灰色の男たち”にたったひとりで立ち向かった女の子モモがしたことは、戦いではなく、相手の心にじっと耳を澄ませることでした。

相手の心の中に入っていって、そういう行動を起こさせる根っこに何があるのかを聞き取ろうとしたんですね。

そして言うのです。

「それじゃあ、あんたを愛してくれる人は誰もいないの?」(本が手元にないのでうろ覚えなんですが、たしかこんなような言葉を)

これを聞いた相手は ぶるぶる震え出して、秘密だったたくらみ、つまり本音を 心ならずもしゃべってしまうのです。




どんな問題でも、その発端には バランスを崩した人の心があると思うんです。

人がどうなろうと構わない、とか、ひどい目にあわせてやる、とか、そういう氣持ちや行動を生み出すおおもとが。

根本解決には そこを見ることが不可欠なはずなんだけど、こちらが怒りに燃えて対決姿勢だと、とてもじゃないけどそこまでの心の余裕がないんですね。


難しいことだとは重々承知しています。

なにせ 怒り猛る心をもてあまし、コントロールしきれないまま 半世紀を過ごしてきた身ですから(- -;)

でも、そうやって身のうちから湧き上がる怒りにさんざん振り回されてきたからこそわかるんだなぁ。。。

対立したままでは 力づくで相手を押さえ込むことしかできないし、それではほんとうの解決にならないってことが。



相手の心をじっくり見ようとする。。。もちろん自分のしていることが理不尽で正しくないことを心の奥でわかっていればいるほど、相手は本音を隠そうとします。

そこで感情的に責め立てられれば、ますますウソをウソで塗り固めたり、がっちりと殻に閉じこもってしまったり、ときには逆切れなんてことも。

でも、そのさらに奥の奥では、意識してなくとも ウソも怒りも手放して ほっとしたい氣持ちもあるんじゃないだろうか。

ただ、自分ひとりの力では 長年固めた鎧を手放すことができないだけで。

そんな人ととことん向き合おうと思ったら、まずは自分の心の調和がしっかりとれていないとキビシイでしょうね。

自分の中の怒りが解消されていること、感情をコントロールできること、自分のほんとうの氣持ちがわかっていること。

そして、自分を限りなく透明にし、相手を感じながら、時間をかけて 本音を誘い出して。



難しいことだけれど、でも こういうことができる人になろうと思います。

そういう人がおおぜい必要な時期なんだと思います。

いじめも原発問題も ずっとずっと前からあったことだけど、以前だったら黙殺されていた弱い立場の人たちの声が、いまや無視できないほどになってきている。

不当なことは許さないという宣言には まっすぐな怒りや拒絶の意志がこもっていていい。

でも、そのあとには 深く温かい思いやりの心が どうしても不可欠なんじゃないだろうか。

自分の感情に左右されず 問題の根元から静かに見つめるまなざしが、今とても大切なんじゃないだろうか。




まだまだ“修行”が必要な私ですが、内なる羅針盤が指し示すままに 精一杯の高みをめざそうと思います。