毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ゆらぐ

2013年06月02日 15時34分37秒 | ふと思うこと


こんな記事を見つけました。

“ゆらぎ”かぁ、なるほど~

たしかにね。。。私も山の中のお散歩大好きだし

ゆらぎとして捉えたことはなかったけれど、日の光、水音、木々の香り、風の感触、触れてくるすべてが えもいわれず心地いい。




人氣のない山の中では、普段より感じる力が高まる氣がします。

たぶん、自分ひとりきりだから 「どう見られてるのかな?」って 外側からチェックするような氣持ちが起こらないせいじゃないかな。

ただひたすら、内から感じるままに まわりの世界に浸っていられる。




前にも書いたけれど、私たちは 形ある存在だから、自分と自分でないものの区別をはっきりつけることで 日々生きている。

でも、そもそもの本質は 形がないんだよね。

私たちの心臓を動かすエネルギーだって、私たちが呼吸している空氣だって、私たちの思いだって、たしかに「ある」はずだけれど、がっちり捉えたり掴んだりすることはできない。

いや、掴めていると思っている実体だって、ほんとうに掴んでいるのかどうか。

固体であるはずの私たちのからだも、微細なレベルで見れば 絶えず振動し続ける粒子の集まり。

粒子と粒子の間はすきまだらけで、人のからだの純粋な固体部分だけをぎゅっと圧縮すると、なんと塩一粒分にしかならないなんていう話も。

実はスカスカってことよね。。。なかなかそんなふうには感じ取れないけれど (^_^;)




きのう私と出会った人は、きょうまた私と出会ったとき 「あ、きのうと同じ人」と思う。

なぜかといえば、きのうとそっくり同じに見える・聞こえるから。

でも そうだとすると、赤ちゃんのころの写真や映像を指して「これ私」っていうのは どうなんだろう?

かすかに面影が残っているとはいえ ぜんぜん違う姿形、声だって同じじゃないし、もちろん今みたいに書くこともしゃべることもできないし

きのうときょうの私が「同じ」という話にしたって、これまた微細なレベルで見れば、体内では絶えずさまざまな化学変化が起こっているし、細胞だってたくさん入れ替わってるし、自身で把握できる範囲でも 氣分だって 感覚だって 前の日と同じとは限らないよね。




私たちは 自分のことを「生きている」と思っている。。。そりゃあ、ね☆

でも、アポトーシスによって からだの細胞は絶えず死んでは 新しいものと交換されている。

「生きている」私たちの中で、「死」がどれほど頻繁に起こっていることか。

さらに言えば、確定的な死についても、実はそうくっきり分けられるものじゃないようだ。

医学的都合で いちおうのガイドラインはあるようだけれど、それはあくまで人間の都合上の線引きでしかなく、ある瞬間から生が死にぴたりと切り替わるわけじゃない。

それは、夜が朝に、朝が夜に 一瞬で変化するというようなものだ。

「ご臨終です」と言われて、たしかにもう生き返る可能性は残っていないのだろうけれど、だからといって その時点で「すべて完璧に死に切っている」というものでもないらしい。




え~っと、なにが言いたいかっていうとね(^^ゞ

私たちは 見る角度によって 互いに矛盾する要素を併せ持ってるっていうこと。

固まっているけれど、絶えず動いている。

同じだけれど、違う。

生きているけれど、同時に死も存在する。

視点を移すたびに、まるっきり正反対の要素を 行ったり来たりするんだよね。

それも “ゆらぎ”っていうことじゃないのかな。




もっと言うとね。

そもそも「固体」「流動的」とか、「生」「死」とか、そういうレッテル自体、あくまで便宜上のもので 実はあまり意味がないのかもしれない。

私たちは、固まっているとも動いているとも 生きているとも死んでいるとも 言えるし言えない ある種の存在で、はっきりしているのは、それがどこまでも 絶えず変化し続けるということだけ。

「死」と呼ばれる現象だって、実は単なる変化でしかないのかもしれない。

私たちって、捉え方次第でどのようにも見える、とても曖昧な存在なのかもしれない。

そして、自分たちの意思、選択、行動で いくらでも好きなように変化させることのできる、もっともっとずぅ~っと自由な存在なのかもしれないよ。






なんか、この文章自体 どうしようもなく曖昧な表現になってきちゃってますが(笑)

私たちは、「これが自分」っていうものをはっきり区別つけないと この三次元世界に存在できないんだけれど、実はもっとゆらいでて 曖昧で 自由な存在。

だから、いつも「これが自分、これが自分」って固めてばかりいると、疲れてきちゃうんじゃないかなぁ。

ときどき そんな自分から降りて、何でもない自分、何にでもなれる自分に戻りたくなるのかもしれない。

それが、自然の中で 安らげる理由なのかもしれないね。

自然は、私たちに「何者かであること」を要求したりはしないもの(^^)





山や森の中で過ごすのも素敵なことだけれど、何よりもまず 日常の暮らしの中で、自分で自分を あまりがっちり固められずにいられるといいね。

曖昧な ゆらいでいる自分を そのまま認めて、ゆったり息をついて 楽に生きられるといいね。

なんでもありの 「いいかげん = 良い加減」で生きてゆけるといいね。

そして、みんなで そんな世の中を創っていけたらいいね♪