天氣予報では晴れるはずだったのに、一日中いつ雨粒が落ちてきてもおかしくないような灰色空。
まあ、ね。。。この辺は 和歌山と奈良の県境近くなので、どちらの予報を見るかでも違ってくるし、山の中だから 予報どおりにはならないことも多くって。
だから、ほどほどに参考にさせてもらいつつも、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」みたいな感じで
外からの情報に頼ったり 期待したりしすぎると、外れたときに腹が立っちゃうものね。
腹立ちのもとは、情報ではなくて 期待する氣持ちのほう。
お天氣はコントロールできないけれど、自分の氣持ちはコントロールできるのだから、目の前の事象をあるがままに受け止め 心を沿わせて ふぅわりと笑顔で生きていくことにいたしましょう(^^)
きのうのああいうブログを書いたあと。。。また こんな記事と出会いました。
なんか科学的に突き詰めれば突き詰めるほど 曖昧さが際立ってくるような (^_^;)
人は 正体のよくわからないものに はっきりした形をつけないと落ち着かない傾向があるのか、知りたいという意志が強いのか、あらゆることを どこまでも知的に探求しようとするし、それは悪いことではないけれど、それでも どこまで探っても やっぱり「わからない」ところは残ると・・・いや、むしろますます増えてくると思うんだなぁ。
すべての一番のおおもとは、わからない → 分けられない、つまり それ以上分け出しようのない世界なんだものね☆
私も以前は、「わからないままにしておく」って、不安で落ち着かなくてたまらなかった。
どんなことでも 限りある自分の引き出しに、無理にでもきっちり収めておかないと氣が済まなかった。
それが 事実を曲げることになっても、目を背けて、世界を無理やり自分の思い通りにしようとした。
どんなことでも 「わかります」ってうなずいて、すっきりきれいに論じられる人間が 強くてえらいんだと思ってた。
でも。
今は、ゆらぐ 曖昧な世界をそのままにしておけることが、とても安らかで心地いい。
そこには、自分がこうと思った どんな形も自由に創り出せるから。
そしてまた、これじゃないな と思ったものを 手放して、また新しく創る自由も 無限にあるから。
自分の意思が はっきり定まるまで、曖昧なものを曖昧なまま ふわっとたなごころに乗せておく、そんなしなやかな心持ちもいいものだな、と思うのです